2010.06.27.

イザヤ書講解説教 第83

――
40:6-11によって――

 「呼ばわる者の声」という言葉が前回3節の初めにあった。その声は5節まで続く。今回の冒頭6節でも「声が聞こえる『呼ばわれ』」に始まる。さきのと同一の声でないことは明らかである。今回のところでは、直ちに「何と呼ばわりましょうか」と私が尋ね、主がその内容を答えたもう。

 3節以下の声が主なる神の声であることは明らかだから、主の声といわず「呼ばわる者の声」と匿名扱いにするのはおかしい。が、これは次に預言者が「何と呼ばわりましょうか」と言っているのと対応してこうなったのであろう。すなわち「私」が使命を受けて呼ばわるのであるが、その「私」、その負う「務め」、いやむしろ負わせられている「言葉」、この「言葉」に重きが置かれるのであって、声の主の名を明らかにしなければならないというものではない。

 ここでは語る「私」、語る人間に重点が掛かっているのではない。すでに見て来たことであるが、イザヤ書の1章から39章までの部分で、神の言葉を語れと命じられ、語るべき言葉を託せられた、アモツの子イザヤという人物について、我々はかなり多くのことを聞いてきた。彼の個性、彼の生き方、彼の人となりも分かっている。ところが、40章以下の預言の語り手については、その人柄や、彼の置かれた状況について我々は何も知らない。その顔を想像することも出来ない。預言者も匿名なのだ。だが、匿名であるとは、責任が曖昧であるとか、語ることが不明確だということとは全く違う。

 ということは、どういう意味なのか。我々も匿名で、しかし語るべき内容だけは大胆に語らねばならないということか。ここではそういう主旨でない。我々の語り方が教えられているのではなく、ただ、語らせられている言葉そのものについて自らシッカリ把握し、これをハッキリと主の民に告げなければならないということだけを確認する。

 さて、6節に至って「呼ばわれ」という声が届いた時、預言者は、これまでは聞く立場であって、聞く言葉の中味の深さを味わっていたのだが、今や、使命が明らかになったからには、「私が呼ばわらなければならないのだ」と確認させられる。だがそれと同時に、何と呼ばわるべきかが分かっていないことに気付くのである。

 これは、語るべきことを何ひとつ持っていない無知で空白な状態に預言者があったということなのか。そう取っても良かろう。あるいは、世界と国々の成り行き、人々と己れ自身の救いについて、常々考えている人であったが、今務めを帯びて語るのは、自分の思想や自分の言葉ではないのだから、何を語るべきかは、全面的に神から聞き取らなければならないということなのか。そう取った方が良かろう。

 だが、それも大したことではない。問題にするほどのことではない。たしかに、考えている人だから預言者として召された、と言うべきではない。神の言葉を宣べ伝える預言者は、自分の言葉を神の言葉に近づけて、神の言葉らしく聞けるように手を入れる人ではない。神が「語れ」と命じたもうた言葉を、そのまま語るのである。

 語らせられる主題は、第一に、「人はみな草だ」ということである。それは野の草、荒野に生えた草を指していると見て良いであろう。繁るというほどではないが、荒野でも草は育つ。定まった季節になると草は一斉に伸び、花をつけ、やがて枯れる。一時期だけではあるが美しい。人間もそれなりに美しい。主イエスは野の花がソロモンの装いよりも美しいと言われたが、これは真理の言葉だ。

 しかし、野の草の美しさが示されることは真実であるが、それは一時に過ぎない。その時だけしか見られない。忽ちに枯れてしまう。人間もみなそのようである。常に美しいというのでは決してない。

 ただし、ここでは一時の美しさしかないということを教訓にしているのではない。草になぞらえられる人間が、そのものとして論じられているのではない。あるいは特定の時期との関連で語られたのではない。「主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花は凋む」と言われるのである。草に過ぎないものである人間は、「主の息」との関連で立ちもし、倒れもする。人間にでなく「主の息」に目が向かわなければならない。

