2009.12.27.

イザヤ書講解説教 第78

――381-8によって――



 イザヤ書38章は、王ヒゼキヤに対する個人的な思い遣りや細やかさを示す点で特色がある。別の言い方をするならば、神の言葉を語る預言者は通例、大きいスケールで王に対しても・民衆に対しても語る。しかし、ここではヒゼキヤに個人的に死を宣告し、ヒゼキヤは個人として死を厳粛に受け止めているように讀まれることが多い。
 ヒゼキヤは公人たる王というだけでなく、ダビデ王国の代表であり、来たるべきダビデ王国を予め示す徴しである。今その王国はアッスリヤ王の軍勢に包囲され、かつ威嚇に曝されて、存亡の危機にある。そしてヒゼキヤは死に瀕している。
 預言者は深い思いを籠めて語るが、私的な言葉では全然ない。ここで、イザヤが王をまるで親友のように訪問し、個人的に慰めているように見られるとしても、自らの本務から外れていず、また神の言葉が的確に伝えられている点に着目して置きたい。
 1節にこう語られる、「その頃ヒゼキヤは病気になって死に掛かっていた。アモツの子預言者イザヤは彼の所に来て言った、『主はこう仰せられます。あなたの家を整えて置きなさい。あなたは死にます。生き長らえることは出来ません』」。
 イザヤが王宮を訪ねて来るのは稀なことではなかったようだが、もとより緊急の用件で来た。すなわち、神の言葉を伝えるために来た。それは厳粛な用件である。あなたの死の時が来た、と申し渡すためである。但し、これは刑罰としての死の宣告ではない。しかし、家を整えて置けと命じられる。ヒゼキヤは病気で寝ていたが、自分では死ぬほどの大病とは思っていなかったらしい。病気は腫れ物であった。
 ヒゼキヤの寿命は結果として15年延びることが5節で語られる。預言が直ぐさま変わるとはどういうことなのか、という問題があるであろうが、それについては後に述べる。イザヤが王宮を訪れた期日については、15年逆算すれば、割り出すことが出来る。ヒゼキヤの死は紀元前687年であるから、イザヤがこのことで王宮に来た「その頃」というのは、紀元前702年頃と思われる。
 この時、主は6節で「私はあなたと、この町とをアッスリヤ王の手から救い、この町を守ろう」と答えておられるから、36章以来見て来たアッスリヤ軍が撤退する前、まだ城壁を取り巻いていた時であったことが分かる。
 ヒゼキヤがユダ国を治めた期間は29年だったと列王紀下18章、また歴代志下29章に書かれている。アッスリヤが攻めて来たのはヒゼキヤの治世第14年であったとイザヤ書36章と列王紀下18章で讀まれる。この38章で与えられた預言は、初めは死の宣告であったが、主が計画を変更されたので、ヒゼキヤにとっては人生の折り返し点における預言ということになった。年代については幾つかの文書の記録があるが、照合して矛盾はしていないと思う。
 なお、ヒゼキヤの病気については、イザヤ書のこの章の終わり2節に続いており、また列王紀下20章に書かれる他、歴代志下3224節以下にも記録されている。同一の言葉で書かれているわけではない。また、歴代志には病気はアッスリヤの撤退の後のように書かれている。ハッキリそう記されているわけではない。いずれも「その頃」という書き出しで病気の記述が始まる。前後は逆だったと取ることが出来なくないが、事柄の年代的順序がどうなっているかについて、我々には確定的な証拠をもとに語ることは出来ない。今日はイザヤ書で讀む順序にしたがって事実を見て行くほかない。だから、アッスリヤ軍に包囲された中でのことと見ておく。
 ところで今、預言者によって死が告知され、その直ぐ後に15年延ばされた。このことに目を向けなければならない。神が計画し、その計画を僕預言者によって厳粛に伝えたもうたのに、その後まもなく計画を変更される実例は少なからずある。そういう記事に接する毎に我々は困惑するが、神が結局何を語ろうとされたかを良く考えて見れば、不信仰に陥ることにはならないであろう。
 ここでは第一に、ヒゼキヤが死の告知を受けた時どう対応したか、また預言者が王に何を指示したかを学ぶ。第二は15年の延長であるが、これがどういう意味を持つかを学ぶことが出来る。
