2008.09.28.

 

イザヤ書講解説教 第67

 

――27章によって――

 

 27章の初めに「蛇」、「レビヤタン」に対する神の審判と、ヤコブの祝福が予告される。すなわち、1節では前者が、2節以下では後者が語られ、二つのことが一対になっている。どちらも「その日」に行なわれる。その日が来るまでは隠されていて、その日一挙に実現する。それが主の日に起こる究極的な出来事である。
 「レビヤタン」の名は新約聖書にはないが、旧約の多くの箇所で聞き慣れており、それが海中深くに棲む怪物、あるいは怪魚、あるいは龍であり、ラハブとも呼ばれ、新約のサタン、悪魔と殆ど同じ物を意味していると我々は理解する。だが、どういう姿で、何色をし、どんな大きさであるかを見た人はいない。我々も、レビヤタンを見ていないから捉えようがない、とは言うまい。見て理解するのでなく、我々に襲い掛かって来る様々の悪魔的なものの背後にある、目では捉えられない存在、力、と理解している。
 では、レビヤタンは神の創造された動物の一つか。それとも被造物以外の物か。それとも人間の空想の中にだけあるもの、あるいは異教的神話の産物なのか。その起源は何か。こういう疑問が起こされる。この問題に深入りしていては、我々自身が底なしの泥沼に陥ることになるから、益のないことは注意深く避けなければならない。
 黙示録129節には「この巨大な龍、すなわち、悪魔とかサタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経た蛇は、地に投げ落され、その使いたちも、もろともに投げ落された。云々」とレビヤタンの末路が書かれている。この記事で分かって来る部分もあるが、ここも象徴的な表現をしているから、象徴の解釈に深入りしないよう注意していないと、ますます混乱する。
 黙示録のその箇所から判断すれば、レビヤタンは初め天上にいたのに、そこから地に落とされる者であることがハッキリする。要するに、神に造られた者のうち最も賢いものであるのに、神に仕えることを忘れて、与えられた力と知恵に慢心し、自らを高く持ち上げ、神と並び立つものになった。したがって、サタンを神と混同して、これを崇め、礼拝する人が出て来る。
 さて、「その日、主はこの曲がりくねって逃げる蛇を堅く大きい剣で撃ち殺したもう」。つまり、その日が来るまでは、主はこれを滅ぼすことを手控えておられるが、その日に実行したもう。これを滅ぼすことが出来るのは主なる神だけである。人が滅ぼそうとしても曲がりくねって逃げる。その急所を狙って一撃を浴びせようと試みても逃げられてしまい、これに立ち向かおうとした人は滅びる。しかし、その日にこれは滅びる。
 レビヤタンの姿については、人間の空想であると言ったが、レビヤタンの死滅、それからの我々の解放、これが空想であると言ってはならない。その死滅は空想でなく現実なのである。それが全く現実であることは、次の段においてハッキリ示される。
 「その日」という言葉を我々はイザヤの預言の中で何十回となく聞いて来た。先に言われたことと関連して「その日」と言われるのだから、その日にはまたこういうことも起こる、というのである。その日についての認識はこうしていよいよ明らかになる。それは今ではなく、その日に起こる。だが、それまで猶予の時が幾らあるかという問題ではなく、その日に神がその全能を顕したもう。主の手は隠されていて、信仰をもって測り知ることが出来るだけであるが、その日には隠れるところなく明らかになる。
 その日、「麗しき葡萄畑よ、歌え」と主は促したもう。この章の6節にある通り、その「葡萄畑」はヤコブの家を譬えとして言ったものであることは説明の必要もない。イザヤ書の読者ならば「私はわが愛する者のために、その葡萄畑についての我が愛の歌を歌おう」という51節の「美しい愛の歌」を思い起こすことが出来る。主は愛すべき葡萄畑を、手を掛けて最上の物に育て上げたもうた。しかし、優れた品種、行き届いた世話にも拘わらず、その畑に実ったのは「酸い野葡萄であった」と歌われる。