 「主の息がその上に吹けば枯れてしまう」。――これは荒野を吹き抜ける熱風が忽ちにして草を枯らしてしまうことを指すのである。ただの風であっても「主の息」と見ることが出来るのであるが、時ならぬ季節に吹いて来て草を枯らしてしまう熱風は、神の特別な御業であると捉えなければならない。

 だが今は「主の息」いう言葉について我々がもっと多くのことを聞いて来たことに気付かなければならない。例えば創世記27節は言う、「主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きたものとなった」。神の息が人に「命」を入れたのである。「神の息」とは生命の源であるが、それは「神の霊」である。

 さらに根源的なことが創世記の初めで教えている。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、虚しく、闇が淵の表にあり、神の霊が水の表を覆っていた」。地に形もなく、虚しく、暗黒と深淵としか言うことの出来ない混沌しかなかった時、「神の霊」が形なき水の表を覆っていた、というのが創造以前の状態である。すなわち、神の霊が創造の初めから、その以前からあった。その霊、これは神の「息」と訳すことも出来る言葉であるが、神の息あるいは風と訳すよりは、父、子、御霊という時の神の霊のことであると我々は信じている。神の霊は初めの初めから在ました。

 草の上を一吹きの風が吹き抜けて行く時、草は全部枯れてしまう、その「息」はもろもろの命を奪い取って行くとともに、命の根源である。それが創造の力の元である神の霊なのである。

 このことについて更に深く理解するためには、主イエスがヨハネ伝3章でパリサイ派の学者ニコデモに教えたもうたことを学び直さねばならない。主は「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」と探求心に富んだニコデモに先ず直言し、次に「誰でも水と霊とから生まれなければ神の国に入ることは出来ない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と宣言される。そのあとで「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者も皆それと同じである」と言われた。

 今あげたお言葉は、後になるほど難解になっていると思われるであろうが、霊によって生まれるということの難しさがあるためである。そして、その難しさはここで簡単に解決するのでなく、福音書の終わりまで行って、人の子である神の子イエスが、贖いの御業を成し遂げてのち、御自身の名によって御霊を信ずる全ての者に注ぎたもうという所まで行って、答えが見えて来るのである。今日はそこまで立ち入らなくても、許されると思う。詳しく説明してはいないが、キリストが御自身の名によって御霊が与えられるまでの道筋をハッキリさせておられることを見とどければ、今日のところは得心出来るのではないか。人は草であると預言されたが、そこにはこれだけの註釈が付く。

 人は草であると言われた学びをここで一応留めて、それと対比される重要な聖句の学びに移りたい。「草は枯れ、花は凋む。しかし、我々の神の言葉は、とこしえに変わることはない」。これは花咲いても一時しか存立し得ない人間、その人間の言葉に対して、とこしえに変わらず存続するのが「神の言葉」であると宣言される。ここまで語られたことの全ては神の言葉の尊厳に行き着くのである。

 さて「何と呼ばわりましょうか」との問いに対して「『人は草だ』と呼ばわれ」と答えられたかのように取られるかも知れないが、その解釈は正しくない。「人は草のようであって虚しい」と呼ばわる程度の哲学ならば珍しくないのである。神が預言者を呼び起こして、この器を通して御自身の民に向けて語ろうとしておられるのは、優れた知者の知恵のレヴェルの言葉ではない。神は、御自身の言葉そのものを授けたもう。

 人の言葉は儚く、神の言葉は何時までも残る、という箴言、格言を授けるというのでなく、神の言葉そのものを人に語らせたもうということがここに含まれる。それは、神の霊が人に与えられるからである。そこまで読み取るのは行き過ぎだと非難する人がいるかも知れない。なるほど、旧約聖書に書かれた文字がそこまで言っていると読み取るのは行き過ぎに思われるであろう。しかし、旧約聖書はイエス・キリストを証ししたのであり、そこで証しされているキリストに目を向けるならば、キリストから御霊が信ずる者一人一人に送られるということが十分ハッキリ聞き取れるのである。

