イザヤ書講解説教 第9回
――2:5-6によって――
「ヤコブの家よ、さあ、我々は主の光りに歩もう」。
イザヤ書2章の2節から4節までの、終わりの日の預言については、多くの人々の間でしばしば論じられている。ところが、それに続く聖句について語られる機会は少ない。終わりの日の出来事に我々の関心を向けることは比較的容易と言えるかも知れない。特に今日のように、世界が訳の分からぬ戦争に巻き込まれている時代には、多くの人々の関心を引きつける御言葉である。だが、来たるべき日の幻に心燃えるだけであっては、現実に目をつぶったままにして、来たるべき日を夢見ることにならないとは限らない。御言葉はそこで終わっているのではない。その続きを聞かなければならない。
先に解き明かされた2節から4節の非常に有名な御言葉が、聞きっぱなしにされたままで良いものでないことは言うまでもない。一般的に言って、神の言葉は聞く者の応答を引き出すのであるが、特にこの御言葉はそうである。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いの事を学ばない」と主が語りたもうのを聞いて、ただただ感銘を受けて、それで終わるというものではない。
「ヤコブの家よ」。これは、神の民であると自認しているイスラエル民族への呼び掛けである。アブラハムの子イサクの子、それがヤコブであるが、このヤコブに主なる神はイスラエルという名を授け、イスラエルの家を起こしたもうた。先に、3節に「ヤコブの神の家」という言葉があったが、これはシオンにある主の宮のことである。「ヤコブの神の家へ行こう」と口々に言っているのは「多くの民」、「全ての国」とここで呼ばれている人々、すなわちイスラエル以外の異邦人である。
異邦人たちは地の果てからこぞって主の家に集まって来る、その情景が描かれたのである。では、ヤコブの家の者は何もしないで、怠惰にしていて良いのか。世界のうちの第一位の民として特権を持つのだと言って威張っておれば良いのであろうか。そうでないことは言うまでもない。
新約聖書の多くの箇所で教えられているように、イエス・キリストの時代のユダヤ人の多くは、選民としての優越感を持っていた。そして主イエスはそれに繰り返し警告をしておられた。今日の我々のうちにも、キリスト者の優越感に深く毒されている者は少なくない。だから、それらの横柄なクリスチャンはあの不信仰者たちは終わりの日に滅びるのだ、と言っている。終わりの日のそのような審判、報復、滅亡、そして信仰者に与えられる大きい幸いを中心的な教理として強調するキリスト教の分派も少なからずある。神の民に終わりの日の栄光が約束されていることは真実であるが、それはお伽話の中に出てくる逆転の成功物語りとは全く別である。
「他の民にはそれぞれの道がある。しかし、ヤコブの家よ、我々には我々の道がある。我々は我々の道を歩もうではないか」。それが5節の主旨である。
イザヤ書2章の初めの預言と同じものがミカ書4章にもあることを我々は知っている。そちらの方で、今日我々が学ぶところに相当するのは5節であるが、そこでは、「全ての民は各々その神の名によって歩む。しかし、我々は我々の神、主の名によって、とこしえに歩む」と言われている。
イザヤ書でも同じ事が語られていたと取ることが出来るであろう。しかしまた、若干違うと讀み取ることも出来る。
ミカ書の預言では、異邦人の今歩む歩みと、信仰の民の今歩む歩みが決定的に違うという点が強調される。異邦人はそれぞれの神の名によって歩んでいるのである。すなわち、彼らの神を偶像として建て上げて、それを拝むことを生活の基調にしている。我々は我々の神、主の名によって歩む。その違いを神の名の違いだけと見てはならない。唱える名が違うことによって一切が違うのである。
現在の歩みに関して言うならば、そういう違いがあることは歴然としている。しかし、終わりの日には、諸々の民も主の家の山に向かって進んで来るのであって、イスラエルが彼らと別の歩みをすると見るのは問題であろう。
終わりの日には異邦人も我々と同じように歩むのである。だが、その日までは、神の民と異邦人との歩みは異なる。では、どういうふうに異なるのか。その点について、イザヤ書2章5節は、詳しいことは語らない。「我々は主の光りに歩もう」というだけである。勿論、彼らは光りの内を歩むことは出来ない。 この言い方では言うべきことを言い尽くしていないという意味ではない。「主の光りに歩む」とは、もはや闇に陥ることのない祝福された歩みである。そしてそれは、終わりの日になって初めて見えてくる祝福ではなく、すでに今、光りの中を歩むことが出来ていることである。したがって、闇の業やそれと妥協することを捨てて、光りの子として、光りを受けた者に相応しく歩まなければならない。
