2008.10.30.

 

イザヤ書講解説教 第68

 

――28:1-29によって――

 

「エフライムの酔いどれ」。こういう言葉が繰り返される。エフライムはサマリヤ、北イスラエルであるから、神の裁きが北王国に臨むという主題の預言であると思われる。だが、繰り返して述べられるのは「エフライムの酔いどれの誇る冠」という言葉で、冠を誇りとする者、それはエフライムの王と取れる。また国の豊かさの象徴とも取れる。その誇りに対する、預言者を通しての神の審判が語られていることは理解できる。

 イザヤ書のここまでの学びで分かっているが、エフライム王はユダの王と違って、神の任命に基くダビデ家の出ではないし、大祭司の司式 のもとで神と国民とに誓約して即位するのでもなく、自ら主権者を名乗って、前の王を倒した覇者である。武力で覇権を執った者であるから、王となっても、武力で人民を抑圧することしか考えない。この国にも神の民はいるのだから、神はこの国に預言者を送っておられる。しかし、ユダ国とは違い、イスラエルの王は、神によって立てられているとの恐れを全く持たない。したがって、預言者を通じて語られる神の警告を聞かず、聞いて恐れることもなく、ひいては自らの立てられた務めを如何に守るべきかの検討もしない。

 だからこの国において王家は頻々と転覆する。エフライム王が酔いどれであったという記録があるわけでないが、武力をもって権力の頂点にのし上がった者は、自分より上の者はないと感じているから、己れの欲望を抑制できないで、例えば、酒に酔う楽しみに耽り始めると、抑えが効かなくなる。そこで、権力を獲得しても間もなく破滅して行く。国も滅び、シリヤの属国となり、ついでアッスリヤに侵略される。

 この預言の初めの部分には、エフライムについて「肥えた谷のかしら」、また「しぼみ行く花の美しい飾り」という比喩的表現が繰り返される。ユダと比較するとエフライムは豊饒で、花も咲いて美しい。主たる作物は葡萄で、丘と谷は葡萄畑である。葡萄産業の豊かさに酔いしれるのだ。豊かなだけに、ユダと比べると、もっと繁く北方、ここでは特にアッスリヤからの侵略を受ける。それが2節で語られる暴風の襲うような禍いである。また4節では夏前の無花果が、もぎ取られて食べられてしまうと言うように、侵略者に掠奪される。この章では「アッスリヤ」の名は出ないが、前からの繋がりで分かる。ただし、主がなしたもう裁きであることが強調される。

 エフライムはヤコブの子であるヨセフの子の氏族だ。彼らには祝福が約束され、イスラエル12氏族の中で最も豊かな嗣業の地を得た。しかし、北王国は早く滅びた。では、神の約束は空しかったのか。そうではない。律法を守らないから滅びて当然だが、その滅びの中にも主の憐れみによって残る者がいる。5節に「その日、万軍の主はその民の残った民のために栄の冠となり、麗しい冠となられる」と言われる。エフライムは裁かれ滅びるが、残りの者は残される。その残りの民にとって、主が冠となられる。

 6節には「また、裁きの席に座する者には裁きの霊となり、戦いを門まで追い返す者には力となられる」と続いて言われる。これはエフライムにおいて裁判も廃れてしまう。だが、主の霊が回復を齎らす、また国敗れて門の中まで攻め込まれたが、それを門の外まで追い返すという意味である。

 6節まではエフライムへの裁き、また恵みの回復の預言であるが、この28章また続く29章では、エフライムでなくユダへの審判と恵みの回復が語られる。14節を見れば直ちに分かる。「エルサレムにあるこの民を治める嘲る人々よ、主の言葉を聞け」。これはユダを治める支配層に対する警告である。先にエフライムが間もなく崩壊することを述べたのは、ユダとエルサレムに対する警告の謂わば先触れであった。

 では、裁かれるのはユダの支配層、力と富を持つ者であるか。それもあるが、それだけではない。7節には「祭司と預言者は濃き酒のゆえによろめき……」と言われる。祭司と預言者が酒に酔いつぶれて、民を教え、礼拝を導く宗教的な務めを果たしていないことを特に取り上げている。要するにユダ全体に対する審判である。

