2003.04.27.
イザヤ書講解説教 第7回
――2:1-3によって――

 イザヤ書2章は、イザヤ書の中でも、旧約聖書全体の中でも、そして世界史全体の 中でも、特異な箇所であることを我々は知っている。長年聖書を読んできた人なら、 しばしばここを開く機会があったであろう。また、特別な時期には、ここを読み返さ ずにおられなかった。そして、今はまさにそういう時代である。

  これまで、聖書をまともに読む機会のなかった人も、今日与えられる箇所が、世界 にとっても、自らの生きている国にとっても、自分自身にとっても、重要な箇所であ ることを感じ取るのは難しくない。だから、予備的説明を省いて、いきなり本文に入 ることにする。予備知識なしでも、人は御言葉そのものの力に捕らえられるであろ う。

  「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された言葉」。――これは預 言でなく、この部分をイザヤ書のここに入れるために、編集者が付けた前書きであ る。1章1節にも前書きがあったが、その他にもう一つ上書きを書く必要があったと思 われる。

  イザヤにこの言葉が示されたのは神からである。だから、我々はこれを神からの語 り掛けとして聞こう。イザヤを通して聞くのであるが、イザヤの教えを味わい聞くと いうふうに考える必要はない。確かに、イザヤは神から受けた言葉を、身についてい ない借り着のように示すのでなく、自分の言葉になりきった言葉として語ったのであ る。神から受けたことを、右から左に流すように、ただ受け渡しをしたということで はない。イザヤという人の存在全体がここに懸かっているのである。それでも、その ことに殆ど立ち入らないで、我々は神の言葉を聞けば良いのである。

  神の言葉を聞くとは、神から私に対する、また神からその民に対する語り掛けを受 け止めることである。神の言葉がイザヤを通して与えられたのであるが、その言葉の 届けられる先はよその誰かでなく「私」なのである。その私が何なのかは、今すぐに は問わなくて良い。先ず、私が聞くのである。御言葉を聞くのである。

  これまでイザヤ書を初めから読んで来た我々は、ここで1章1節の言葉を思い起こ す。「アモツの子イザヤが、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世に、ユ ダとエルサレムについて見た幻」と書かれてあった。

  この前書きの他に、2章の初めにまた1つ前書きが書かれた理由があるらしいが、そ れについては間もなく取り上げるとしよう。

  文章としては、1章1節と2章1節とは同じ構造になっている。2章1節では、ユダの王 たちの名前が列挙されていないだけである。ただ、1章1節では「見た幻」となってい たが、2章1節では「示された言葉」となっている。これを違いとして取り上げる必要 のないことはかつてどこかで触れたと思うが、記憶になくても、分かることではない か。「見た」と訳された言葉と「示された」と訳された言葉は全く同じである。

  「幻」という語と「言葉」という語は別である。しかし、このように二つの文章を 並べて見れば、「幻」と「言葉」の実質が重なり合っていることに気付くであろう。

 通常、我々の間で、「言葉」は聞くもの、「幻」は見るもの、というふうに区別して いる。その区別は大事である。信仰は聞くによる。見ていては信仰は生まれない。見 ずして信ずることが信仰である。神は御自身を見える形に表わすことを禁じたもう た。十戒の第二戒である。それとともに、神は御自身の救いの御業をも、見える形に よって分からせることをなしたまわない。御言葉が宣べ伝えられることを通して、救 いは伝えられて行く。だから、我々は見ないで聞くという姿勢を保てば良い。

  ただ、神が昔、預言者に対して、幻を示し、言葉を見せるという手段を用いたもう たことは理解しておかなければならない。幻を見た預言者は、それを民衆に語り告 げ、一般民衆は、預言者が幻によって示されたことの実体を、預言者の宣べ伝える言 葉によって共有したのである。そのように、本質的なことは共有したが、幻を見たの は預言者だけである。それでも、後述するように、我々一人一人が或る意味で幻を見 るということはある。

  時の満ちるまでは、神は預言者にだけ幻を示したもうた。人々は預言者を通じて幻 を聞いた。そういうわけで、今日も我々は、与えられた言葉を聞くことで満足しよ う。救いに必要かつ十分なものは、聖書に記された言葉のうちに全部ある。その解き 明かしを通じて神は御自身の民を養い育て、教会を建て上げたもう。ただし、先にも 言ったが、或る意味で、幻を見るという表現が用いられる場合はある。そのことを忘 れずにいて、我々が幻を失った民にならないよう注意したい。

  預言者だけが幻を見るのでなく、信じる者がみな幻を見る日が来ることは約束され ていた。そして、その約束は冷酷に禁止され、凍結しているのでなく、今では成就さ れている。そのことは、使徒行伝2章の五旬節の記録の中で教えられる。すなわち、 人々が大音響で駆け集まったとき、ペテロは使徒一同と共に立ち上がって説教を始 め、預言者ヨエルの預言は今や成就した、と宣言した。預言者ヨエルの言葉というの は、ヨエル書2章28-29節である。「その後、私は我が霊を全ての肉なる者に注ぐ。あ なた方の息子・娘は預言をし、あなた方の老人たちは夢を見、あなた方の若者たちは 幻を見る。その日、私はまた、我が霊を、僕、婢(はしため)に注ぐ」。