もう一つのことを見て置こう。ここでは言葉としては言い表されていないので、取り立てて言うのは控え目にしなければならないが、イザヤ書の中に重要なテーマとしてしばしば現われる「残りの者」、あるいは「残された少数者」の歩みがここに暗示されていると讀み取ることは、誇張さえしなければ、間違いではない。終わりの日に向かって歩む我々の歩みは、我々に相応しく慎ましい、少数者の歩みである。しかし確信に満ちたものでなければならない。
その次に6節に差し掛かるのであるが、ここで我々は愕然とする言葉に出会って、打ちのめされてしまう。「あなたは、あなたの民ヤコブの家を捨てられた」。
ヤコブが神から捨てられたならば、もう望みはないのではないか。終わりの日の栄光が示され、その栄光に世界の人々が与るようになると約束されているのに、ヤコブの家自体は捨てられてしまったのか。
イザヤ書を読んで行けば明らかになって来るが、ヤコブは捨てられるだけでなく、回復される。しかし、今ここで、捨てられたけれどもまた回復されるのだ、と論じているならば、それで正しいのであるが、ここで特に強調しようとすることがスッキリ見えなくなるから、回復のことは省略する。
ところで、6節の初めに語られる言葉は、余りに唐突であるため、これは別の機会に語られたものではないか、と想像する人もいるのである。5節と6節が続いていて、一息に読まなければならないと主張する証拠になるものは何もない。だから、もともと別の文脈のもとにあった言葉が、偶然に、あるいは軽々しい編集意図によって繋ぎ合わせられたのだ、という議論がでても、我々には十分な反論が出来ないかも知れない。
それにしても、我々にとって意外だから、あるいは我々にとって難解だから、この句を別の箇所に移すというようなことを人々が勝手に始めたなら、書かれた御言葉は読む人の都合と好みによってどうにでも動かすことが出来るようになり、御言葉を聞くのでなく、御言葉を作り出す、つまり、人間が見て御言葉らしいと思われるものを作り上げることになるのではないか。それは、木や石を取ってきて、神らしく思われる形を刻むのと同じになってしまうであろう。
6節は5節に続いて語られたのではないかも知れない、と言うことまでは出来るであろう。それでも、我々には、それを続けて読み、そのように続いたものとして讀み解くことによって、御言葉をより深く、より適切に把握することが促されていると理解するほかないであろう。
すなわち、神は異邦人もついにはそこへ引き寄せられずにおられない真理の言葉を、以前からイスラエルに示したもうた。にも拘わらず、イスラエル自身はそれを聞くに全く相応しくなく、ために、神から捨てられた、という現実がある。その厳しい現実に、ここで一度立ち返っておくことは決して無駄ではない。
ただし、神が掌を返すように、これまでの約束を破棄して、イスラエルを見捨てたもうたというのではない。捨てられた原因はヤコブの側にあった。それは、6節の2行目以下が言う通りである。「これは、彼らが東の国からの占い師をもって満たし、ペリシテ人のように占い者となり、外国人と同盟を結んだからである」。
神がイスラエルを捨てたもうたのは、「憐れもうとする者を憐れみ、頑なにしようとする者を頑なにする」全能の神の決定によるのである。人々が態度を改めたくらいでは変わることはない。次の時代にエルサレムは完全に滅んでしまう。そういう厳しいものであるが、直接原因となっているのは、イスラエルのハッキリした背反である。9節には「どうか彼らをお赦しにならぬように」と言われる。
神に対する背反が続いて幾項目も挙げられるのであるが、背反として先ず上げられるのは、占いの導入である。占いについてはレビ記19章21節、申命記18章10節その他多くの箇所で禁止されている。この禁止条項は非常に古い時代から占いがあったことを物語っている。神のみこころを問うことは間違ったことではない。ただし、それは祈りという形で行なわれる。
神のみこころは本来は隠されるものである。箴言25章2節に、「事を隠すのは神の誉れであり、事を窮めるのは王の誉れである」と言われるが、神が隠したもうと承知することこそ人間の知恵にかなう。ただし、信仰をもって隠された御旨を問うことは許される。信仰によらないで問うこと、これは正規の道ではない。それが占いである。正規でないところから、神以外のものに問うのである。これは魔術の一種である。そして、隠されたこと、つまり人々が運命と呼んでいるものを、自分の知識のうちに取り入れることに、人は魅力を感じている。それをさらに盛んにするのが世界と人生に満ちている不安である。普段は占いを馬鹿にしていた人も、不幸が襲って来たり、不幸の予感があると、占い師のもとに走る。そういうことはイスラエルの中にも入って来た。