 9節に入って行こう、「良きおとずれをシオンに伝える者よ、高い山に登れ。良きおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声を上げよ。声を上げて恐れるな。ユダの諸々の町に言え『あなた方の神を見よ』と」。

 呼ばわるべきことの中味、神の言葉がここから語られる。その言葉は「良きおとずれ」と呼ばれる。即ち「福音」である。福音はイエス・キリストによって来たと使徒たちは語っているが、キリストはまだ来ておられないのではないか。いや、肉体を纏ってこの世に来られる前からキリストはおられた。初めからおられたのである。だから、旧約聖書の中でも、キリストの言葉また福音はそこかしこで鳴り響いている。今日聞くのもそれである。

 福音がシオンに伝えられる。シオンとはエルサレムの丘である。かつてそこに神の宮が建てられ、主の民はそこに集まって礼拝を捧げた。が、イザヤ書40章の預言が語られたこの時はどうなのか。この時、多分エルサレム神殿は破壊されたままで、それを再建すべき人も囚われから帰っていない。

 しかし、人もいないシオンに告げよと言われても、誰もいない空間に向けて呼び掛けて何になるか、と人は言うのではないか。人間の言葉が、聞く人のいない所に向けて語られても、虚しいだけではないのか。いや、そうではない。ここで語られるのは人間の言葉ではなく神の言葉である。神の言葉は聞く人のいない所に向けて語られても、虚しく終わるのではない。神の言葉は無から有を作り出す。聞く人間を作り出し、呼び出すのである。今日においてもそうなのだ。だから、聞く人がいないからと、御言葉を語ることを躊躇ってはならない。語られないならば、聞く人はますます起こされない。

 「エルサレムに告げよ」とは、今や意気阻喪しているエルサレムを激励せよ、という意味に取っては十分でない。それ以前の何もない所への呼び掛けなのだ。この呼び掛けによってエルサレムを立ち上がらせ、作り出せと命じられる場面なのだ。

 これは10節の「見よ、主なる神は大能をもって来られる」に続いている。「神が来られる」のである。それなら、シオンの民らは集まって、あなた方の神、来たりたもう主と出会わなければならない。

 そういう日がやがて来るから、勇気を奮い起こせ、という意味に取っていては不十分である。これは来たるべき日の予告と言って間違いではないが、それよりもむしろ「信仰者にとっての原風景」の呈示だと言った方が相応しい。まだ見ていないのに原風景と言うのはおかしいかも知れないが、例えば、イエス・キリストが最後にエルサレムに入城なさった時、人々は歓呼して主を迎えた。あれは一過性の熱狂の幻だったのか。

 あの時、主イエスを讃美した人が、その週のうちに主を十字架につけてしまったではないか。彼らの歓呼も、間違った理解でイエスを解放者と捉えただけではなかったか。そう見る人があろう。ある面では当たっていると言える。しかし、キリストを信じる者らの胸には、この時の光景は「原風景」となって焼き付いている。「あなたはそれを見たのか」と問われると、見た人はまだいない。しかし、預言者の言葉は語られ、聞かれた。それを聞いた民の胸のうちに「原風景」とでも言うべきものが出来上がって行く。それが受難週の第一日のエルサレムの歓呼を呼び起こしたのである。

 あの光景は簡単に消えてしまった。しかし、信仰の民の胸のうちには主の来たります日の大結集は保存されている。それは我々が集まって来る主の日ごとに確認される。

 主は大能をもって来られ、御国を打ち立てたもう。それに対応するのが、我々の持つ「御国を来たらせたまえ」との祈りである。その日、主は権能を残りなく顕したもうだけでなく、11節に言われるように良き牧者の慈しみを残りなく顕したもうのである。

 

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