2010.05.30.

イザヤ書講解説教 第82

――
40:3-5によって――

 新約聖書ヨハネ伝1章にあるように、バプテスマのヨハネがヨルダンの荒野に出現して活動を始めた時、エルサレムにいる権威を持つ人たちは、ヨハネが如何なる人物であるか調査するため、委員を派遣する。それは民衆の間で「この人がキリストかも知れない」という噂が広がったからである。調べに対してヨハネは「私はキリストではない」と明言する。「では、何なのか」と訊かれて、ヨハネは言う。「私は預言者イザヤが言ったように『主の道を真っ直ぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。

 ヨハネは自分のことを「声」だと言う。ひとりの人間であるのに、その名も、顔形もないもののように、ただ「声」として自分を差し出す。勿論、その「声」によって伝えられる「言葉」の内容こそが自分の存在の本質だという主旨である。

 これをヨハネの独特の発想による風変わりな返答だと取らないでおこう。ヨハネはイザヤ書403節から聞き取った言葉に合致させた言い表わしをした。それならば、ヨハネがイザヤに遡ったように、我々もイザヤ書から「声」を聞き取らねばならない。

 我々はイザヤ書を1章から39章まで学んで来たが、彼の預言を、語られた状況と結び付けて理解しようとした。それはごく当然な読み方である。語られた時の情景をことさらに強調する必要はないが、ある時は息子を連れて行って預言し、ある時は下半身裸で預言する。これは神の指定に従ったまでであるから、後世の我々も文字となった預言を文字のみとして読み解くのでなく、呈示されている状況の全体を受け入れた中で言葉を理解する。したがって預言者の服装、身振り、表情、周囲の空気、それがその昔の通りに再現されているとは到底言えないのだが、解き明かす人は、それなりの努力を積んで預言者の面影が髣髴となるようにする。

 ところが、イザヤ書は40章に入った途端、語る預言者の顔も、その背景も、雰囲気も、パッと見えなくなる。ただ声だけが聞こえて来る。イザヤ書40章以下の預言を語っている預言者の顔を思い描こうと試みた人はいたのだが、結局、描けなかった。――が、それで良いのである。姿が見えず、声だけが聞こえる。この預言を声だけを通して理解することが主の思し召しであると考えなくてはならない。

 声だけしか聞こえて来ない預言者について、「これはアモツの子イザヤとは別人ではないだろうか」と憶測しても何もつかめない。どういう時代の、どういう状況に生きた人物なのか。どこで語ったのか。探って見なければならないと思った人は多数いたであろう。が、結局、誰が試みても、具体的な人物像は捉えられなかったのである。――しかし、それで良いと我々は思う。ただし、声だけはシッカリ聞き取ろう。

 「声だけ」と言ったことについて、少し考えて見るべき問題がある。そもそも、人の言葉は多くの場合、言葉以外の様々な要素を加えた形で伝達され、そういう要素と併せて理解されている。だから、言葉を発する側も、言わんとすることが相手に良く伝わるように、それぞれのやり方で聞きやすくする要素を加える。その結果、同じ内容を語っていても、或る人の話しは聞きやすく、或る人の話しは頭にスッと入らない。そこで、語る以上は受け入れやすくする添加物を添える必要があると言われる。それは真実である。語る務めを持つ者は、その語る言葉が相手に良く届くように、言い方とか、態度とか、必要な要素を添える努力しなければならないと言われる。しかし、添加物だけで、中味のない話しをしてはならない、ということにも注意しなければならない。声だけを聞かせられるこの機会に、我々は添加物なしの中味を聞き取る訓練を受けていることを悟るのである。

 さて、今日学ぶ本文であるが、3節「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、砂漠に我々の神のために大路を真っ直ぐにせよ』」と我々は聞く。

 バプテスマのヨハネがこの声を彼の時代の中で再生させる使命を受けた時、響かせた声は、マタイとマルコによれば、「悔い改めよ」という言葉である。ルカも同じく悔い改めを語ったと解釈して良い。

 福音書記者ヨハネは、「悔い改め」を否定しているわけではないが、少し違って、先ず「私の後に来るお方は私よりも大いなるお方である」という言い方をしたとヨハネ伝には書かれている。「私の後に来るお方」と言ったのは、自分がその方の先触れとして来たのだということを表明する。

 我々が今日聞くイザヤ書403節の声は「砂漠に主の道を備えよ」と呼ばわる。これは「主のため」と言う通り、主が歩んで来られる道であるが、「服役の期は終わった」と前の節で言われたのであるから、解放された民が国に帰って来る道でもある。これはまた、いにしえの出エジプトの民の歩んだ道を前例としたのではないかとも考えられている。あの時、主なる神は民の先頭に立ち、御自ら雲の柱・火の柱となって導きたもうた。今度は第二の出エジプトだと言って良いのではないか。ただし、これは先ず「主の道」であって、民の道ではない。囚われの民の帰って来る道という点に重きを置き過ぎてはならない。

 「声が聞こえる」と3節が記しているが、3節になってから声が聞こえ始めた、それまでは預言者が顔を出していたということではない。初めから声だけがあったのだが、初めは神御自身の声で「我が民を慰めよ」と言われたのである。3節からは別の声が聞こえ、それを聞いた者として預言者が、その声を伝えるという形式を取る。この声は神を三人称として語る。この形に拘って、声の主が誰であるか詮索することは要らない。我々は声だけを聞けば十分なのである。