人間本性の弱みから占いが始まるのであるが、律法の規制のもとでは発達は抑制される。だから、イスラエルでは抑圧され、外国でこれが発達する。そして発達してからイスラエルに入って来た。すなわち、神の律法を守ろうとの熱意の失せたとき、さらに加えて占いを求める気持ちが促されるような不安の高じる時期に、そうなる。
イスラエルのうちには占い師がいないので、東の国からこれを招き入れたのである。東の国とはアッシリアであろうか。しかし、東から占い師が招かれただけではない。西のペリシテからも占いの手法が入って来た。恐らく、占いの道具あるいは手順をペリシテの真似をして採り入れたということであろう。そして、イスラエル自身が占いを自分で行なうようになった。
次の「外国人と同盟を結ぶ」というのは何を言うのであろうか。外国との軍事同盟のことであろうか。そうかも知れない。イザヤ書20章には、預言者イザヤがエジプトとの軍事同盟に反対し、3年に亘って、裸、裸足で町中を歩き回って、ユダの頼りとするエジプトはこうなると告げたという事件が記されている。
外国と軍事同盟を結ぶことを全ての預言者が徹底的に反対した歴史は我々の間ではかなり知れ渡っている。それを預言者たちの時代認識や政治意識の鋭さというふうに受け取る人は少なくないが、その解釈は正しくない。預言者が政治的に優れた見解を持っていたことはその通りかも知れない。しかし、そうであったとしても、彼らが軍事同盟に反対したのは、政治家としての見識が高かったからではない。
彼らはイスラエルの預言者なるが故に、この軍事同盟の政策に反対したのである。
すなわち、イスラエルが国として立つのは、主なる神との契約によって立つ民の国だからである。武装や軍備や他国との共同防衛の国策のゆえに国が立つのではない。こういうことは、先に触れた20章だけでなく、至る所にあるが、詳しく、また具体的には7章で学ぶことが出来る。そこでは、「もしあなた方が信じないならば、立つことは出来ない」と言われる。
代表的かつ典型的な御言葉は30章15節である。「あなた方は立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば、力を得る」。
神に信頼して寄り頼むという契約関係、これがイスラエル国の安全保障なので。神に寄り頼まず、武器の数、軍馬の数、また軍事同盟の抑止力で防衛しようとする国は、没落するのである。実際、ユダの国は、再三の預言者の警告に聞き従わなかったために滅び、再建出来なくなったではないか。すなわち、他の国が行なうような防衛政策によって存立を図る国は、神の民の建てる国ではない。そのような国は世の国々と変わらないから、それらの国々とおなじように滅びて当然なのである。
我々の主イエス・キリストが、ピラトの前で「私の王国はこの世のものではない」と言われたことをここで思い起こすのである。「もし、この世のものであったなら、私の民は私を敵に渡さないように戦ったであろう」と続けて言われた。
同盟を結ぶというのは、そのように国と国との共同防衛の同盟だけを指すのではないかも知れない。国と国との平和な関係も契約であるが、これは禁じられてはいない。例えば、ダビデはツロの王と契約を結んでいた。
族長アブラハムは他の民族の族長や王と契約の関係を持った。例えばゲラルの王アビメレクと井戸の所有権について契約を結んだことが創世記21章に書かれている。他民族と戦わなければならないのが神の選民の使命だと考える解釈が昔もあり、今も支持する人が多いが、それが間違いであることは、平和の主イエス・キリストの来臨の後には全くハッキリしている。
主なる神がモーセに命じておられる言葉がある。出エジプト記34章12節にこう記される。「あなたが行く国に住んでいる者と契約を結ばないように気を付けなければならない。恐らく彼らはあなたの内にあって、罠となるであろう」。これはどうなるであろうか。
契約関係は相互に尊重し合う平和な関係のようではあるが、容易に凭れ合い、なれ合いの関係になってしまう。そしてお互い悪いところを真似し合うことになるり勝ちである。相手の拝んでいる神を拝むようなことも容易に入り込む。
敵を愛し、あなた方を責める者のために祈れ、というのがイエス・キリストの教えであるから、旧約のどのような言葉も主イエスの平和の言葉によって解釈されなければならないことは言うまでもない。したがって、人々と和解の契約が立てられることには何ら支障はない。主が忌避したもうのは、唯一の主が唯一であられることを曖昧にするような単なる見せ掛けの平和である。そこに神から捨てらるべきものと見られる場合もある。
