2009.06.28.

 

イザヤ書講解説教 第73

 

――第33章によって――

 

 第1節では、破壊を齎らす者が破壊され、自ら崩れ去ると預言される。これは誰のことか。……誰にも当て嵌まるし、一般に全ての支配者がそうであると言う人があろう。それもそうではあるが、ここでは特定の、生身の人間の暴虐について語っているという感じがする。解釈者の中には、これをアッスリヤ王セナケリブだと見る人が多い。イザヤ書のこの前後の記事から考えて、それが正しいようである。セナケリブの来襲の結末は後で触れる。

 自分は滅ぼされない安全な立場に立ち、滅ぼされるのはヨソの人の事としか感じないままに、人を踏み潰して行く。圧倒的な力で他者を次々と滅ぼし去る。――そういう在り方を目標として追い求めて行くのがこの世の権力者たちである。東洋ではこれを「覇者」とも言って、本当の王者とは区別さるべきだと見る。

 今聞いているのは、昔あったというだけの話しではない。つい先頃まで世界を制覇する権力が横行していた。また、そういう権力の在り方に見習って、滅ぼされないで滅ぼす者であることが幸いであり、繁栄であると憧れ、それがこの世の国々の成功者になる道だと考えられていた。だが、「滅ぼす者は禍いなるかな」という真理の声を聞かなければならない。

 さらに見なければならない。「滅ぼす者」はまた」「欺く者」である。欺くとは不真実と言っても良い。権力は己れを高しとするから、自己を相対化したり、自分を遜らせたりする道を知らない。だから、支配される者を欺く。偽りをもって支配し、その偽りを偽りでないと言い切る。例えば、他国と密約をし、密約内容を人民には教えない。その秘密を暴露する者があれば、それは正しいことを正しいと言うに他ならないにも拘わらず、これを犯罪として罰する。

 主なる神はそのような支配、(あるいは、この「支配」と言われるものを「欺き」と言い換えても同じであるが)、この支配を喜びたまわず、これを倒したもう。滅ぼす者は滅ぼされる。あるいは、滅ぼす者は滅びると言っても良い。それは自転車が走っている限りは倒れないが、止まると忽ち倒れるのと似ている。欺きをもって支配する者は、支配を止めた時、たちまち欺かれる者、また支配される者に転落する。アッスリヤ王は、支配を止めると同時に崩壊して、バビロンに支配された。

 主イエス・キリストが弟子たちの間で、誰が上かということで論争が起こった時、たしなめたもうたことを思い起こさずにおられない。支配しようとするのでなく、仕えることに努めなければならない。

 同じような例が至るところに見られる。だから、「驕る者、久しからず」という意味の諺が多くの国で生まれた。権力は次から次から立ち上がっては滅びて消え失せる。これが、この世の法則のようであるが、ここではむしろ、正義をもって支配する真の支配者、すなわち主のメシヤの支配と全く逆の支配を示すとともに、来たるべき終わりの時を指し示す。それは56節で学ぶことである。

 第2節に進む。「主よ、われわれをお恵み下さい」。……先の節では、神について一言も語られなかった。「主よ」と呼び求めることさえなかった。欺く者はしたい放題に欺いて、欺かれる者は権力者の欺くままに落とし入れられて滅ぼされて行く。まるで神が見ておられないかのように思われる。しかし、欺く者は見る見るうちに欺かれて没落する。いや滅ぼし去られる。それも明らかに主の審判によって滅ぼされることが示される訳ではない。いわば自滅である。神が御手を働かせたまわなくても、悪はそれ自体のうちに抱え込んでいる滅びによって滅びる。確かにそのように見える。だから、信仰のない人、神が生きておられることを知らない人でも、「人を欺くことはいけない」、「人が人を滅ぼしてはならない」という知恵を身に着けるのである。

 しかし、信仰者はその程度のところに留まっていてはならない。1節に見られたことと対照的に、信仰者は、ことが本当はどうであるかを、2節では学ぶのである。すなわち、神を知らない人たちが、神なき世界の中にいて、神を知らないままでも、悪しき者らが、神の決定のままに滅んで行くことを知っているが、このことを外から評論しているだけではいけない。この世界のなかに、あの人たちとは別であるが、神の助けへの呼び掛け、神への感謝、告白、そして神を待ち望むという生き方が確立している人がいるのである。

 神に呼び掛けることを怠り、全く忘れてしまい、それでも神の見えざる手が働いているのに気付かせられて、「矢張り神はおられるのだ」と時々思い起こすのは、一種の世界観であって、道理に適ったと言って良い。だが、それが信じて生きる道だと思っては間違いである。我々はそれと全く別の世界にいることをシカと弁えなければならない。

 「禍いなるかな」という一言に始まる言葉によって描き出される世界と、「主よ」という呼び掛けに始まる言葉が描き上げる世界は別なのである。

 不真実と暴力と悲惨が支配しているこの世の苦痛から目を背けたところに信仰の世界が開けると思ってはならない。信仰の場はこの世の現実の悲惨さの中にある。それを非常に具体的に示すのは「朝ごとに」という言葉ではないかと思う。「朝ごとに」とは、夜でなくて朝だという意味ではないだろうと思う。「朝ごとに」とは「時々」というのでなく、年に一度とか、月に一度とかでもなく、週に一度でもなく、儀式をする時というのでもなく、毎日、ということ、つまり常時、不断に繰り返し思い起こしているという意味である。

