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ヨハネ伝説教 第1回

――1:1によって――

 「初めに言葉があった」。――この聖句を聞く時、聖書の冒頭、創世記第1章1節の言葉、「初めに神は天と地を創造された」を思い起こす人は少なくないであろう。それは、たまたま「初めに」という言葉が共通しているというところからの連想だけでなく、この文章を書いたヨハネ自身の意図がそもそもそうだったからである。ヨハネは創世記と並び立つ文書をこれから書いて行こうとしている。
 「初めに神は天と地を創造された」。――これは聖書を読む人の心に最も深く刻み込まれた、また聖書の中では最も広く知られ、親しまれた聖句である。世界の本来の在り方がここで規定され、我々の生き方もこれによって規定されている。最も基本的な教理が教えられる、と言って良い。
 人々は今目の前にあるものを、見えているままに把握しようとし、把握したつもりになっている。今あるものは、昔から今ある通りにあったかのように見える。しかし、それでは本当のところが捉えられていない。初めに立ち返って見直すならば、初めは何もなかったことが分かる。何もないところに、神が無から存在を創造したもうた。私自身も神によって無から創造された。創造されたものとして、創造の目的に適った生き方をするほかない。ここで我々の在り方は絶対的に規定されているのである。
 このように、「初め」ということを教えられなければ、人は本来の状態を忘れて、多くの場合傲慢になる。さらに、我々はそこからなおも進んで、初めに対する「終わり」というものを思わなければならない。時が来れば、終わりなのだ。今あるものがそのままいつまでも続くわけではない。このように初めと終わりを見極める知恵を我々は持つ。
 ところで、今日、我々が聞くのは創世記冒頭の主題に匹敵する主題である。
ヨハネが創世記に対抗して「天地創造じゃない、言葉なのだ」と主張しようとしたのでないことは言うまでもない。天地の創造者なる神について、また神の創造の御業について教えることはもうない、と言おうとしたのでもない。しかし、神が創造したもうたということさえハッキリ教えられれば、それで十分だとは思っていない。もっとほかに明らかにされねばならないことがある。すなわち、ヨハネは天地創造の御業と並び立つ大いなる御業を現に見たのである。見たから、証ししないではおられない。
 それはイエス・キリストの出来事である。この福音書の20章の終わりにヨハネは記している。「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。――「初めに神は天と地を創造された」という言葉は我々を圧倒するほどの重みを持つが、それだけでは救いは十分確立しない。「こう信じれば救われる」と言い切れるものは明らかではなかった。この確かなものを提示するためには、福音書が書かれなければならない。
 17節に「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまことはイエス・キリストをとおして来た」と言われるように、モーセが言った以上のことをヨハネは言わなければならなかった。ヨハネにとってはイエス・キリストと出会ったことは天地創造に匹敵する出来事だ。
 ちょうど旧約と新約が必要なように、謂わば二本柱が打ち立てられねばならなかったと受け取って良いのではないか。簡単に言うならば、創造と救いである。この二本柱が我々の心にシッカリ据えられるようにしなければならない。「初めに言葉があった」という聖句は、創世記の初めの句に劣らず、我々の心に確立しなければならないのである。
 さて、「初めに言葉があった」という言い方が、深遠で難解な哲学の原理を語っているように印象づけられている人は少なくないであろう。初めにあったもの、それは全てに優先する根本原理であるという理解を人々は一般に抱いている。ギリシャ語でも「初め」(アルケー)という言葉は「根源」とか「原理」とも取れるのである。
 原理的なものが必要だという主張は重々もっともだ。例えば、家を建てる場合、雨露を凌ぐための屋根をどう掛けるか、家の見栄えをどのように良くしようか、というようなことを優先的に考えてはならない。最初は見えないところの基礎工事をシッカリやる。見た目に平であれば良いというのではなく、本当の水平面を作り出さなければならない。そうでないと、真っ直ぐに見えた建物が傾いて来る。そのように、家一つにしても本当に堅固に建て上げようとするならば、原理的なことをキチンと押さえておかねばならない。原理的なものを軽んじては失敗する。我々が生きるためにも、実用的なものや目に見えるものよりも原理的なものをシッカリ踏まえなければならない。
 そのように、深遠な哲理を否定する必要はない。しかし、そういう考えを今日読むテキストに当て嵌めるのが正しいか。難しいことを持ち出して、敬遠されるのも当然だという結果になってはいけないというのではない。何よりも、福音が福音として鳴り響くようにしなければならない。ここには深遠な原理が説かれているわけではないのだ。むしろ、平易な福音が教えられているのである。また、ヨハネが深く思索して彼独自の理論を打ち出したという理解は今のところ余り意味がない。