  この事態は聖霊の降臨によってすでに始まった。それがキリスト教会による福音の 世界宣教である。だが、今日はこのことにこれ以上は深入りしないで、イザヤ書の学 びを進めて行く。

  イザヤの預言に入る前に、もうひとこと触れた方が良いと思われるのは、2節から4 節までの預言がソックリ、ミカ書4章1節-3節に記されていることである。どうして、 こういうことになったか、我々には何も説明されていない。そこで、幾通りもの推測 が行われる。或る人は、初めミカの預言であったものを、イザヤが借用したと考え、 他の人はその逆を考える。或る人はまた、イザヤ書の編集者が、預言を集めて一巻の 書とする時に、イザヤの預言だと思って「アモツの子イザヤの見た言葉」と見出しを 付けてここに入れたと解釈した。また別の人は、無名の預言者の言葉、ないしは広く 歌われていた歌が二つの書に収められたと考える。まだ、ほかにもいろいろ推測出来 ることはある。

  どの説も確固とした証拠を示すことが出来ない。しかも打ち消す根拠も見つからな いから、沢山の憶説が生まれる。それらをいちいち検討していては、興味がますます 湧いてくることはあるとしても、結論はどこまで行っても見えて来ない。

  ミカ書については、その1章1節に「ユダの王ヨタム、アハズ、およびヒゼキヤの世 に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉」と書か れている。イザヤ書の冒頭の記事と比べると、ウジヤの名がミカ書にはない。次のヨ タムの時代から預言者としての務めが始まったわけである。この二人の預言者はほぼ 同時代と言って良い。ミカの活動したのはサマリヤとエルサレムである。南王国と北 王国にまたがっていた。イザヤはユダとエルサレムで活動した。二人が顔を合わせた かどうか、共通の目的をもっていたのだから協力したか。それも全く分からない。な お、ミカがモレシテ人だというそのモレシテがどこであるかは確定的にはわかってい ないが、ユダの西部の田舎であった。

  ミカに関しては一つ有力な証言がある。エレミヤ書26章に書かれている事件だが、 エレミヤがエルサレムの宮で、宮の壊滅とエルサレムの破壊を預言したことがある。

 祭司と職業預言者らはこれを重大な神殿冒涜と見て、エレミヤを捕えて死刑にしよう とする。

  そのとき、司、すなわち上級の官僚と、民と長老は、エレミヤは殺されるべきでな い。むしろ我々の神、主の名によって我々に語ってくれた真の預言者なのだ、と主張 した。また、昔のことを知っている長老数人が立ってこう証言した。「ユダの王ヒゼ キヤの世に、モレシテ人ミカはユダの全ての民に預言して言った、『万軍の主はこう 仰せられる、シオンは畑のように耕され、エルサレムは石塚となり、宮の山は木の生 い茂る高い所となる』。ユダの王ヒゼキヤと、全てのユダの人は、彼を殺そうとした ことがあろうか。ヒゼキヤは主を恐れ、主の恵みを求めたので、主は彼らに災いを下 すとお告げになったのを思い直されたではないか。しかし、我々は自分の身に大きな 災いを招こうとしている」。

  実に立派な判断力を備えた長老がいたわけである。こうして、エレミヤは殺されず に済んだ。祭司と職業預言者はエレミヤの預言を聞き、これが神の言葉でないと判定 し、エレミヤを殺そうとしたが、宗教的には謂わば平信徒である民衆と宮廷の人は、 エレミヤを真の預言者と認めて擁護したのである。

  このとき長老たちの証言の中に出て来るミカの預言は、ミカ書3章12節に記録され た言葉である。ミカはそれに続いて、あるいは別の機会であったかも知れないが、と にかく、その預言との関連を踏まえて、4章1節からは終わりの日のエルサレムの栄光 の幻を語った。こういうふうに見てくると、この部分がミカの口から出たものではな いかという解釈がすんなりと受け入れられる。では、イザヤはそれを借りたのか。と ころが、この言葉がイザヤの口から出たと見ても、ごく自然に読めるのだ。だから、 ミカとイザヤとどちらがオリジナルであるかの議論は止めよう。

  イザヤとミカとを並べて挙げ、エレミヤ書にある証言を加味することによって気付 くことの一つは、この預言の語られた時代の雰囲気である。エレミヤ書26章に記され た証言は一時代遅いのだが、神の言葉が語られた時、民衆がそれをどういうふうに聞 いたかを推測する手がかりがある。預言者たちの言葉は宙に浮いた言葉になったので はないようである。――イザヤ書の2節に入る。