これは人間の目にも明らかに捨てらるべきものと見えるということではない。むしろ、世間並みに、他の国々並に栄えていると見える状態なのだ。それが神から捨てられた状態だということを我々は知らなければならない。
2003.07.06.ヨハネ伝講解説教 第155回――15:13-15によって―― 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。この聖句が聖書の中で最も有名であるとか、あるいは重要であるとは言えないかも知れない。また、これは余りに重すぎる言葉だとして尻込みして、まともに向き合うことを避ける人も多いであろう。しかし、これはよく聞かなければならない主の言葉である。
また、この言葉が正しくない意図をもって、あるいは曲げられた解釈にしたがって利用されることがある。例えば、戦争の時代に、キリスト者の間では、戦争のために命を捨てるのはこの上ない愛の行為である、と力を入れて教えられていた。その教えをマトモに受け取って、戦争の虚妄を見抜こうとしないままに戦争に参加して死んで行った人がいる。教会で教えられたことを疑わなかった人の単純さを批判するのは余りに酷なことかも知れない。しかし、国のために命を落とすことが愛の業の極致であると教えて良かったのか。教会がそのような好い加減な聖書解釈を踏まえた説教をして、主の咎めを受けずに済むのであろうか。
昨今、人々の身勝手な振る舞いは目に余るものがある。そこで、人々のため、国のために犠牲を厭ってはならない、と論じる人が増えて来た。それが尤もなことであると多くの人は支持を与えているようである。こうして人々の行動と思想を国家的に統制しなければならない、と政治家たちは主張し始めた。その場合の善悪の規準はどこにあるかを問いただすと、権力を持つ者の好き嫌いに過ぎないことが露わになって来る。つまり、権力のない人々が犠牲にされることによって、世の中が統制される。そのような秩序が貴い、と教えられるようになっている。
このような悪しき時代の中で、キリストの民が、この世の権力の押し付けて来る考え方に同調しないで、主の言葉を正しく、堅固に、そして深く解き明かす道を守り抜かねばならない。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。このことを主イエスは、第一に、御自身に関する事として語りたもうた。「人が……」と言われたのであるから、どの人にも適用できる。しかし、第一に、主御自身のなしたもうた御業をシッカリ捉えなければならない。そうしなければ、焦点が拡散してしまう。国のために死ぬことの意義について、教会が一番熱心に宣伝したというような忌まわしい事件は、この点の誤りから始まったと見るべきである。
特に今日、我々に差し出されている御言葉は、主イエスが十字架の死を目前にして語っておかれた箇所であって、彼の死が何であるかを教えようとされた宣言である。
すなわち、前の節で、「私があなた方を愛したように、云々」と言われたが、その愛をさらに具体的に示されたのである。
「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と命じられたのであるから、「私があなた方のために命を捨てるように、あなた方も互いのために命を捨てるべきである」という意味になるのは当然である。だから、ヨハネの第一の手紙3章16節に、「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った。それ故に、私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである」と言われるのは当然の結論である。
しかし、繰り返し注意しなければならないが、キリストの死、キリストの愛がどういうものであるかを、醒めた目でシッカリ掴まないままで、キリストの死が横滑りさせて持って来たなら我々の死の意義づけになると思うならば、飛んでもない間違いである。キリストの死が愛の表れであり、そこに表された愛が最大・最高の愛であるということはその通りであるが、そう言うだけではキリストの愛の実体、その愛の本当の意義は言い表されていないのである。
主は私のために命を捨てたもうた。それを愛の単なる表れとして見、またそこに絶大な表れががあると見るだけでも、感動はするであろう。だが、これを見るだけでは愛の明確な認識ではない。それ以上のことは出て来ない。
10章11節で、主は、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われた。これを今思い出さなければならない。羊飼いには羊の命を守るという職務があり、その職務のために命を投げ出すのである。