 78節の「祭司と預言者」は預言者イザヤに逆らって、エジプトと軍事同盟を結んでアッスリヤに対抗しようという政策を支持している祭司・預言者だと解釈する人がいる。それが正しい解釈かも知れない。イザヤの預言はなおずっと続いて、301-2節に「彼らは計りごとを行うけれども私によってではない。同盟を結ぶけれども、我が霊によってではない。罪に罪を加えるためだ。彼らは我が言葉を求めず、エジプトに下って行ってパロの保護に頼り、エジプトの陰に隠れようとする」とある。だから酒に酔いつぶれて、食卓に嘔吐するというのは、エジプトとの同盟の話しがうまく運んで、祝杯を挙げ、酔い潰れた様子と見る方が当たっているかも知れない。

 9節の「彼は誰に知識を教えようとするのか……」以下の言葉はなかなか難解である。これは酔っぱらった祭司と預言者にイザヤが問い掛けるのか? それとも祭司や預言者がイザヤをあざ笑って、彼の説教が訥弁で、子供に教えるような言い方であるところを真似て、「教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則」と、こちらに少し、そちらにも少し、教えるだけではないか、と言う揶揄の言葉か? 18節には「契約」、「協定」の取り消しとあるから、これはイザヤを誹謗する者らへのイザヤの答えと理解するのが良いと思う。すなわち、イザヤの語る預言が、謂わば外国語で言っているかのように響いて、彼らには分からないから子供相手の言葉のように聞こえるのだ。主は先に「神に止まることが安息だ、疲れた者はここで安息を得るのだ」と言われたのに、彼らには聞けない。だから、彼らには意味の分からない言葉としてしか響かないようになったのだ。……そう預言者は反論している。

 だから、13節後半にあるように、彼らは前に進んでも「後ろに倒れ、破られ、罠にかけられ、安息を与える言葉を受けていながら、捕らえられる」ことになる。

 「それ故、エルサレムにあるこの民を治める嘲る人々よ、主の言葉を聞け!」とイザヤは言う。この嘲る人たちは支配層、政策決定者である。国の安全保障をエジプトとの軍事同盟に置こうとする人々である。私の言うのは主の言葉であるとイザヤは言う。 彼らが「死と契約し、陰府と協定を結んだ」とは、15節と18節に繰り返されるが、エジプトとの同盟のことである。これによって安全が保障されると彼らは思っているが、滅びに至るほかない。「嘘を避け所とし、偽りをもって身を隠した」とは、同盟の内実が偽りそのものだという意味である。

 この偽りに対し、主なる神は言われる、「見よ、私はシオンに一つの石を据えて基とした。これは試みを経た石、堅く据えた尊い隅の石である。信ずる者は慌てることはない。私は公平を測り縄とし、正義を下げ振りとする。雹は偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す。その時あなた方が死と立てた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行なわれない。漲り溢れる禍いの過ぎる時、あなた方はこれによって打ち倒される」。

 「試みを経た石」と言われるのは聖書用語である。我々の日常生活の中では余り使われなくなったのは良いことではないと思う。頑丈そうに見えるだけでは不確かで、頑丈そのものであることが試練によって確かめられなければならない。その確かなものにこそ信頼すべきである。

 ユダの国民が上から下まで国の安全を託しようとしたのはエジプトとの軍事同盟であった。アッスリヤが重圧を掛けて来る時にはエジプトが助けてくれるという約束であった。しかし、その約束は嘘であり、頼みにしたエジプトの助けは来なかったのである。

 それに対し、神の差し出したもう確かな拠り所は「シオンの石」である。これに依り頼むならば慌てることはない。では、それはどういう石なのか? 神が「その石は私である」と言っておられると取るべきである。人々の当てにしているエジプトの助けと対照的なのは、どこか他の国ではない。どこかの英雄でもない。真に確かなのは神の真実であり、その神への信頼である。

 イザヤ書で我々の記憶に感銘深く残っているのは7章にあった一つの事件の際の言葉である。アハズ王の時、スリヤとエフライムが連合してエルサレムに攻め込んだ。その時、イザヤは「気をつけて静かにし、恐れてはならない」と告げた。そして「もしあなたが信じないならば、立つことは出来ない」と言った。信頼して慌てないことである。

 今度の教えも基本的に同じと見て良い。ただ、神に依り頼むことであるが、今回「シオンの石」は、「隅の石」とも呼ばれており、ハッキリ指さす物ではないかも知れないが、聖書の慣例として或る形を考えさせる象徴ではないであろうか。我々が思い起こす一つの聖句は詩篇26節である。「私は我が王を聖なる山シオンに立てた」。

