2009.03.29.

 

イザヤ書講解説教 第72

 

――32章によって――

 

 「見よ、一人の王が正義をもって統べ治め」。これは来たるべき王の支配を預言し、それが正義の支配であると言っていることは説明するまでもない。だが、遥か後の日に来られるメシヤを指しているのか。それとも、現代の苦悩と不安の時代のただ中で、すなわち、全ての人に重くのしかかっているアッスリヤの重圧が、間もなく終わって、その後に解放が来ると期待させるのか。
 これはここまで読んで来た預言の続きであるから、現在から飛び離れた将来像を描くものではないらしい。何よりも「見よ」という呼び掛けは、近くに迫っている対象を指す時の言葉遣いとして通例用いられる。ところが文章は今の王の次の王の世になれば、解放が到来すると言っているように聞き取れる。そこで、ここに予告されている王はヨシヤであったとか、ヒゼキヤであったとかと言われる。
 ところが、実際には次の王の代になっても、正義の支配は来なかった。人々の期待はもっと先まで延ばされねばならなかった。では、待ちくたびれ、期待外れが続いて、人々は信仰の脱落をして行ったのではないか。
 それはあったであろう。しかし、その反面、待つ時間が長引いたことによって、主の民は鍛えられたのである。待つことの質が高められた。こうしてこそメシヤの来臨を迎えるに相応しくされた。
 ここで考えねばならない点が二つある。一つは、同じことがメシヤの来られた時以後の主の民にも当て嵌るということ。もう一つはメシヤ自身についても、来臨されればそれで王国の完成というのでなく、完成までの苦難があるということである。
 第一のことについて先ず考えて見ることにしよう。メシヤ・キリストは「私はもう一度来る。間もなく来る」と言われた。人々は間もなく来られる再臨の主を心を熱くして待った。しかし、一世代が過ぎ、次の世代が過ぎても、主の再臨は起こらない。もっともっと待たなければならないということが分かって来た。この間、待つことを空しいと感じて去って行く人々も多かったようだが、選びの民は待つことの意味の深さをいよいよ学ぶことが出来ている。
 我々が現在経験している待つ時間の長さ、その意味、それを旧約の民の感じていた長さと重ね合わせることによって、我々は旧約の民の聞き取った預言者の言葉をさらに深く聞き取れるのである。
 第二のことについては、5節以下で見ることになる。
 「一人の王が統べ治める」。イザヤがこれを語っていた時代、一人の王がいたが、かつてのダビデのように傑出した王ではなく。多くの取り巻き連に囲まれていた。王の見解なのか、周囲の誰かの見解なのか、ハッキリしないものが王の意志であるとして公布された。従ってまた、王がハッキリ責任をとることもなく、家来の責任のように言われており、家来たちは王の名によって公布された決定事項について責任はとれないと言った。ダビデが王であった頃、政治の失敗の責任はダビデが一身に担って、国民に詫び、また主なる神に懺悔したが、そういう責任体制はうやむやになっている。
 「一人の王」というのと「君たち」というのとがこの預言の初めの節で対比されている。一人の王が正義をもって統べ治めるのに対し、王の下にいる複数の君たち、高官たち、あるいは諸侯も公平をもって司る、という一貫性がある。正義と公平、統べ治めると司る、言葉は別であるが、していることには統一がとれている。
 どういうことかと言えば、神こそが唯一最高の権能を行使したまい、その下に王が王国内の一切を統べ治めるという職務を行い、その下に、君たち、諸侯がいて、委ねられた領域を支配する。という職務の割り当てがある。最高・絶対の権威を持つ神は義なる神であるから、その下で王は正義を実現し、君たちは公平に事を処理する。そのような正義・公平は、現実の世界の中では、渇望されてはいるが、実現を見ることは極めて稀である。
