2008.08.31.

 

イザヤ書講解説教 第66

 

――26章によって――

 

 

 今日はイザヤ書26章に学ぼう。ここで学ぶことは一言で纏めれば「平和」である。あるいは、その平和が成就した「神の国」が主題であると見ることも出来る。さらに、その神の国に入り、平和に与る者の「信仰」について語られている。ただし、御国を知ることの完成と言うよりは、8節で「待ち望む」と言っていその状態である。栄光の輝きの内に入れられたと言わない方が良い。

 語句の解説はむしろ控えて置きたい。すなわち、ここに描き出されている場面を心に思い描くことが出来れば、それで十分な解き明かしである。あるいは、この章の御言葉は一続きの歌であるが、その一節を、軽々しくではなく、心を籠めて歌い上げるなら、それは歌の意味が十分に理解されることと同じである。

 言い方を換えれば、今日読む御言葉の一節一節が心の隅々に、いや肉体の肢体の端々まで、十分に沁み渡るまでは、その言葉を我々は良く理解していないことになる。そういう訳で、この章の語句を一つ一つ解説するのでなく、幾つかの部分だけを取り上げて、その意味を噛みしめれば、全体が把握出来たことになると思う。

 第1節から学び始めるのが本来の学び方であろうと思うが、平和が主題であるから、先ず「平和」そのものを語っているところを聞いて置こう。それは12節である。「主よ、あなたは我々のために平和を設けられる。あなたは我々のために我々の全ての業を成し遂げられた」。

 「平和」という言葉を我々は常々語っているし、心に慕っている。自分だけでなく、周囲の人々の内なる思いを深く洞察しても、彼らが平和を求め、平和に憧れて、さまざまな接近を試みていることに気付かずにおられない。――もっとも、平和の追求に挫折し、希望を捨ててしまった人が非常に多いということも確かである。しかし、彼らが平和を最早考えない者になったと見るならば間違いである。「平和なんか要らない。オレたちは戦争を求める」と言っている人が増えているのは今日の事実である。だが、正気でそう考えているのでないことは本人自身が良く知っているから、ここでそういう人について論じることはしない。

 今、我々は平和について論じようと誘われているのでなく、誰が平和についてどう言ったかを学ぶのでもなく、「主が我々のために平和を設けられる」と語られ、我々がその言葉を真正面から受け入れたことだけを聞き取れば良い。人が平和について何と論じたかに心を向ける必要はない。私が平和を神からのものとして受け取っているかどうかということだけが重要である。

 さらに言えば、「主よ、あなたが私たちのために平和を立ててくださったのです」と私が告白しているかどうかである。平和は主が我々のために設けたもうものとして把握しよう。すなわち、我々が築き上げるものではない。神の業として平和はある。そして、平和は「我々のために設けられる」ものである。平和とは一つの状態であるから、出来上がった物をポッと置くのではなく、作り出す、纏め上げることである。だから、神が全ての業を成し遂げられたとも言われる。

 さて、この章は「その日、ユダの国でこの歌を歌う」という導入で始まる。ここは歓喜の歌が聞こえて来る場面である。それはユダ国において歌われる讃美であるが、歌われている主題は都エルサレムであり、その都に象徴される救いの成就である。ユダにおいて歌われるというのは、ユダの民がエルサレムを取り巻いて歌うということであり、そこに歌われている情景を心に描き上げよと促すのである。 都が中心であるが、勿論、都の外の村々に住むユダの民が、救いの讃美を歌うためにだけに配置された脇役だということではない。ユダの民が歌うとは、救われた者の喜びが歌われていることである。――我々はここで自分自身の救いが主題になっていることを深く捉えているのである。

 「我々は堅固な町を持つ」と歌われる。堅固な町に憧れるのでなく、すでに持っている。エルサレムが「堅固な町」なのだ。人が日常生活を営んでいる町を誉め称えているように聞こえるかも知れないが、この句は詩篇第46篇で「神は我らの避け所また力である」と歌われているのと重ね合わせて理解すべきである。

 その「堅固な町」について、重要なことが続く。「主は救いをその石垣とし、また砦とされる」。町の堅固さとは、救いの確かさである。救いの確かさが、譬えて言えば、堅固な城壁、あるいは砦で守られるような、安全かつ揺るぎなき状態、いやそれよりもっと堅固な状態にあると言うのである。詩篇に度々歌われるように、旧約の民はエルサレムの城壁の堅固さを見て、自分たちの救いもこのように確かであり、救いを信ずる信仰もその確かさが城壁のように揺るがないと感じたのであるが、このことには若干補足しなければならない。 エルサレムの城壁は揺るぎなきものの見本である、と旧約の人々は見てそう思った。しかし、この城壁は実際には崩れたのである。だから、エルサレムの城壁がどんなに頼もしく見えたとしても、本当の確かさがその程度のものであると思ってはならない。つまり、見てそう感じても、本当の確かさは掴めていないのである。御言葉を聞いて信ずる確かさこそ揺るがぬ確かさである。