 その声は「主のために道を備えよ」と言う。「主が来られるから、その道を備えよ」という意味だが「来られる」という言葉はない。そこで考えねばならない。旧約における神の最も根源的な言い方は「主、来たりたもう」である。「神は存在したもう」というところから論じ始めるべきだと考えるのが今では常識かも知れないが、旧約的神信仰の表明は「神在ます」よりもむしろ「神来たりたもう」である。神の存在を強調するうちに、神が抽象的な「神観念」、「考えられた神」、「人が考える限りにおいて存在する神」にすり換えられてしまって、生ける神、動的な神が捉え難くなることがある。「神が来たりたもう」という捉え方は、神をまるで歩いている人のように捉え、人間並の地位に引き下げる危険を持つが、生きて出会いたもう面は失われない。

 神が「来られる」のであるから、民のなすべきことは、神を「考える」ことではなく、神を「待つ」こと、神のために「道を備える」こと、つまり具体的な態度と働きになる。これは昔の人の感覚であっただけでなく、今もそれは通用する。その方が生き生きした捉え方である。

 この道をさらに具体的に示すのが、バプテスマのヨハネの言っている「悔い改め」である。これが新約聖書全体を通じての一致した証言である。もう少し詳しく言うならば、来たりたもうキリストを受け入れるためには、悔い改めて己れを虚しくし、このキリストを信仰をもって我が内に受け入れることである。「道を備えよ」という声を、どこからともなく心地よく響いて来る声として聞くだけではいけない。悔い改めて信ずること、その証しの実行が始まることが求められる。

 道が設けられるのが「砂漠」の中であるというのは、言うまでもなく比喩である。バビロンから帰って来る道が砂漠のようなものだと言えなくはないが、これは昔からある道である。バビロンから西北に川を遡って、ユフラテ川が渡れる幅になったところで川を越え、南に下ってバシャンに出る道である。荒野はあるが、砂漠ではない。アブラハムはその道を来た。アブラハムの子イサクの妻リベカはその道を来た。ヤコブはそこを往復した。では、砂漠の道の比喩が言わんとしている実体は何か。それは旅の厳しさを言うものであるが、結論的にはキリストの到来によって起こる人間の変革である。「こうして主の栄光が現われる」と5節で語られるが、この道を行くうちにで主の栄光が見えて来るのである。

 もう一つ、この3節の声と似ていると考えないではおられないものがある。それはアモツの子イザヤの語ったイザヤ書35章の預言がある。それは40章の「砂漠に道を備えよ」という言葉と繋がっているとも見える言葉である。「荒野と乾いた地とは楽しみ、砂漠は喜びて花咲き、サフランのように盛んに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。……荒野に水が湧きいで、砂漠に川が流れる。……そこに大路があり、その道は聖なる道と称えられる。……主に贖われた者は帰って来て、その頭にとこしえの喜びを頂き、歌うたいつつシオンに来る。……」。

 これらの35章から引かれる言葉が、40章の荒野の道の解釈を助けてくれるのである。ただし、35章で読む荒野の預言は、そこで神が何をなし、荒野をどう変えたもうかを主として語る。他方、40章の3節以下では神のために我々が何をなすべきかに重点が置かれていると読んで良いと思う。だが、前者と後者が矛盾するものではない。

 「大路を真っ直ぐにせよ」とは、義の現われであり、貫徹である。道は真っ直ぐでなければならない。それが「義」ということの意味である。主の道には曲がりくねった部分があってはならない。義の貫徹とは、人々が神の通りたもう道を真っ直ぐなものに整え、いささかも歪曲を残してはならない、という意味である。それが「悔い改め」によって遂行されると理解して良いのであるが、人が一生懸命努力して悔い改めに相応しく正しく生きることだと取るならば甚だ不十分である。そのことに後で触れる。

 4節、「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」。これは主なる神の通って行かれる道には何らの妨げも残らぬように綺麗に均され、また民の通って行く道が最も歩きやすく整えられているということを表わすと共に、神の求めかつ実現したもうのが地上における正義、公平、平等であることを示している。だが、それは人々の考えの到達する理想世界を描いたものではない。

 真っ直ぐな道である義は、再生した人間の努力によって達成されるものではない。旧約は律法を公布して、「これを行なえ。これを行なえば義とされる」と言ったのであるが、完遂することは誰にも出来なかった。完成は神がなしたもうものである。このことについて端的に表明しているのは新約の福音である。

 それはローマ書3章から引くのが適切である。全体を通じて読むのが良いが、今は一部だけ抜き出す。21節に「今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証しされて顕された。それはイエス・キリストを信じる信仰による義であって、全て信ずる人に与えられるものである」。途中省略して、25節から読む。「神はこのキリストを立てて、その血による、贖いの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神自らが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」。

 今読んだ部分は解き明かさなければ分からないが、解き明かさなくてもその言葉は耳に入る。それを心に留めることは出来る。

 神の義が先ず明らかにならねばならない。そのことを元にして、次に信ずる者が義とされることが実行されるのである。それが「主のための道」であり、主の民が達成すべき道である。

 そこまで論じなければならないのか。声がするだけで心は躍るではないか、と疑問を持つ人がいるであろう。しかし5節には「こうして主の栄光が現われ、人は皆ともにこれを見る」と語られている。それに合致するだけの「道」が求められている。それがズッと先まで見えて来ないならば、主の栄光が見えると言うのは嘘になる。

 主のための道はバプテスマのヨハネが言ったように「悔い改め」だと言い換えることが出来るが、さらに詳しく、さらに先まで言うならばローマ書の言うように「信仰の義」信仰によって義とされるにまで至る道が見えて来なければならない。それが見える日が来るというのが今日学ぶ預言である。

 

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