 たしかに、他の福音書のように、主イエス・キリストの言葉と出来事とを歴史として物語る方が、ヨハネが福音書の初めで言うような理屈っぽい言い方より聞きやすいという感じを与える。けれども、それは入り口に立った時の印象に過ぎないのであって、少しばかり踏み込んで考えるならば、そのような印象が立ち所に消え失せるということは、聖書を学んだ多くの人の経験したところである。
 言葉が初めにあった。その「言葉」とは何か。これは深遠な意味を持つのだと説明されることが多い。その説明は必ずしも間違ってはいないと思う。けれども、深遠な内容を聞いて考えることが出来るように予備訓練を受けた人でなければ、理解出来ないことが語られているのであろうか。そうではない。
 ヨハネは、後で14節に言うように「言葉が肉体となって我々のうちに宿った。我々はその栄光を見た」ということを証言しなければならないのである。すなわち、肉体となって我々のうちに来たりたもうたイエス・キリストの栄光を証ししたいのである。だから、「言葉」という抽象的な表現で言われたのが難しければ、これを「イエス・キリスト」と捉え直せば、難しさは解決する。確かに、キリストは初めからおられたのだ。ただ、それをここで特に「言葉」と呼んでいるのが何故であるかは明らかにする必要はあろう。
 「言葉」ロゴスについて多くの人が優れた註釈をしたのを引いて来るのは無駄ではない。しかしロゴスの語義を論じるよりも言葉の働きと意味を今は考えて見たい。言葉は人間にとって最も初歩的な出会い、最も初期の経験である。子供が生まれると、その子が何も分からないのに、親は語りかける。何かの理由で親がいない時には、それに代わる人が愛情をもって言葉を語りかける。その言葉は子供には理解も出来ないし、記憶にも残らないであろう。しかし、言葉を語り掛けられることは人間としての根源的な経験なのだ。すなわち、人と人との人格関係は言葉によって始まっている。もし、親が、この子はまだ言葉が分からないから、分かるようになるまで語ることを控えておこう、と考えるなら、それでも子は育って、言葉を使う人間になるであろうが、或る種の欠陥を抱えた人間になると言われる。人格形成の基礎が出来ていないのである。すなわち、初めの時期に、人間としてでなく、モノ扱いにされて育ったことによる欠陥である。
 言葉ということについて、さしあたって今言ったこの事を弁えて置けば良いであろう。言葉を聞き分けることがまるで出来ない赤ん坊に、母親が一生懸命に語りかける。それは母親の独り言で、赤ん坊にとっては言葉でなく単なる騒音の一種だと言う人がいる。それは違う。それは言葉以外の何物でもない。聞く方が分かっていなくても、言葉は言葉だ。この言葉の関係のうちに受け容れられて、人間は人間として歩み始める。
 神も語り掛けたもう。いや、むしろ、神こそ語ることを知り、語り掛けの本源だと言わねばならない。人と人とを繋ぐものとして言葉があることを踏まえて、神と人との間にも言葉があると考えるのではないのだ。神の言葉が先ずあって、それ故に人も言葉を持つことが出来る。というのは、人間は創造された時、「神の形」という特別な条件を与えられたからである。被造物の中で人間だけが言葉を使うことが出来るのはそれだからである。
 さらに、ここでついでに触れて置かねばならないのは、人間は立派に言葉を使うわけではない、という事実である。言葉の上手下手の問題ではない。言葉は本来真実でなければならないのに、本当らしく見せ掛けつつ偽りを言うことが多い。言葉がなければ実際の行動で示すほかないのであるが、言葉を使うことを知っているばかりに、まことしやかなウソを言うのである。人間の偽りは主として言葉の偽りだということを我々は知っているであろう。だから、人間の回復は特に言葉の回復でなければならない。
 さて、神が語っておられても、人は最初、分からないのである。神が語り掛けておられることにすら気付かない。それに気付くまで、随分時間が掛かる。次に、語り掛けておられる言葉の意味が分かるまでにも、長い期間が必要である。神の言葉を理解し、それに応答するまでに費やされる時も長い。その頃になってやっと、神の言葉ということが分かり始める。しかし、分かる以前から神の言葉はあったし、それは私に向けられていた。
 言葉とは何かという註釈を先ず聞かせてほしいと言う人がいると思うが、そういうことをしていると、入り口で迷路に嵌まり込む恐れがある。註釈は別の機会にして、我々はもっと単純な入り方をして良いのである。「初めに言葉があった」から、今すでに言葉のもとにいる、という事実から入れば良いのである。言葉は聞こえない時から聞いていたものである。今も聞いている。だから、分からなくても聞かなければならない。
 「初めに神が天と地を創造された」。これは初めのことであって、それ以前には何もなかった。それと同じように、「初めに言葉があった」。何もないところに神は語りたもう。言葉こそが初めであったのだ。初めに人間の求めがあって、その求めに対して神が語りたもうたとか、初めに人間の知恵や理解があって、神の言葉を聞き分けることが出来るから神が語りたもうた、というのでは全くない。言葉に先立つものは何もなかった。聞く人もいなかった。神の言葉は何もないところに語られ、言葉によって、聞く者を造り出した。今も御言葉が聞く人を造り出す。神の言葉に、このように聞く人を造り出す力があると信ずること、これが聞く態度なのだ。