 死を告知された時、ヒゼキヤは泣いて祈った。が、泣いて祈った理由は何かを考えて見ると、死の宣告を聞いて取り乱し、泣き喚いたということではない。整理をつけ、祈るべきことを祈り、祈りつつ感極まって泣いたということである。人生の結末を着けるために祈った。この中心部は3節である。「ああ主よ、願わくは私が真実と真心とをもって御前に歩み、あなたの目に叶う事を行なったのを覚えて下さい」。これは取り乱した祈りではない。王としての職務にある間、誠心誠意努力したと神の前に報告している。それは偽りでない。
 上に見たように、死が宣告された時は、29年に及ぶ彼の治世のほぼ中間である。どうしてこの時点で主が彼の生涯の総括を迫りたもうたのかは、我々の憶測すべき問題ではないが、これが中間の時であることを神は知っておられた。ヒゼキヤは死を告知されたので、自分の生涯の総括を神の前で申し述べなければならないと心を定め、したがって、神の前で精魂込めて語った。これは彼にとって偽りのない全てであった。だが、知らないところで命が15年先まで延ばされたので、ここで彼の述べたことは、期せずして生涯の半ばにおける中間決算となった。死で打ち切られるところに将来が開けた。
 死の宣告が下されて、直後に死は15年先に延ばされた。神が預言者を通じて宣言された言葉が、コロコロ変わっているように思われるかも知れない。だが、そのようなものとして受け取ることはしないで置こう。ヒゼキヤもそのように考えることなく、変わることなき御言葉を語りたもう神の前で、心を尽くして語ったのである。
 預言者を通じて死が宣告された時、ヒゼキヤは予想していなかったから、衝撃を受けた。顔を壁に向けて主に祈ったという記事は、彼の動揺と断末魔の絶叫を示している。壁に向かう前、イザヤと対面していた。イザヤに向かって祈る必要はないので、人のいない方に向いて、すなわち壁に向かって、神が聞きたもうことを覚えて申し述べた。
 ヒゼキヤは祈った。「ああ、主よ、願わくは、私が真実と真心をもって、御前に歩み、あなたの目に適う事を行なったのを覚えて下さい」。そして、泣きに泣いた。
 この祈りをどのように読み取るべきか。死を恐れて泣き、命を長らえさせて頂きたいと切に願い、泣きついたのか。そのように読み取れる面が全くないとは言わない。切なる願いに神が答えたもうということは、我々にも分かる。しかし、先ず聞くべきことは、自分がここまで何をして来たかを神の前に偽らずに申し述べた点である。これは自分のした事を主の前で誇ったという意味ではない。泣きに泣いて己れのしたことを神の前に申し述べたとは、誇ったということではない。絶望でも悲しみでもない。
 ヒゼキヤについて、列王紀下183節にも歴代志下292節にも「父ダビデが全てなしたように主の宜しと見られることをした」と書かれている。この記事は正しい。他の王たちと比べれば格段に立派である。偶像を破棄させ、礼拝を整え、ユダの国民を指導するばかりでなく、北王国のエフライム、マナセ、ゼブルン、アセル、イッサカルにも手紙を送ってエルサレムで主を礼拝すべきであると働きかけた。ユダの王として宗教の純潔を維持した点で出色の出来であると歴史に残る。
 国を治める王として、彼がどれだけの力量、度量、敬虔さ、人柄の深みを持っていたかについて、我々は論じる材料を殆ど持たない。イスラエルの宗教を回復しようとした純粋さと熱心さは認められるが、その精神はその子マナセにはもう引き継がれていないのであるから、人徳の足りない、規定を守る以上のことには思い及ばない小さい器であったのかも知れない。しかし、我々はそのことを論じるべきではない。
 歴代志下32章の初めに「ヒゼキヤがこれらのことを忠実に行なった後、アッスリヤの王セナケリブが来てユダに侵入し、堅固な町々に向かって陣を張り、これを攻め取ろうとした」と書かれている。礼拝に関しては鋭意努力したが、国の威信を対外的に維持することは何も出来ず、侮られたと言うべきではない。これはヒゼキヤの政治が主の御旨に適わなかったから主が罰を下したもうたという意味に取ってはならない。詳しいことは今日は述べないが、アッスリヤの侵入はその前から予告されていた神の大規模な計画である。もっと前から重ねられて来たユダの罪が問われたのである。この戦争の中でヒゼキヤが勇気を欠いた対応をしたかのようであるが、ユダの王として正しい姿勢を保った。だから、神はセナケリブの軍を退かせたもうた。礼拝の徹底だけでは国の安全を守れなかったではないかと、謗ることはないではないか。神は守って下さる。