  「終わりの日に次のことが起こる。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅 く立ち、もろもろの峰よりも高く聳え、全ての国はこれに流れて来る」。

  これは「終わりの日」のことである。今見えている状態、あるいは終わりになって いない前の状態とは違うのである。では、終わりに至る前の状態はどうなのか。ここ で直ぐに思い起こされるのは、ミカ書で終わりの日の預言が語られる前にある3章全 体、あるいは3章の終わりの部分である。それをこれに繋げても良いということを先 に見た。「あなた方は血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建てた。

 その首たちは賄を取って裁き、その祭司たちは価を取って教え、その預言者は金を 取って占う。しかもなお彼らは、主に寄り頼んで、『主は我々の中におられるではな いか。だから、災いは我々に臨むことはない』と言う。それ故、シオンはあなた方の ゆえに田畑となって耕され、エルサレムは石塚となり、宮の山は木の生い茂る高い所 となる」。それに直ちに終わりの日が続くとは言えないかも知れない。しかし、現在 ある悪、それに対する来るべき裁き、その次に来る終わりの日、という順序でことは 運ぶのである。

  ミカの今読んだ預言は、イザヤ書1章で聞いて来た預言と調子の厳しさが同じでは ないか。血をもってシオンを建てた、と言われるが、シオンの神殿を建てるために、 貧しい人の血が流され、搾り取られたことを指摘している。祭司たちは金儲けのため に宗教活動をしている。裁判官は賄賂を取って裁判をしている。

  そこで思うのであるが、2章に入る前に、その預言の実現する前の状態がどうで あったかを問いたいならば、1章をよく読めば良い。2章をユートピアの絵のように考 えたがる人たちは、シオンが裁きによって一旦荒れ廃れ、その後で、栄光の回復があ ることを読まなければならない。さらに、シオンが破滅したのは、特に上級の権力者 と、上級の祭司職にある者らが、「神の恵みがあるから、災いが自分たちを襲うこと はない」と安心して不義に耽り、金銭を追い求めていたからである。

  今、ミカ書の助けを借りて、終わりの日の到来前の状態を見たのであるが、ミカ書 を参照することは必ずしも要らない。イザヤ書の中に十分材料がある。というのは、 イザヤ書2章は来たるべき日のエルサレムを先ず描いて、その後から、今のエルサレ ムの実態を示すという筆法を採っているからである。すなわち、6節から先、4章の終 わりに至るまで、エルサレムの罪とその裁きが記されている。

  いずれにせよ、2章1節から4節は、理想のエルサレム、理想の世界平和を描いたと いうような甘いものでないことが分かった。

  終わりの日については、イザヤ書でまだ纏まった教えを聞いていないが、そのうち に繰り返し聞くことになる。終わりの日は中心的な教えである。例えば、10章20節21 節、「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや 自分たちを撃った者に頼らず、真心をもってイスラエルの聖者、主に頼り、残りの 者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る」。――「その日」がすなわち終わ りの日である。

  その日について、11章10節ではまたこう言われる、「その日、エッサイの根が立っ て、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所 に栄光がある」。エッサイの根とは、メシヤとして来るダビデの子である。キリスト である。それが来るのが終わりの日である。

  イザヤ書2章は絶対平和を謳ったものとして広く知られている。窮極の平和が示さ れていることは確かである。戦争が次々と起こる世界にあって、人々が戦争のない世 界に憧れるのは当然である。「剣を打ち換えて鋤とし、槍を打ち換えて鎌とし」とい う言葉に深い感動を覚えない人はないであろう。しかし、人々の慕う理想の世界がこ こに描かれていると見るのは、正しい理解ではない。

  ではあるが、「お前たちには平和を慕い求める資格もない」と突き放すのも心なき わざである。それは病いに苦しんで、癒しを求める人に、癒しを求める資格がないと 言い渡すのと同じである。

  真の平和を求める者は、求めるに相応しく求めなければならない。その相応しい求 め方は示されている。キリストによって求めるのである。

  さて、終わりの日に起こること、それは第一に、主の家の山がもろもろの山のかし らとして堅く立ち、諸々の峰よりも高く聳えることである。主の家の山が高く聳える とは、主礼拝が何よりも尊ばれる世界が来ることである。

  すでに見た通り、宗教は尊ばれず、尊んでいるように振る舞う人も、見せびらかし にそうしているだけで、祭司自身がまことの神礼拝に最も遠いのである。だから、み んなが礼拝を重んじ、みんなが礼拝に集うようになれば世界が平和になる、と考えて は欺かれる。礼拝の名のもとに、神を崇めることよりも自己満足が求められているの ではないか。イエス・キリストは宮潔めを行ないたもうたが、まことの礼拝になって いない礼拝を変革したもう。ここに「主の家の山」と書かれる「主の家」それは名目 だけの主の家ではない。キリストが宮潔めをなしたもうたその家である。

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