2010.07.25.

イザヤ書講解説教 第84

――
40:12-26によって――

  神が大能をもって来られることについて先に聞いた。大能をもって来られるとは滅ぼし尽くすためか。そうではない、その神はまた、群を牧する羊飼いのように、心を籠めて傷ついた群れを癒して養いたもうということも聞いた。
 その神が他のもの、すなわち造られたもの、まして造られた人間によって造られたものである偶像と、比較のしようもない神、創造主であられることが、今日聞く12節以下で学ぶ内容である。
 12節、「誰がたなごころをもって海を計り、地の塵を枡に盛り、天秤をもってもろもろの山を秤り、秤りをもってもろもろの丘をはかったか」。――漫画の画面ではない。
 人が例えば市場で布地を買う。その時、最後には物差しで測って代価を決めるのだが、差し当たって手を広げておよその寸法を測る。手を広げても測れない粒の集まりのようなものや液体の体積は、枡に入れて計る。重さのあるものは、天秤を持ってきて計る。自分にとってどれだけ必要かを考える。しかし、海の水をはかることは出来ない。地の塵をはかることも出来ない。山の重さをはかることも出来ない。それらは計るに余りにも大きく、計ろうとする人間が余りにも小さい存在だという比較は論じるまでもない。
 むしろ、ここでは、これを計ることが出来るのは神だけだという考えに切り替えなければならない。神にそれが出来るというのは、お伽話ではない。神にはそれが出来るという感銘を受けないではおられない。また単に大いなる能力があるという問題でなく、神には天と地と海との創造者また支配者であり、その支配のもとにある一切がどれだけあって、どういう状態にあるかを知り抜いておられることを教えられずにはおられない。いや、それだけではない。神と神によって計られる天地、またそれらを計量することの出来ない人間、その大小が比較されているだけでなく、神にのみ讃美が帰せられるということを我々は心に刻まなければならない。
 次に13節に進む。「誰が主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。主は誰と相談して悟りを得たか。誰が主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか」と言われる。
 論法としては先の節と同じであって、比較と言う説明ではどうにもならないもの、今度は神の知恵、また霊的である神の存在で、比べようもなく、たとえようもないほど大きいことを語っている。ここでも言葉の解説の必要はない。だが、我々にはこの知恵というものの意味が分かっているのであろうか、と問われる。
 主の霊を導き教えることが誰に出来るかという問題であるが、「主の霊」ということがすでに我々の比較の能力を超えている。我々にも自らの霊があって、その霊が導かれて知識と知恵に達するが、主にも主の霊があり、その霊を導くとはどういうことかを先ず考えねばならない。そこで我々の考える能力は限界を越えてしまって、分からなくなる。だから、主の霊を導くとか教えるという時の主の霊については今日は触れないでおこう。ここでは単純に霊なる神を教えることは出来ないと言って置こう。
 神を教える者も、神の相談役となる者もいないことは分かる。教える者に必要なのは知識であり、相談役に必要なのは知恵である。教える教師には教えられる生徒より多くの知識が必要だが、相談役にはさらに多くの知識、むしろより深い知恵が必要である。神の前に立つ時、神にあって我々にないのが知識と知恵だということが分かる。
 「相談役」ということについて考えて置こう。旧約聖書には「相談役」という言葉が割合よく出て来ることに我々は気付いているが、現代の我々の生活の中では相談役という言葉そのものが殆ど使われておらず、その必要も忘れられているようである。
 知識というものは、あるところからないところに伝達されるものだと人は知っている。だから知識のない人はある人からそれを得て来る。水が高い所から低い所に流れるように、知識は高いところから低い方へ流れる。そして水位差がなくなるまで行くと流れは止まる。知識の落差がなくなれば、人はもうこれ以上学ぶことはないと思う。
 しかし、そう言うだけで良いのであろうか。教師はもう要らないのか。教えられるということなら、一定基準に達すれば教師はもう要らないと言って良いかも知れない。しかし、「相談役」はその後も必要である。相談役は教えない。黙っている。相
談を受けたなら答える。あるいは一緒に考えてくれる。そういう人が必要だということについては説明を省略して良いのではないか。
 務めを持っている人は、その務めを遂行する権限を委ねられている。だから、その権限をもって決め、決めたことを実行する。だが、決める前に相談した方が良い場合がある。相談して、初めの考えを練り直す場合がある。そのように、相談によってより深い知恵が引き出されることが必要である。人は最低限、自分自身と相談することを欠かしてはならない。知識は相談しても増えないが、知恵は相談によって深くなる。知恵を教え、あるいは引き出して深めてくれるのが相談役である。
 知恵と知識の違いについて分かったと思う人は多いが、本当は良く分からない。実際、この二つの言葉を区別なしに使う場合が多い。脳の研究は随分進んだが、脳のどの部分に知識が入り、どの部分に知恵が入っているかを弁えている人はいない。それでも働き方の違いがあることを我々は知っている。知識なら脳に入り切らなくても百科事典に入れて置いて、必要に応じて取り出せる。ただし、その知識をどういうふうに用いるかについては、書物では分からないし、コンピューターも教えてくれない。自分の頭で考える他ない。そこに知恵の働き場がある。或いは、知識は機械に記憶させることが出来るが、知恵というものは生命や生活のない仕組みに保存させようとしても出来ない。
 今論じていることは、今日の聖書の学びにとってさほど意味あることとは思われないので、ここで止めて置くが、人として生きて行く時、知識は必要であるが、相談役によって導かれるような知恵とか叡知というものがあるかないかは大違いである。
