2008.12.28.
イザヤ書講解説教 第69回
――29章によって――
29章は「アリエル」に対する神の裁きの予告である。そして「アリエル」とはエルサレム、またシオンの別名である。予告されるのはアッスリヤによるエルサレム攻撃である。2節の「その時、私はアリエルを悩ます」は神御自身がエルサレムを攻め、苦しませることを言う。アッスリヤが国々に大いなる脅威になっていることについて、このところズッと続けてイザヤ書から学んでいた。その続きである。
アリエルがエルサレム、その枢要部分を指すということは容易に読み取れる。が、どういう理由でそう呼ぶのか。そこが分からない。アリエルとは「神の獅子」、「神の炉」、すなわち祭壇の中心部で燔祭が燃えている火の部分をいうらしい。人名としても、その他の意味でも聖書に表れるが、意味が確定しにくい。これこそが敵の攻撃目標なのだが、攻められて焼かれて火となって燃えるという意味であろうか。2節の「その時私はアリエルを悩ます。そこには悲しみと嘆きとがあって、アリエルのようなものとなる」というところは意味が分からない。
また「アリエルを攻め悩ます者がみな夢のように、夜の幻のようになる」と7節は言うが、その言わんとすることも良く分からない。それを攻めるアッスリヤ軍が迷路に陥るように迷ってしまうということであろうか。
そのように、ハッキリしない点が多い。イザヤの時代、人々はエルサレムに関して細部にわたって語り継ぐ共有の豊富な知識を持っていたが、町が破壊され、荒廃し、再建まで70年以上の空白期間があるため、失われた知識は多い。その一つがアリエルである。しかし、それで我々の聖書知識に致命的な欠落部分が生じたと思ってはならない。我々の本当に知らねばならない聖書知識は確保されている。それを今我々は学び直している。
「禍いなるかな!アリエルよ!」と呼ばわるこの調子から、今日聞くところがエルサレムに対する極めて壊滅的な悲劇の預言であることを読み取ることが出来る。もっとも、4節にある「地の中から物をいう」とか、「塵の中から」とか、「亡霊の声」とか、「塵の中からさえずる」というような言葉は、肝心なところがハッキリしない意味を帯び、謎に包まれている。
それでも、5節で「仇の群れが塵のようになる」というのは、アリエルに攻め寄せる敵軍が塵のようになることであり、7節の「アリエルを悩ます者は夢のように、夜の幻のようになる」とは、アリエルを攻める者が結局成功しないことを言うが、アリエルを攻める者への直接的な裁きが下ると描かれているのではなく、覚めていても覚め切れない朦朧たる状態に置かれるというようである。
そのように、明快に説明し切れないところがある。我々の力では解明できないが、分からないままでも良い事柄があることは知って置きたい。分かっているところだけ掘り下げれば、解釈の端緒を掴むことが出来るようにされていると信ずべきである。
9節に進む。この預言の向けられるのは、ユダの国の政策を引っ張るエリートである。彼らは自分が賢いと信じ、そう公言している。しかし、9節が言う通り、実際は愚かで、知覚喪失者、目が見えなくされた者、泥酔した者である。もっとも、酒に酔ったのではない。主が眠りの霊を彼らに注がれたから、知覚を失ったのである。
二つの意味での愚かさがある。一つは人間にも分かる水準における愚かさ。人間にも分かる水準とは、誰からも愚かと見られる愚かさではない。むしろ、多くの人からは賢人ともてはやされるが、本当は賢くない人がいる。今のような時代にはこのことが明らかになっている。例えば、世界の企業の頂点にいる人は賢いと思われていた。その人間としての価値が変わったわけではないが、トップと言われた企業は一夜のうちにトップの座から底辺に落ちた。したがって頂点にいた人が賢いとは言わなくなった。しかし、こういう変化が起こることを予告していた人は多いとは言えないが少なくはなかった。その主張を支持する人も、少数とはいえいたのである。つまり、人間の判断で分かる賢さがある。それを心得ている人は少数者と言われるが、権力を執らない、あるいは執ろうとしないだけで、実際はかなりの数いる。