 主が育てたもうた麗しき葡萄畑は、主の怒りを引き起こす忌まわしき酸い葡萄となった。その時以後、ここに至るまでの経過は、要約すれば、葡萄畑への審判、そして良き葡萄畑の回復への期待であるが、今や期待の日が来たのである。
 回復について我々の聞く第一の言葉はレビヤタンの絶滅である。それは主の手によって実行される。悪魔は自滅するのではなく、英雄的な勇士の出現によって倒されるのでもなく、巧みに逃げ回ろうとするのだが、遂に主の力強い御手により、その剣によって二度と立ち上がれないように殺される。
 第二に聞く言葉は、レビヤタンの絶滅によって、自動的に葡萄畑の繁栄が回復するのでなく、神の働きが伴わねばならないということである。3節は「主なる私はこれを守り、常に水を注ぎ、夜も昼も守って、損なう者のないようにする」と言われる。神が悪魔を討ち滅ぼしたもうたならば、葡萄は妨げられることなく、自ずから生い育ち、発展し、自ずから良き実を結ぶのかというと、そうではない。回復されたものを、神が日夜ともにおられて、守って下さるのでなければ、葡萄は育たないし、実らない、ということを弁えねばならない。回復ということを人はそれ自体で充足している状態、と考えるが、それは違う。神がつねに共にいて働きたもう状態と捉えなければならない。
 さらに、第三に学ばなければならない要目が残っている。主が傍に立っていて下さるなら、それだけで良き実が生じるようになるのではないか、接近して下さるだけで恵みが伝達されて来るのではないか、と思われるであろう。しかし、近くいるという簡単な説明で済ませてはならない。暖かい物の傍に置けば、凍り付いた物体は解凍されるのであるが、神の恵みの回復をその譬えのように理解しては間違いである。傍にいて下さるだけで恩寵の状態になって行くのでなく、神は一つのアクションをされる。それは罪ある者に対する和解の業である。これは「罪の赦し」と言われる場合が多く、それで間違いはないのであるが、「罪の赦し」とは、心に赦し、宣言するだけで何も作業をされないことではない。それは強力で猛烈な働きである。
 イエス・キリストにおける和解を我々は学んでいる。それは彼が私に暖かな眼差しを向けて下さったというだけのことか。そんなものではない。彼は私のために死んで下さった。私の負っていた罪の負債を負ってそれを償って下さった。だから和解が現実となったのである。そのような強烈なアクションがなされていることをここで読み取らなければならない。4節にある「私は憤らない」、5節で語られる「私と和らぎをなせ、私と和らぎをなせ」はそのことだと教えている。
 あの葡萄畑の歌を思い起こそう。主は良き葡萄を植えたもうたのである。実らせるための手入れは十分になされた。しかし、葡萄の樹は変質して、酸い葡萄しか結ばないものになった。これを本来の実を結ぶ状態に立ち返らせるためには、分かり易く言えば、和解するだけでなく、新しい樹として再生させることが必要である。キリストは我々のためにそれをして下さったのである。回復は離れておられた主が戻って来られることだけで済むのではない。
 「常に水を注ぎ、夜も昼も守って、損なう者のないようにする。茨とおどろとが私と戦うなら、私は進んでこれを攻め、皆ともに焼き尽くす」と言われる。
 7節に移る。「主は彼らを撃った者を撃たれたように彼らを撃たれたか。あるいは彼らを殺した者が殺されたように彼らは殺されたか」と言われるのは、彼らの背反に対する報復あるいは刑罰と、そこからの回復とを比較させたものである。主は背く者を罰する時、自ら手を下すことは通常なさらず、刑罰を執行する者を立てて、その者に刑罰を執行させたもう。これまで見て来た所では、その執行者はスリヤでありまたアッスリヤであったが、刑罰の務めが済んだ後には、刑罰を執行した者を罰したもう。イスラエルが罰せられるのと、イスラエルを罰するために用いられた者が罰せられるのと、どちらが苛烈であるかは、見た者には分かるのである。
 言葉を換えて言うならば、神が御自身の民を撃ちたもう時、回復の余地を残したもう。イスラエルを撃つために用いられた国が撃たれる時、回復の余地は残されず、用の済んだ物として完全に捨てられる。