 「朝ごとに彼らの腕となる」。我々の持つ聖書では「我らの腕」と訳されているが、原語では「彼らの腕」である。意味としては「我々の腕」、あるいは「我々の力」と取って間違いではないが、言葉としては「彼らの腕」である。すなわち、我々の側で「主は我が力である」と思うのでなく、主の側で、「私が彼らの腕になろう」と言って下さるのを聞き取っているという確認である。

 そこを確認した上で、2節の言葉の並ぶ順序として先にある「我々に対し恵み深くあって下さい」。また「我々があなたを待ち望む」と告白することを学ぼう。

 恵みという言葉が、クリスチャンたちの間では溢れている。それが聞きあきるほど語られてはいけない、と言うのではないが、意味を失った、無感動な、口先だけの言葉にならないようにしたいものである。「恵み」という言葉は、単独で用いられるよりは「あなたが、私に対して、恵み深くあられる」と言い方の方が、聖書では良く聞かされていることを心に留めておきたい。

 「待ち望む」という言葉も、信仰者の間ではキャッチフレーズであることは言うまでもない。「希望」という言葉に置き換えてはいけないというのではないが、「希望」という言葉が比較的簡単に、摺り切れた、感銘の薄れた言葉になるのとやや違って、「待ち望む」という言葉は力強さを保持し、新しい勇気を呼び起こす。

 それがどういう理由であるかの説明はなかなか困難であるが、「待ち望む」という言葉が用いられている聖句を思い起こして見ると、分かって来る。平凡な状況でなく、患難の中で「主を待つ」という思いを吐露しようとする時、こういう言葉が使われる。特に思い起こすのは、イザヤ書817節である。「主は今ヤコブの家に御顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる」。

 御顔が隠されていて、神が私に対して恵み深い御顔を示しておられない、にも拘わらず、なお固く信ずるという場合に、「待ち望む」という言葉が適切に語られるのである。今引いた8章の言葉は、我々に「残りの者」ということを深く考えさせる箇所であるが、「残りの者が帰って来る」、「残りの者が待ち続ける」のである。「待ち望む」ことこそ残りの者の目印である。

 こうして「神は悩みの日に救いとなりたもう」。「神こそ我が救いである」と常に言って良いのであるが、「悩みの日に助けたもう」ことによって、神の救いは、単なる期待・切望ではなく、確認となる。それは具体的には34節の「鳴り轟く声によって、もろもろの民は逃げ去り、あなたが立ち上がられると、もろもろの国は散らされる。青虫が物を集めるように分捕り品は集められ、蝗の飛び集うように人々はその上に飛び集う」とあるような事態である。青虫が、また蝗がと言っているところは、良く分からないが、青虫は成長して蝗になり、幼虫の時からすでに作物を荒らしていることを指しているのは十分分かる。

 どういう結末が起こるのか。少しだけ触れれば十分だと思うが、イザヤ書で言えば3738節以下である。「主の使いが出て、アッスリヤ人の陣営で185千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らはみな死体となっていた。アッスリヤ王セナケリブは立ち去り、帰って行ってニネベにいたが、その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子らのアデラン・メレクとシャレゼルが剣をもって彼を殺した」。――これと同じことが列王紀下1935節以下にも書かれている。その歴史について説明することは今は要らないであろう。御言葉の通りになったのである。

 56節を見よう。「主は高くいらせられ、高い所に住まわれる。主はシオンに公平と正義とを満たされる。また主は教えと知恵と知識を豊かにして、あなたの代を堅く立てられる。主を恐れることはその宝である」。

 混乱の後の王国の回復である。主がシオンに高くいましたもうこと、すなわち、主が統べ治めたまい、主が主として崇められ、礼拝されたもうことが秩序回復の根本である。主礼拝が如何に乱れていたかは、これまでに繰り返し見た通りである。礼拝の規律も乱れたし、規律は守られているかのように見えたけれども、人々の語る言葉は偽りになっていたから、礼拝も形だけの無内容なものである。神はそれを嫌悪したもう。

 さて、このシオンはシオンの栄光の回復というだけでは十分でない。むしろ新しいシオンである。

 「主が高く上げられたもう」。これはイザヤ書の重要テーマである。2章の初めでこのことを聞いた。「終わりの日にこのことが起こる。主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立ち。もろもろの峰よりも高く聳え、すべての国はこれに流れて来、多くの民は来て言う、『さあ。我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我々に教えられる。我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである」。

 今日、335節で聞くのはこれと同じ響きである。なお続けて今日は「主はシオンに公平と正義とを満たされる」と教えられる。終わりの日のメシヤの支配はこうなるのである。2章で国と国との戦いがなくなると言うのもこの事である。

 次にまだ聞かなければならない言葉がある。「また主は教えと知恵と知識を豊かにして、あなたの代を堅く立てられる。主を恐れることはその宝である」。

 近年の聖書翻訳では、この辺りかなり読み方が違っているものが多い。その説明は容易でないので、簡単に大意を取って置く。意味が根本的に違うということではない。

 「あなたの代」とは何か。「あなた」と呼び掛けられるのは誰か。「代」という言葉を王の支配、治世と取るなら、ユダの王かも知れないが、それでは実情と違い過ぎるから、メシヤと見た方が良い。さらに「あなた」と呼び掛けられているのは主の民と取ることが出来る。あなたの迎える新しい時代は、救いの時であると言われていると取ることが出来る。それが最も適切であろう。簡単に言えば、神の国が始まった。そこには救いがあり、教えと知恵と知識が満ちている。そこには主を恐れることが満ちる。聖書の目指す目標はまさにこの新しいシオンである。

 

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