 親と子の関係を例に、言葉が先ずあってこそ人格と人格の関係を作り出すということを先に見たのであるが、神と人との関係はそれ以上に人格的である。人格的とは砕いて言うならば、自分を与えることではないだろうか。与えることをしないで相手を道具とるならば、人間に対する関係でなく、モノに対する関係になってしまう。そして相手を人としてでなくモノとして扱うことによって、自分自身、人でなくモノになってしまう。それが罪の姿である。この罪を救うために救い主はご自身を与える。
 言葉とは、真実を吐露して、自分を相手に与えるものであって、自分を与えない言葉は口先の言葉、偽りの言葉、所謂リップサーヴィスである。神の言葉とは神がご自身を与えることである。イエス・キリストがご自身を与えたもうたのは、彼が神の言葉であったからである。神こそが自らを与えることの出来る方であるから、神にこそ言葉がある。言葉が与えられること、それが救いである。
 さて、「初めに言葉があった」という言い方は、これまで聖書に登場したことがない。そこで、これはギリシャの哲学思想からの借り物であるとか、ヨハネが新しく考え出した思想であるとか、説明されることがある。どちらも間違っている。これは旧約聖書で言われていたことを言い直したものである。
 箴言8章22節以下にこう書かれている。「主が昔その業をなし始められるとき、その業の初めとして、私を造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、私は立てられた。
まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、私はすでに生まれ、山もまだ定められず、丘もまだなかった時、私はすでに生まれた。すなわち、神がまだ地をも野をも、地の塵のもとをも造られなかった時である。彼が天を造り、海のおもてに大空を張られた時、私はそこにあった」。
 ここで「私」と、一人称で語っているのは「知恵」である。知恵と言葉は別の語であるが、同じものだということがユダヤ教の教師の一部で論じられていた。その解釈はもっともである。だからキリスト教ではその解釈を受け継いだ。もっとも、今日キリスト教会の中で箴言の8章が読まれ、説き明かされることは余りないようである。
 少し脇道に逸れることを話すが、我々の間で旧約聖書は無視されておらず、旧約聖書もキリスト証言だという理解は定着している。ヨハネ伝5章39節で主イエスはいわれる。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は私について証しするものである」。
旧約聖書をユダヤの書物として蔑視し、福音だけを強調するのは我々の取らないところである。しかし、我々が旧約聖書をシッカリ読んでいるかというと、律法と預言者と詩篇までは割合読んでいるとしても、箴言とか伝道の書とか、知恵文学と呼ばれる部類まではなかなか学びが及ばない。そこに永遠の知恵について語っているキリスト証言があっても、読み過ごしていたのだ。これらは旧約聖書の中で律法や預言より一段劣っているもの、というふうに何となく考えられているようである。そして知恵は大切には違いないが、信仰と比較して一段劣るものというふうに解釈されていた。
 これは確かに誤解である。その誤解のもとは、この知恵を人生知、世間知というふうに思い込み、信仰と比較して二次的なものと考えられたからであろう。なるほど、箴言を見ると、人生知として役立つ言葉も多い。「真実を言う唇はいつまでも保つ。偽りを言う舌は、ただ瞬きの間だけである」(12:19)とか、「急いで得た富は減る。少しずつ蓄える者はそれを増すことが出来る」(13:11)というような箴言は信仰のない人にも受け容れられるものである。しかし、そのような言い方ばかりではない。永遠の知恵が語られている。
 知恵は報いとして幸福を齎す、と約束され、平凡な現世主義になる傾向があるが、全体を通して読めば、知恵の根源に行かざるを得ない。それは神を恐れることであり、さらに遡れば、知恵こそが初めのものである。知恵によってこそ天地万物が出来たのである。
 さて、ヨハネは「知恵」を「言葉」と言い直しただけではない。明らかに内容的な修正を加えている。それは箴言で「その業の初めとして私を造られた」と言われた点の修正である。すなわち、箴言で読む限り、知恵は初めのものではあっても、神によって「造られた」と読めるのである。被造物であるとハッキリ言ったわけではないと解釈する余地はなくはない。それでも、被造物でない、とは言い切っていない。ヨハネはこの点をハッキリさせた。それをハッキリさせたのが「言葉は神であった」、「すべてのものはこれによって造られた」、「我々はその栄光を見た」という言い方である。
 「言葉は神と共にあった」と言う時の「神と共に」は箴言8:30「私はそのかたわらにあって」と訳された所に相当する。だから、これは修正ではない。だが、これにはまた「神に向いて」という意味がある。キリストが我々を父なる神に執り成すという意味である。
 人々がキリストを信じて救われるために、ヨハネは福音書を書いた。我々はそれを読んで理解に達するのではなく、信仰に達するという方向づけをしなければならない。そういう御方を信じるから、その信仰によって救いに入るのである。
1999.04.11.


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