 もろもろの国びとは騒ぎ立ち、地の王たちは立ち構え、主とその油注がれた者とに逆らっている。その時、主は「私は我が王を聖なる山シオンに立てた!」と宣言したもう。聖なる山シオンに立てられた「石」、それは油注がれた者、キリストを指している。

 もう一つ思い起こす聖句は詩篇11822節である。「家造りらの捨てた石は隅の首石となった。これは主のなされた事で我々の目には驚くべき事である」。これも旧約におけるキリスト預言としてキリスト教会には馴染みがある。主イエスもルカ伝2017節で「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」と書いてあるのはどういうことか、と問うておられる。また使徒行伝4章を見れば、ペテロは足の立たない人を立たせた後の説教で「この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなた方が十字架につけて殺したのを、神が死人の中から甦らせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなた方家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救いはない。私たちを救い得る名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」と言った。イザヤによって語られた「シオンの石」の意味はここで明らかになる。

 次に17節に、「私は公平を測り縄とし、正義を下げ振りとする」と言われる。シオンの石に象徴されるお方が来られて、測り縄で寸法をキチンと測り、下げ振りで垂直線に狂いがないかどうか点検するように、公平と正義が行なわれているかどうか、偽りや誤魔化しが隠されていないかどうか、厳密に調べるという意味であると考えられる。しかし、もう少し考えて見よう。

 「その時あなたが死と立てた契約は取り消される」。測り縄の譬えは普通、神の審判を譬えるものであるが、今聞いているのは終わりの日の裁きではない。終わりの日のことを考えても差し支えないが、ここでは特に今日的問題、エジプトとの同盟を進める政策がシオンの石の検査を受けると言われる。シオンの石は来たるべき日に関する審査であるが、ここでは今進められている軍事同盟の偽りを摘発する役割を演じる。したがって我々も、来たるべき日に受ける厳密な審査を覚えて偽りがないように己れを整えることも必要であるが、それを考えるだけで良いのかと問われる。今日的現実への適用を考えないで、彼方の日の審判だけを考えてよいのか? イザヤによって語られた警告を昔の教訓と取って、そこから幾らか参考になることを聞き取って置けば良いというのとは根本的に違うことを今日は学んでいるのである。我々の安全についてどう考えるのか? 経済不安が世界を覆っている今、国々の中で治安が乱れている今、国と国の間の平和が極めて不安定である今、我々は何に依り頼むのか? 世間の多くの人が考えているように、比較的安全と見える国と軍事同盟を結ぶことに平和の保障があるのか? これはアッスリヤの武力に依存するか、エジプトの武力に依存するか、という相対的比較をする知恵の問題ではない。神の民が、神のみに全面的に依り頼むか、神以外のもの、自分の国の軍事力、あるいは同盟国の軍事力、あるいはどこかの国の政治力・経済力に、信頼の一部を置くことが正しいかどうかを考えなければならない。

 人々が比較的安心だと思っていたものが続々と崩れているのが現代である。だから、イザヤが言っていたことはズッと分かり易くなったと感じている人が少しは増えている。しかし、その分かり易さに信頼していては、その「分かり易さ」も極めて不安定なのだということを悟らなければならない。目が覚めるだけでなく、何かが見えるというのでなく、見るべきものを見なければならない。見るべきものとはシオンに立てられた石、試みを経た石である。神がすでにシオンに石を立てておられることが確かな徴しではないかという指摘である。

 イザヤは20節で、寝床を作っても身を横たえる事の出来ない愚かさを譬えとして、政策の誤りを指摘する。23節以下は農作業を主が教え導きたもう実例を引く。21節で歴史の中から主が戦って主が勝利したもうた実例をペラジム山とギベオンの谷の戦いから引いて来る。前者はIIサムエル520節、後者はそれに続いて22節に記される。主が戦い、主が勝利されたのをダビデは経験した。どちらもダビデから引いた例であるのは、ダビデの家系の王に注意を喚起するためである。

 主が戦いたまわないかのように、それ以外のところに助けを求めるのは、神に対する背反である。不信仰の罪を恐れなければならないと覚醒が促されるのを我々も聞こう。すでにシオンの石は据えられたのである。

 

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