 人は必ずしも教えられなくても、社会生活を重ねて行く間に知識と知恵とを獲得して行く。その獲得を効率よく行なわせるのが学校だと言われるが、学校にもいろいろある。自分の利益になる知識しか教えない学校もあり、他の人のためになる知識を学ばせる学校もある。最高の学びは永遠の命と永遠の知識を教える神の学校である。
 12節から学んで来たことは、主なる神にある知識と知恵である。誰が主に知識や知恵を教えたか。その答えは語られていないが、答えがなくても分かっている。誰も神を教えることは出来ない。いや、神は初めから知っておられると言うべきである。神こそ知識と知恵との根源である。人は自分以外の所から知識と知恵を汲んで来るが、神は御自身がその源泉でありたもう。そこにこそ源泉があることを知るのが我々の知識である。
 14節に主の知りたもうことが集約されているが、量的に大きいと捉えているだけでは正しくない。今日、人類は知識というものがどのように獲得され、蓄積され、活用されるかの仕組みの解明が出来たと思っている。その仕組みは部分的にはコンピューターにやらせることが出来ると人々は考える。だから、巨大なビルディングを建てて、そこに収まるような世界一巨大なコンピューターを造れば、それによってこれまで解決出来なかった問題が解けると考えられている。解けない問題があれば、もっと大きいコンピューターを造ればよいと言われる。それでも、あらゆる問題が解けると言う人はいないようであるが、その方向に向かって世が進んでいると考える人は少なくない。
 かつて人間は、天に達する程の高い塔を建てれば、洪水の禍いを逃れることが出来ると考え、バベルの塔の工事を始めた。そして破綻した。今日の世界一のコンピューターという考えはバベルの塔の発想と似ている。
 聖書はどう言うか。「誰が主に公義の道を教えたか」。ここに結論が示されている。子供に数式を教えれば、子供はそれを覚え、それを使って計算をすることが出来る。世界の支配をする神に、世界秩序の原理である公義を誰かが教えたか。――誰も
いないではないか。誰も教えないのに、主は知っておられる。さらに言うならば、主以外の誰も公義の道を知らない。
 「公義」と訳されたのは「義」という言葉である。この言葉はここ以後ますます重要になって来る。例えば、421節で「私の支持する我が僕を見よ、……彼はもろもろの国びとに公義の道を示す」と言う。日本語の聖書翻訳では、ここで公義、あるいは義という言葉を使わず、他の訳語を宛てているが、ここでは我々に馴染みある言葉では「義の道を示す」と言われているのである。その「義」は我々が新約聖書のローマ書でしきりに教えられている「神の義」すなわち福音によってこそ現われるものに他ならない。その一点を指摘するだけで事の重要さは分かって貰えると思う。
 公義と訳される「ミシュパト」はいろいろに訳される言葉である。だから、いろいろな訳し方がそれなりの理由付けをもって行なわれているが、我々は「神の義」ということが旧約から新約にかけて貫かれている一本の基本線であるから、この基本線に沿って読んで行かなければ、聖書を読む意味はないと思う。それが読み取れない訳し方ではまずいのである。
 公義と訳した人は「信仰の義」というところに使われるような意味では内面的に傾き過ぎると恐れて、世界に通じる正義という意味で「公義」という訳語を選んだと思う。新共同訳では「裁きの道」と訳したが、世で行なわれる全ての裁きの原理となるもの、という意味を表そうとした。「正義」という意味に取ろうとする人もいる。「自然の理」という時の「理」、「原理」と取る人もいる。
 自然科学を研究する人は、自然が原理に立っているのであって、その原理を追い求めるのが使命だと言う。それはその通りである。そういう原理はもともとあったものを人間が後になって発見したのであって、神は初めからそれを知っておられた。人がそれを知ろうとするのに反論する必要はない。それを知ること自体には間違いはないと言える。しかし、真実なことであるから、どこまでも究明することが出来ると言うべきではない。神の知りたもう領域に踏み込む恐れがなければならない。また、その原理を応用する場合、間違いをしないことはむしろ稀である。原理の応用が利益追求に他ならない場合がある。人は慎みを持たねばならないのである。
 公義というものの観念が人類の知識の発展にともなって多様化し、一つの言葉によっては表せなくなった。そこで元の言葉が幾通りにも訳されることになる。それはそれで良いが、最も適切な訳語を見つけなければならない。最も適切なものでない訳
語が当てはめられると、読み取るべき意味が隠されてしまう危険がある。先にも触れたように、ここでは「神の義」という原理を読み落とすことにならない読み方が必要である。
 「誰が主に知識を教え、悟りの道を示したか」と言われる時の「知識」についてはすでに触れた。「悟り」に関しては、すでに述べた「知恵」と同じだと言って良いのではないか。すなわち、知識と知恵を一応区別した時、知識は教えによって得られるもの、知恵は相談によって深められるものとして捉えたが、14節では「主は誰と相談して悟りを得たか」と言われる。相談に対応するのは悟りである。知識の必要なことを否定する人はいない。それに加えて悟りの必要を学び取って置きたい。
 18節に飛ぶが、今日最後に学ぶ点は造り主なる神と、造られた人間の造る物「偶像」との対比である。造られた人間は造りたもうた主の前に何一つ主張することが出来ない。神讃美しかない。ところが神讃美を差し置いて、人は何かを造り始める。わ
けても「像」を造ることが問題なのだ。像を造ることを知った動物は人間だけである。人間は像を造ってそれを神とした。つまり神の代わりになるものを造って、事実それを神とした。
 偶像に関しては十誡の第二項で像を造るな、これを拝むな、と禁じられる。拝むなということについては良く理解されているが、造るなと言われている点については余り注意されていない。これは次回に学ぶことにする。

 

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