 これをさらに言い方を換えて言うならば、御自身の民を撃ちたもうのは、回復させる前提として、あるいは救いの完成に至らせる中間の過程として、刑罰が行なわれると見なければならない。
 89節「あなたは彼らと争って、彼らを追放された。主は東風の日に、その激しい風をもって彼らを移しやられた。それ故、ヤコブの不義はこれによって贖われる。これによって結ぶ実は彼の罪を除く、すなわち彼が祭壇の全ての石を砕けた白亜のようにし、アシラ像と香の祭壇とを再び建てないことである」。――これは神の刑罰が十分に遂行されて、もはやこれ以上に罪の故に彼らを苦しませることはなくなると言う。しかし、8節以下、主が彼らと争いたもうというときの「彼ら」は、ヤコブなのか、ヤコブを苦しめる異国の民なのか。「祭壇の石を砕けた白亜のようにする」とは、人々の間に普及していた異教の祭壇が焼けて石灰のようにボロボロになって、これを再び建て直してアシラの祭壇としたり、香を焚く祭壇を建てることが出来なくなることであるが、異教の祭壇を建てさせた異教徒が主によって処罰されて、異教の祭壇を建てさせる強制が出来なくなることか。
 どちらに取ることも出来るが、後者の意味に取る方が良いのではないかと思う。すなわち、次の1011節はイスラエルを虐げて栄えている国の滅亡を預言したものと取る方が自然だからである。「堅固な町は荒れて淋しく、捨て去られた住まいは荒野のようだ。子牛はそこに草を食い、そこに伏してその木の枝を裸にする。その枝が枯れると折り取られ、女が来てそれを燃やす。これは無知の民だからである。それゆえ、彼らを造られた主は彼らを憐れまれない。彼らを形作られた主は、彼らを恵まれない」。
 これと12節以下のイスラエルの民の祝福が対照的に読まれる。「イスラエルの人々よ、その日、主はユフラテ川からエジプトの川に至るまで穀物の穂を打ち落とされる。そして、あなた方は一人一人集められる」。したがって1011節はイスラエルを撃つ者だ。
 章の初めに繰り返された「その日」という言葉が章の結びにも繰り返される。葡萄畑の採り入れの喜びと並ぶ喜びである。穂を打ち落とすとは、原始的な穀物収穫は穂を摘み、打って実を集めたことを言う。その穀物の集められるように、人間も散らされていた状態から集められた状態に回復する。それはシオンの山での礼拝への結集である。
 13節でもさらに繰り返される、「その日、大いなるラッパが鳴り響き、アッスリヤの地にある失われた者と、エジプトの地に追いやられた者とが来て、エルサレムの聖山で主を拝む」。――神は一たびは罪ある民を打ち、追い散らし、異国の囚われ人とされたが、「その日」が来れば彼らを回復したもう。それは先ず、御自身が罪人と和解し、再生させたもうという面から述べられたが、ここではラッパの響きによって散らされていた者を呼び起こし、集合させるというイメージによって説明したもう。
 ラッパの響きという譬えでは、現代生活の騒音の中にいる者には難解すぎる。しかし、幸いにも聖書を読む民ならば、ラッパの響きという言葉だけで記憶を新たにして胸躍らせることが出来る。ラッパはいろいろな機会に信号として吹くのであるが、旧約ではヨベルの年の到来の信号である。レビ記25章にその規定がある。8節から読もう「あなたは安息の年を7たび、すなわち7年を7回数えなければならない。安息の年7度の年数は49年である。7月の10日にあなたはラッパの音を響き渡らせねばならない。すなわち、贖罪の日にあなたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。その50年目を聖別して、国中の全ての住民に自由を触れ示さねばならない」。
 旧約の民はヨベルのラッパの鳴る日を待っていた。しかし、ラッパが鳴らないうちに旧約時代は終わった。では、キリストが来られた時、ラッパは吹き鳴らされたか。そうではなかった。或る意味ではラッパは鳴った。しかし信仰によって捉える者にしか解放はなかった。キリストの民もラッパを待たねばならない。それはIコリント15章で語られる。すなわち、終わりのラッパが響き、死者が甦り、死は勝利に呑まれるのである。

 

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