 2節の「各々」というのは、1節に語られた王と君たちが、それぞれ、全体としてではなく一個一個の人間として、それぞれの負わせられた機能として下々の民を庇う、あるいはむしろ人格的に隣人に奉仕し、身をもって国民全体のため、風を避ける風よけ、暴風雨を免れる覆い、乾いた地を潤す水流、日照りの地面に陰を作る大きい岩、そのような働きをすることを言い表わす。254節では神の御業とされることを、王と諸侯が神の僕として実行し、王も高官たちも人々から崇められる立場に立つというよりは、人々を苛酷な境遇から守って、平和に過ごさせる。
 「こうして、見る者の目は開かれ、聞く者の耳は良く聞く」ようになる。と3節は言う。つまり、正義の支配が行われていないところでは、見る目を持つ者も良く見えず、耳ある者も良く聞けない。それぞれに賜わった能力を十全に発揮させることが出来ない。しかし、正義の実現した社会では、人々はその能力を妨げられることなく、良く発揮出来るのである。3節は見えなかった者も見るという意味に読み取ることが出来るが、ここで奇跡を読み取らなくても良いと思う。
 4節では「気短な者の心は悟る知識を得、どもりの舌はた易く・鮮やかに語ることが出来る」と言われる。これは、欠陥ある者の癒しの意味に取ることも出来るが、むしろ欠陥があってもカヴァーされ、一人前の働きをするという主旨であろう。
 5節「愚かな者はもはや尊い人と呼ばれることなく、悪人はもはや立派な人と呼ばれることはない」。これは正義の行なわれていない世では、悪人が跋扈し、悪人が立派な人と呼ばれるのである。だが、悪人が尊い人として立てられる異常さは、来たるべき日には消え失せるのである。
 では、こうして永遠の祝福の状態が始まることになるのか。そうではない。5節以下には悪人の活躍が語られる。悪人は生き残って善人と同じように活発である。「しかし、尊い人は尊いことを語り、つねに尊いことを行なう」と8節に言われる。悪人と善人とが平行して活動している。だから、9節で一転して恐るべき日の来ることの予告になるのを、思い掛けない成り行きと見てはならない。このところの文章は、スッキリしておらず、いろいろな解釈が試みられる。しかし、要するに、15節以下が最終段階であって、それまでは苦難に耐えなければならない時がしばらく続くということである。それが9節以下に述べられる。
 「安んじている女たちよ、起きて、わが声を聞け。思い煩いなき娘たちよ、我が言葉に耳を傾けよ。一年余りの日を過ぎて、あなた方は震え戦く。葡萄の収穫が空しく、実を取り入れる時が来ないからだ」。
 一人の王が正義をもって統べ治める時代が来て、人々は安んじて横になっている。その者たちに、「起きよ」と呼び掛けられる。安心して寝ている時ではない、と主自らが語り掛けたもう。「1年余りの時が過ぎて、あなた方は震えわななく」。今は葡萄の収穫の季節で、今年は豊作で人々は喜んでいる。しかし、1年後、収穫はない。12節の「良き畑のため、実り豊かな葡萄の木のために胸を打て。茨、おどろの生えている我が民の地のため、喜びに満ちている町にある、全ての家のために胸を打て」と言われるところは、今、畑の大豊作を喜んでいる者に、1年後の大凶作を予告しているのではないかと思われる。
 14節の「宮殿は捨てられ、賑わった町は荒れ廃れ、丘と櫓とはとこしえに洞穴となり、野ロバの楽しむ所、羊の群の牧場となるからである」という預言は田畑も町も宮殿も荒廃すると予告している。それが1年余りの後に始まると言われる。
 1年後の禍いが、天候の不順によるものか。敵軍の侵入と掠奪なのか。それらの災害は象徴的に語られたものなのか。またこの禍いは民らがバビロンに捕らえ移されることの予告なのか。我々の聖書研究の学力では判定がつかない。
 しかし、ついには祝福が来ると15節以下には予告される。これはハッキリしているから、迷うことはない。終わりの日の祝福に焦点を収斂させることを我々の知恵として持たねばならない。
 その最終の祝福の日に到るまでの数々の禍いについて、分からない点がいろいろとあるが、主がその民を数々の試練によって鍛え上げたもうこと、これは確かである。また、その試練が、この場合、1年としばらくの時の後であると預言者を通じて予告したもうことも確信すべきであろう。