 この町は自分たちの町で、そこに住むのは光栄だと歌っているように取れなくはない。だが、2節には「門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ」と書かれているところを見るならば、この門の中に、信仰を守る義人が入るという意味こそが重要なのだと悟らねばならない。堅固な町があって、敵に攻め囲まれた非常事態においても、門を閉ざせば敵は決して入ることが出来ないが、その程度の堅固さではない。信仰者が危機に際して守られ、安らかであることがここでいう「堅固さ」である。さらに踏み込んで言うならば、信仰者の身の安全が確保されるというよりも、信仰が試練の中でも揺らぐことなく貫かれ、信ずる真理が試みの中で曇らせられず、却って輝き出、「信仰の義」が保証されて、「罪の赦し」を得ている確認は動揺しないという点を見なければならない。

 ユダの民でエルサレム市内に住まず、城外で暮らしている者が多いが、危険が迫った時にはエルサレムの城壁の中に逃げ込むことが出来る、ということが歌われていると見て良いであろう。だが2節の「門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ」という言葉には、遠くまで広がった全ての信仰者に、安全の門が開かれているという意味があると見なければならない。遠くにいた人も門に入ることが出来る。

 ヨハネの黙示録2125節以下には「都の門は終日閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は諸国民の栄光と誉れとをそこに携えて来る。しかし、汚れた者や、忌むべきこと、及び偽りを行う者はその中に決して入れない。入れる者は小羊の命の書に名を記されている者だけである」と記されているが、それがイザヤ書262節の町の門の意味である。

 3節、4節に「あなたは全き平安をもって志の堅固な者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである。とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである」と言う。町の中の祝福された状態が示される。信仰の平安である。

 56節では、「主は高き所、聳え立つ町に住む者を引き降ろし、これを伏させ、これを地に伏させて、塵に返される。こうして足で踏まれ、貧しい者の足で踏まれ、乏しい者はその上を歩む」と言われる。これは高き者を低くし、低き者を高くされること、また真のエルサレムにおいては公平が実行されることを言う。高き者とは、バビロンやニネベの驕りに対する処罰が語られていると見ることも出来るが、全て高ぶる者への審判、エルサレムの中に格差がないことを読み取りたい。

 それに対応して、7節から10節には、神の都の統治される原理が「正義」だということが教えられる。正しい者の道は平らにされ、躓きは起こらないのである。そこに正義がある。平和は正義と結び付いているのであって、正義のないところに見せ掛けの平和があっても、それは真の平和でなく、容易に崩れる。その正義は2節に言われたように「信仰を守る正しい国民」の持つ正義である。正義の鍵は信仰にある。信仰とは神を信じ、神に服従し、神を待ち望み、神を慕い、神を求める。そうでない者は、恵まれても正義を学ばない。正義の行なわれる地にあっても正義の民でないから不義しか行なうことが出来ない。

 その信仰について重要な一つのことは13節の言葉である。「われわれの神、主よ、あなた以外のもろもろの主がわれわれを治めた。しかし、我々はただあなたの名のみを崇める」。世には主と自称する者が多い。自らを主であると言う者は我々に従順を要求する。その要求に従うことは必ずしも間違いではない。実際、我々に命令する人に従って置かなければ社会は収拾のつかないものになる。その人には私を従わせる価値はないから従わない、と口々に言い出したなら、世界は混乱してしまう。その人に我々を従わせるだけの価値があるかどうかを問題にすることは間違いである。人間としての価値の故に、その人の指図に従うというのではない。我々が従うために立てられている人に従うのはこの世のきまりである。

 だが、その人を崇めなければならないということになると別問題である。ここで「崇める」とは礼拝である。礼拝を捧ぐべきお方は唯一である。この原理がハッキリしていないならば、信仰は成り立たない。宗教らしいものはそこにあるかも知れないが、あちらの主を崇め、こちらの主を崇めるというのでは、その人自身の心も定まらず、社会秩序も定まらない。

 だから、神は「私が神である。私のほかに神はない」と断言したもう。このことを捉えない状態にあった時の混乱が16節以下に記される。それを思い起こさせられている。「彼らは悩みの時あなたに求めた」と言うのは悩みの内から救い出される前の状態である。「我々は孕み、苦しんだ。しかし、我々の産んだものは風に過ぎなかった」。こういう空しい時期があった。それは神の都に入れられる以前の状態であった。その状態から脱却した。 だが、それは簡単な脱却ではなかった。神の怒りの時期を経過した後の神の和解である。さらに、神はその前に言われる。20節「さあ、我が民よ、あなたの部屋に入り、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで暫く隠れよ」。部屋に籠って祈れば良いという程度のことではない。戸を閉じて、神の怒りから隠れなければならない。

 神の怒りの過ぎ去るまでを経験することは信仰者にとって重要である。神がその民をエジプトの奴隷状態から解放したもう時、滅ぼす天使の「過ぎ越し」を味わわせたもうた。エジプトの全ての家々を禍いが襲った夜、イスラエルの家は守られたのであるが、エジプトには禍い、イスラエルには祝福というふうに運命が振り分けられたのではない。イスラエルの家の門口にも滅ぼす天使が訪れた。しかし、そこには小羊の血が塗られていた。部屋に隠れ、戸を閉じ、暫く隠れるとは、世の罪を負いたもう神の小羊によって庇われ、罪が覆われることだと見なければならない。

 もう一つのことを19節で読まなければならない。「あなたの死者は生き、彼らの亡骸は起きる」。キリストの十字架の血のみでなく、彼の死人の中からの甦りが救いに必要なのである。

 

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