預言者がここで言う愚かさは、時代の変化の中で馬脚を表すような意味の愚かさとは違う。神が知者の知恵を愚かにしたもう、その愚かである。それはユダ国の安全保障選択の破綻によって明らかになるが、その破綻なしでも誤りであることを我々は知らなければならない。つまり、国の安全の維持というような視点からの考察では捉えられない。
ここでは「十字架の福音」の前でこそ愚かの愚かである所以が明らかにされるという視点に到達すべきだということに触れなければならない。Iコリント1章18節が「十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いに与る私たちには神の力である」と言っているところが重要である。イザヤが十字架の言葉を述べ伝えたのに、人々が聞かなかったということがここで説かれていると言うならば、これは説明不足であるが、真理に照準を置いている。イザヤは真の言葉がこの世の学者や知者によってでなく、神の遣わしたもう預言者によって明らかにされていることをここで言う。
すなわち、この世の賢者とされる人々にはその職務を正しく行なうための指導者として、預言者が遣わされていた。たしかに預言者は、主がその民全体を導くためにこそ遣わしたもうたのであり、王の政治顧問というような高い身分にあり、上層部に対する感化力を特に持っているのではない。預言者は、その語る神の言葉自体の力によって人を動かすのであって、口を開かなくても身についた威厳によって人々が有り難がって言うことを聞くというものではない。
ただ、王また王に助言する職務を持つ大臣、重臣、顧問官というような立場の人は、職務上、特に優れた聞き分ける能力を必要とする。一般の人民に聞く力がなく、聞くべき言葉を聞き取れない場合、「ああ禍いである」と言われるが、破滅を蒙る範囲は狭いから、王に聞く力がない不幸よりはまだましである。王は権力を持っているので、判断を過てば国中全体が過つ。イザヤのこれまでの例で見た通り、預言者は王に聞かせようとして御言葉を語りに行く。7章9節で聞いたが、「もしあなたが信じないならば、立つことは出来ない」。これは王でなくても聞くべき言葉であるが、特に王アハズに聞かせるために語られた。国は神に信頼してこそ立つ、信仰がなければ立つことが出来ない、という言葉である。
この言葉は人民全体に当て嵌められる。人は信仰によって立ち、一人一人はこの信仰によって立つとの原理に生きる。しかし、王たる者はこれに特に耳を傾けねばならない。国は権力者が人民を糾合すれば立つというものではなく、信仰によらなければ国は立たない。だから、この時イザヤはわざわざ王に会いに行ってこれを語った。それでも、王は自分に対して特に語られているということに気付かなかった。
こういうことが繰り返される。彼らは安全のためには軍事力が重要だと考える。したがって、軍事力を持つ国を如何にして味方に引きつけて置くか。国防のために、どうすれば資金を調達することが出来るか。そういうようなことに思い煩う。
今回も同じである。すなわち、王と、王を取り巻く高官たちは、エジプトの軍事力に頼って国の安全を図ろうと考え、アッスリヤの威力に対抗する姿勢を国の方針とした。ここに最大の問題点がある。彼らは国の宗教を無視しているわけではない。どこの国でも宗教を重んじる程度には、ユダでも宗教は尊ばれている。しかし、神の約束を信じることによって国が国として立つというふうには考えない。だから、信仰なしに国が立ち、国が立った上で宗教を飾りとして飾る。預言者がいても国の存立の根幹に関わることとして預言者の言葉を受け入れることはしない。
預言者は10節に「主が深い眠りをあなた方の上に注ぎ、あなた方の目である預言者を閉じ込め、あなた方の頭である先見者を覆われたからである」と言う。
主がなさったのだから、あなた方の判断の誤りについて、あなた方に責任はない、という意味ではない。このことは後で13節以下にもっとハッキリ示される。
11節に「この全ての幻は、あなた方には封じられた書物の言葉のようになる」とあるが、幻が与えられているのにあなた方には通じないという意味である。そして、幻とは我々の普段使う意味と異なるが、これはむしろ「啓示」というふうに取るべきである。今日の言葉遣いでは、幻とは見えない物、実在の不確かな物、想念、妄想という意味だが、昔の人は幻とは目に見えないことを神が霊の力によって幻によって示したもうたもの、と受け取っていた。つまり、預言者はそれを見て人々に告げるのである。