良き羊飼いでない羊飼いは、その次の節で語られた通り、狼が来れば羊を捨てて逃げるのである。そして、羊の群れは全滅する。では、良き羊飼いが命を落としたならば、狼は次に羊の群れを絶滅させるということになるではないか。そういうことが言われたのでないことは勿論である。
主イエスがここで言っておられる「命を捨てる」ことは、羊を守るためではあるが、狼と戦って食い殺されるというような意味ではない。羊飼いの命を捨てることによって、羊の命が贖われること、救うことである。これが「命を捨てる」ということの実質の意味である。
我々が兄弟のために命を捨てるのは愛の表れであり、愛に偽りがないことの証しであるし、そこに表された愛は確かに大いなる愛である。表れという点ではキリストの死と殆ど同じに見えるかも知れない。けれども、その愛によって兄弟の命を贖って、永遠の命を得させることにはならないのである。我々には人の命を贖う資格はない。
贖い主は神のみである。
それでも、主が我々のために命を捨てて下さったからには、我々も兄弟のために命を捨てる必要ある場合には、命を捨てることが出来るように、普段から用意をし、修練を積んで置かねばならない。「命を捨てることよりも大きい愛はない」と言われたのは、「みんなが私に倣って命を捨てよ」という意味ではないし、命を捨てないなら愛としてまともでない、と取るべきではない。命を捨てていないことの自己弁護をしてはならないが、兄弟のために必ず命を捨てよと命じられるのではない。
余裕のある時には、「兄弟愛、兄弟愛」としきりに言っているけれども、一つしかない物を半分に割って分け合わねばならない場合があると、一つだけ自分が持っていることを人に気付かれないように隠そうという誘惑が多くの人にあるではないか。
もっとも、多くの場合、一つしかない物を割って分け合うことはそれほどの困難なしに出来る。これが通常の愛の業である。
しかし、分け合うことの出来ない場合もある。一つしか救命具がなく、それを二つに切り裂くならば二つとも用をなさなくなる。そういう時には、一人がこれを取り、もう一人はそれを譲るのである。口先だけの愛でなかったことは、そういう所でハッキリ証明される。それは、或る意味でイエス・キリストの死に倣った愛の業であると言えなくないが、実質は非常に違うのである。兄弟のために死ぬことが出来るように修練することが大事だと先に言ったが、このことは慎ましく考えるべきである。大袈裟に論じては、空しい言葉になる恐れがある。
兄弟のために命を捨てるのが本来の本当の愛であると考えるのは、間違いとは言わないが、危険な試みである。自分を試み、人を試み、神を試みることになる。
むしろ、慎ましく考えて、基本的には、乏しい物を互いに分かち合うこととして捉えて置くべきである。そのような修練が出来ていない人が、いざという時、兄弟のために命を捨てることは決して起こらない。
ところで、ここには「友のために命を捨てる」と言われるのであるが、友のために命を捨てるよりも、敵のために命を捨てるほうがもっと大きい愛である、と言うべきではないかと疑問に思う人があるかも知れない。なるほど、ローマ書5章7節以下には、「正しい人のために死ぬ者は殆どいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、私たちのキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである」と言われる。
10節ではさらに「私たちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、うんぬん」と言う。友は愛する者、価値ある者であり、死んでくれては困る人である。敵はその反対である。が、神は敵である者のために御子を死に渡したもうた。
しかし、ヨハネ伝15章で「友のために命を捨てる」と言われたのは、「敵のためには命を捨てない」ということではない。たしかに、ここには誰のためにもという意味はない。友のための死だけが取り上げられる。「神の友」という言葉については前にも触れたことがあるが、この名で呼ばれる前例は旧約時代には非常に少なかった。しかし、新約の時代には友と呼ばれる特権を受ける人は少なくない。
次に、「あなた方に私が命じることを行なうならば、あなた方は私の友である。私はもう、あなた方を僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなた方を友と呼んだ。私の父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである」と言われる。