 アモスが367節で言ったように、「町でラッパが鳴ったなら、民は驚かないだろうか。主がなされるのでなければ、町に禍いが起こるだろうか。まことに、主なる神はその僕である預言者にその隠れた事を示さないでは何事もなさらない」のである。
 本当の預言者でない者は、預言者であることの証拠を示すことが出来ないので、神は恵み深い方であり、このように恵みがあるではないか。また、この後も恵みが来るのだと教える。神が怒りよりは慈しみに傾いておられる御方であることは確かであるから、神の恵みについて語っても外れることは少ない。半分以上は真実なのだ。しかし、神がつねに慈しみの御顔を向けておられるわけでないことも確かである。
 真の預言者は神の恵みばかりでなく、神の怒りをも時に語る。その怒りの予告は抽象的でなく具体的である。ただし、その怒りによって人々を滅ぼしてしまうのではなく、神の怒りに触れて我々が悔い改め、福音を信ずることによって罪の赦しに与るようにと指導する。「震えおののけ。衣を脱ぎ、裸になって腰に荒布を纏え」とは悔い改めの生活の具体的な指示である。
 今日、世界的に人々の生活が苦しくなっているのは、人生の間に起こる嵐の時期だという程度の理解で割り切ってはならない。また心得のない権力者や、富裕層が犯した間違いによるというだけで解決をつけてはならない。間違いを犯した者がいることは確かであるが、彼らが権力を行使し、真理に適わない法規を定めたのは、彼らの過ちによって世を苦難に遭わせようとした神の御心があるからだ。
 だから、間違いを犯し、政策を誤った指導者たちに責任を帰するだけでは意味がない。我々が悔い改めなければならない。
 「しかし、ついには霊が上から我々の上に注がれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる」。この後半部は29章の17節で語られたことの繰り返しである。「我々の上に注がれる」と語るのは民の一人としての預言者である。「み霊が注がれる」とは神の決定に基づく神の行為であって、季節になれば雨が降って来るような自然現象と同一ではない。そして神が決意してなしたもう業は、神が何よりも御言葉を語りたもう神なるが故に、預言者によって先ずその民に語られるのである。
 「荒野は良き畑となる」。――これは有名な35章の「荒野に水が湧きいで、砂漠に川が流れる」というのと共通した預言である。初めの創造の時、世界の中心に置かれたエデンは廻る炎の剣によって立ち入れなくなったが、終わりの日、砂漠がエデンになる。
 「良き畑は林の如く見られるようになる」とは、先に引いたように2919節にあった言葉であるが、その直ぐ前には「レバノンは変わって畑となる」と言われる。畑が林になるのと入れ替えに林の代表であるレバノンが畑になる。畑から林への転換はまた容易に逆転するというのであろうか。15節の言うのはそれと違い、荒野が良き畑になり、良き畑はさらに栄えて作物が林のように高く茂るということのようである。祝福された最高の繁栄を言うもののようである。それは地から生ずるものの繁栄だけではない。
 正義は平和を生み出すのである。その正義はかつて荒野であった畑に宿り、そこから平和が生え育つ。自然界にも祝福が及ぶと約束されるのである。
 では、19節にある「林は切り倒され、町も悉く倒される」というのはどういうことか。これは、神の民が荒野から良き畑へと変えられて行くのと逆に、この民を虐げていたかつて栄えた国が没落して行くことを表したものである。そのような没落と無関係に、「すべての水の辺に種を蒔き、牛およびロバを自由に放ち置くあなた方は幸いである」。牛やロバも自由にして置かれるほど、自由と繁栄が満ち満ちているのである。

 

 

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