だから、預言者が明らかな声で語っているが、その預言は彼らにとって封じた書物の言葉のようであって、現にあるけれども、全く届かない、というのである。
そこで早速疑問が起こるかも知れない。多くの場合、預言者が語っても王たちや民衆は聞かないだけでなく、反駁し、拒絶し、預言者虐殺を始める。つまり、預言者の言葉は聞く人たちの判断に真っ向から逆らうのである。だから、封印された書物と同じであるというのとは違うではないか、という疑問である。
この疑問にうまく答えることは出来ない。たしかに、イザヤは余り迫害を受けなかった。例えば、エレミヤが井戸の中に吊り下げられたような、また民衆から結局斬り殺されたような迫害はないらしい。20章で見た3年に亙って裸、裸足で過ごしたことは惨めさを露骨に示したことではあるが、自分でした処置であって、人から虐待されて、着物をはぎ取られたのではなかった。
イザヤの言うことが分かり難かったわけでもない。8章の初めで見たことであるが、神はイザヤに「1枚の大きな札を取って、普通の文字で『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」と命じられた。「掠奪は速やかである」という誰にも分かる言葉だ。
次回の30章8節で「今行って、これを彼らの前で札にしるし、書物に載せ、後の世に伝えてとこしえに証しとせよ」と言うのも、人々にハッキリ示されることである。閉じられ、封印された書物のように何も読み取れないのでなく、示されているのに見ないことを反語として言ったのだ。
大事なことは次の13-14節である。「主は言われた、『この民は口をもって私に近付き、唇をもって私を敬うけれども、その心は私から遠く離れ、彼らの私を畏み恐れるのは、そらで覚えた、人の戒めによるのである。それ故、見よ、私はこの民に、再び驚くべき業を行う、それは不思議な驚くべき業である。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、聡い人の知識は隠される』」。
人々は表向き神に恭しく近づき、口先では信仰を語る。だから、神がイザヤを介して語りたもうた言葉は一応恭しく受けた。しかし「聞き置く」という形であり、聞いて従うのではない。これは主イエスがマタイ伝15章8節で引用してパリサイ人を責めておられることで有名である。うわべだけ、また聞くだけで留める、これをイエス・キリストの非常にお嫌いになった姿勢である。
次に15節からはまた強い調子の裁きの言葉である。「禍いなるかな、己が計りごとを主に隠す者。彼らは暗い中で業を行い『誰が我々を見るか、誰が我々のことを知るか』と言う。あなた方は転倒して考えている。陶器師は粘土と同じ物に思われるだろうか。作られた物はそれを造った者について『彼は私を造らなかった』と言い、形造られた物は形造った者について、『彼は知恵がない』と言うことができようか」。
己が計りごととは彼らの安全保障政策、これを主に隠すとは、自分たちこそ知っている。人々にも、神にも触れさせるまい。という自負である。彼らの愚かさを語るところで明らかにされるが、彼らは粘土が陶器師よりも己れを賢いとするようなものだと言う。それは転倒した考えである。
その時代の過ぎ去らぬうちに大逆転が起こる。「しばらくしてレバノンは変わって肥えた畑となり、肥えた畑は林のように思われる時が来るではないか」。人々が粘土と陶器師の地位を逆転させているのに逆らって、神の逆転が起こる。「その日、耳しいは書物の言葉を聞き、目しいの目はその暗闇から見ることが出来る」。耳があっても聞けない者、目があっても見えない者が大きい顔をしていたのが逆転する。主イエスはイザヤ書のこの言葉に続いて、マタイ13章16節で「あなた方の目は見ており、耳は聞いているから幸いである」と言われた。
「柔和な者は主によって新たなる喜びを得、人の中の貧しい者はイスラエルの聖者によって楽しみを得る」。これも大逆転だ。キリストによって大逆転が始まったのである。