 この包囲戦のさなかに、ヒゼキヤが重病に罹った。彼が何を祈ったかについて、我々はほぼ推察することが出来る。すなわち、彼は王としては為すべきことを果たしたと衷心を披瀝している。――勿論、神の前に完璧であったとは言えないが、第一のことを第一のこととして守り抜いた。
 彼は預言者たちの指示に従って、神に忠実な王として勤めたのに、アッスリヤの大軍に攻め囲まれている。そして、病は癒されぬままに、死ななければならない。そのことについて神に異議申し立てをしたのではない。ただ、一国を神から託され、国の危機を乗り切ることが出来ないままに、世を去らなければならないことについて、願いと言うよりは、この国をこのまま主に委ねる祈りをしたのである。
 この祈りに対し、主はヒゼキヤの命をなお15年延ばすと答えたもう。これはヒゼキヤが今死ななければならないと知らされて、慌てて嘆願し、主が願いを聞きたもうたというふうに理解しない方が良い。ヒゼキヤの真剣さに主が報いたもうたのでもない。
 死の時を延ばすと言われたというよりは、ヒゼキヤの職務を延長されたと理解すべきである。ここで終わりになるのでなく、ここから先がある。将来が与えられる。ただし、ヒゼキヤの治世が延びたため、ユダの国がそれだけ良く整えられたということではなかった。現に次世代の教育はどうだったか。ヒゼキヤの命延びてから生まれたその子マナセは、12歳で王の位に即き、55年世を治めたが、父のようではなかった。父が破棄した偶像は再び導入される。父は精神的感化を子に及ぼさなかった。
 ヒゼキヤの治世が延びたために、彼が生きているうちにアッスリヤによる禍いを逃れることは出来たが、次のバビロンの禍いに少し関わらずにおられなくなった。そのことが39章に記されている。治世が延びたために、来たるべきメシヤの世に近づいたと言っても余り意味はないが、40章からの預言への繋ぎがついた。
 主は預言者によってヒゼキヤに15年の延長の約束を与えたもうたが、その約束を信じることが出来るように、約束に伴う徴しを与えたもうた。約束の確かさに注目しよう。
 アハズの日時計の上の影を10度退かせるという徴しである。この出来事については列王紀下20章にもう少し詳しく書かれている。それをを引くと「ヒゼキヤはイザヤに言った、『主が私を癒されることと、三日目に私が主の家に上ることについて、どんな徴しがありましょうか』。イザヤは言った『主が約束されたことを行なわれることについては、主からこの徴しを得られるでしょう。即ち、日影が10度進むか。あるいは10度退くかです』。ヒゼキヤは答えた、『日影が10度進むことはた易い事です。むしろ日影を10度退かして下さい』。そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を10度退かせられた」。
 アハズの日時計については良く分からないところがある。アハズ王が作らせた「階段」が日時計の役をしたらしい。日影が進んで時を讀むのであるが、ここでは日影が進まないで退く不思議な現象を起こし、それを見て、信じられないことだったが、信じさせられたのである。
 ヒゼキヤに示されたのは日時計の徴し。その徴しの示す目的は癒されて職務を続けるとの予告を信じさせるにあって、不思議な徴しであるが、とにかく予告通りのことが起こる。徴しそれ自体を解説する必要はない。ここには人知を越えた神の力がある。時が一時逆流したのである。これは神が時間を支配したもうことを告げるのである。時が行き詰まったのに、神は将来を開きたもう。信ずる者はその将来を見るのである。

 

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