「友のため」という言葉が前の節にあったが、その「友」というのはどういう人なのかが、ここで説明されるのである。ここに用いられている「友」という言葉は、福音書ではルカ伝とヨハネ伝にしか使われていない「フィロス」という言葉である。では、言葉の意味はどうなのか。「友」と訳されている類似語との意味の違いについて論じることはかなり難しい。
しかし、今、「友」という言葉の詳しい意味合いについて、立ち入った議論をしなくて良いのだと思う。というのは、主イエスは15節で「友」と「僕」を対比させることによって言葉の意味を浮かび上がらせておられるからである。
弟子たちはこれまで、イエスを「主よ」と呼んで来た。彼らが主イエスを呼んだ呼び方は、実際は「ラビ」、「先生」であったと思われるが、先生と弟子の関係は決して逆転しない関係である。それは「主」あるいは主人と「僕」の関係でも同じである。今後もそうである。「主人」に対応するのが「僕」である。今後も主人は主人であり、僕は僕であることに変わりはない。
では「もう僕と呼ばない」と主イエスが言われるのは、関係に変化があったという意味ではない。あなた方に知らせるべきことを悉く告げ終わったから、もはやあなた方は僕でなく、友である、という意味である。そこで知らせるべきこととして知らせられたのがこの二点である。
第一に、「あなた方に私が命じることを、あなた方が行なうならば、あなた方は私の友である」と言われる。友は同じ心を持つから、俗に言うツーカーの関係であって、一方の欲することを他方は知って実行するのである。ここでは新しいことが命じられたとは思われないかも知れないが、13章34節で聞いたように、「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい」と言われた。これは以前から聞いたことではあるが、また新しく聞いたことである。これを聞くとは、聞き従うこと、実行することである。それを行なうならば、あなた方はキリストの友なのである。互いに愛し合う共同体がキリストの友の共同体なのだ。
これは実行とか服従を強調しているかのようであるが、行なうのは知ったから行なうということである。また、ここには行ないによって恵みが勝ち取られるという意味がこめられていると見てはならない。
第二点を見る。「僕は主人のしていることを知らない」。僕はただただ服従するのである。命令されたことを実行するのに、主人の考えを説明されて理解していることは必要でない。旧約時代の神の民は、僕ではあったが、主なる神の御心を悉く知っていたわけではなかった。これが旧約の民の律法厳守の態度に窺われる。彼らは律法を守ることには熱心であったが、律法の意味は知らされてはいない。守らなければ罰せられるから、恐れて守るのである。守ることは守るが、自由がない。
主イエスはここに旧約の民と新約の民との相違を示したもうた。謂わば、主人の僕と主人の友の違いになぞらえることが出来る。その違いは一口で言うならば認識である。では、何を知るのか。第一に、主そのものを知るのである。だから、主はもはや遠い方や赤の他人ではない。第二に、主の意図を知るのである。「僕は主人のしていることを知らない。私は私の父から聞いたことを皆、あなた方に知らせた」。したがって、あなた方は私の知ることは全て知っているのである。
では、キリスト者はキリストと同格なのか。――そのように考えるのは、人間の思い上がりを促すことになって危険であると見られるであろう。けれども、キリスト者は或る意味でキリストの友である。キリストはそう呼んでくださる。だから、自由なのである。恐る恐る近寄るというようなことはない。
キリストそのものを知ると言ったが、例えば、この世で偉いと言われる人に会おうとすると、紹介状があって、何重にも関門を通って、やっと会える。ところが、キリストと会うためには、紹介状も要らない。仲介者も要らない。直々に主にお目通りが適うのである。12章20節で読んだことであったが、祭りで礼拝するために上って来た人々のうちに、数人のギリシャ人がいて、彼らはベツサイダ出のピリポを介してイエスにお目に掛かろうとした。ピリポはさらにアンデレと相談して、二人で主イエスのもとに行ってギリシャ人の申し入れを伝えた。
これまで全く主イエスに会ったことのない人は、このような紹介が要るかも知れない。しかし、一旦道がついたならば、以後は直接主の前に行くことが出来るのである。それはまた、主が「人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない」と言われたのと同じことである。キリストはこうして我々と親しく、そして深く交わりたもうのである。