2008.07.27.

 

イザヤ書講解説教 第65

 

――2425章によって――

 

 「見よ、主はこの地を虚しくされる」。24章に入って我々の耳を頻々と打つ一つの響きは地という言葉である。ここまでの章で我々の思いを集中させられていたのは国、とその有りよう、国家の姿であった。ツロという国は今繁栄しているが、すでに没落したものとして描き出される。ユダ、エドム、バビロン、エジプト。それらはアッスリヤという国の武力のもとに崩壊して行く、と語られた。勿論、アッスリヤそのものも消滅する。我々はいわば絵巻物を繰り広げるように、国々の崩壊を見たのである。

 24章では、国の名は一つも出て来ない。昔、中国の詩人が「国破れて山河あり」と歌い、今なお共感を得て口ずさまれている。国は失われても山河が残る、という感傷に耽るのであろう。だが、預言者から聞くのは感傷の言葉ではない。「国」は消え失せ、「地」が虚しく醜い姿を曝すだけである。ユダの国、イスラエルの国、シリヤの国、アッスリヤの国……、みんななくなってしまい、地は空しくされたものとなる。地は悲しみ衰え、しおれ、衰えている。

 さらにこの預言では、「地」というのに対応して「民」という言葉を拾い上げることが出来る。聖書の言い方では、「国破れて山河あり」でなく、1節に言われるように、国ではなく地が空しいままに残り、「民は散らされたまま」なのである。

 国は破れても民が残っているというのではない。国の権力、国の栄光が消え失せても、民はしたたかに生きて行ける、と考えてはならない。もっと恐ろしい虚無が地の全面を支配している。

 御言葉の教えるように、国を建て且つ毀つのは主である。主が国を建てたまわないならば、民がいても虚しく生息するだけである。こういうことはイスラエルの民の国、ダビデ王国を典型とする国家についてだけ言われるものではなく、全ての国について当て嵌るのであって、その国の王と人民とが、主でいます神を信じているかどうかに関わりなく、主が建てたもうのでなければ国は建たない。それゆえに、新約聖書もI ペテロ213節で「全て人の立てた制度に、主の故に従え」と教える。人の立てた制度と見えても、主が認めておられるから、主の故に従う。そういうことがあるから、21節に書かれる通り、「主は天において天の軍勢を罰し、地の上で地のもろもろの王を罰せられる」のである。ここでは、すべての国家についての普遍的な原理が語られている。

 今言った21節では、主が地上で王たちを罰せられることだけを論ずれば良かったのであるが、この預言は天上における「天の軍勢」が罰せられることを先ず語る。すなわち「天の軍勢」とは、ここでは地上の権力・権勢の根源となるものとして、天に置かれているものを象徴している。つまり、「天にある」ということがそのまま、聖なる、永遠・不変なるものなのだというのでなく、天にあっても、神の意向のままに、あるいは建てられ、あるいはこぼたれるということを示しているのである。

 預言者が今語っていることを、遠い昔の教訓として聞いていてはならない。今日我々の前にさらけ出されている国々の姿をここで直視しなければならない。大国と言われる国々は武力、権力、財力、文明の力、また栄誉を露骨に競い合う。いや、大国と言われる国々だけではない。小国であっても、その国の中で権力は己れを絶対だと思い、その権力をもって真実を隠蔽し、白を黒と言いくるめ、弱き者を虐げ、罪なき者の血を流し、自国民を人質に取って大国に対して理不尽な要求を突きつける。そのような大国また小国の真の姿、つまり虚しい姿を我々はこの預言によって学ぶのである。

 しかし、聖書の軽率な読み違えや早呑み込みをしてはならない。今日の世界の国々に見られる政策の行き詰まり、経済の破綻、道徳秩序と自然秩序の崩壊の明らかな徴しを思えば、預言者の語る御言葉の真実さは否定出来ない、と多くの人は言うようになった。だが、それが我々の聞くべき御言葉に合致していると考えるなら、浅薄過ぎて殆ど意味がない。その程度のことは、神を信じていなくても、人間の思いが如何に虚しいかを悟る人ならば、容易に思い付く一つの道理である。それと違って、国々は堅固に建っているのだという観念を持つ人もいる。それに立ち向かって論争することは出来る。有利に論を進めることが出来るであろう。それでも、確信としてそれを貫くことは出来ない。どんな見解でも、そう思い込んでいる人を言い負かすことは困難である。我々に必要なのは、もっともらしく思われる言い方ではなく、神の意志決定についての揺るぐことなき信頼である。その確かさこそが真剣に求められている時代である。

 神はこの預言によって、国々が消え去り、地も衰えて行く事だけを知らせたもうのではない。滅びの宣言と組み合わさって、一つの国が復興する希望を示したもう。それはこの章の最後の23節で語られている。「こうして万軍の主がシオンの山およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前にその栄光を顕される」。もっと詳しくは25章の6節以下に示される。であるから、今日は24章だけでなく25章を併せて学ばなければ、御言葉の一面しか聞かないことになる。

 さて、256節は言う、「万軍の主はこの山で、全ての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しく貯えた葡萄酒をもって祝宴を設けられる」。

 これは先の章の7節で、「新しい葡萄酒は悲しみ、葡萄はしおれ、云々」とあったのとまさに逆である。それは地が空しくされたことの一端を具体的に示したものであった。その逆に地の豊かさを最も生き生きと描写したものが、葡萄の収穫、葡萄酒の仕込み、新しい葡萄酒の初飲み、また急いで飲んでしまわないで、ゆとりをもって長年寝かせて熟成したものを飲むことである。それに引き替え、地が空しくなる時には、葡萄も葡萄酒もなくなってしまい、葡萄が採れても味わう人はいない。しかし、神が祝福を回復させたもう時には、最も芳醇な葡萄酒を味わうことが復活するというのである。

 この回復を256節以下で学ぶのだが、それに先立って、神が地をむなしくし、荒れ廃れさせたもう理由は何であったかを学ばなければならない。それは2456節である。「地はその住む民の下に汚された。これは彼らが律法に背き、定めを犯し、とこしえの契約を破ったからだ。それゆえ、呪いは地を呑み尽くし、そこに住む者はその罪に苦しみ、また地の民は焼かれて、僅かの者が残される」。――人は地の衰えを見て嘆くだけでなく、己れの罪に立ち返らねばならない。昔も今も人はこの原則に戻って自らを考えなければならない。それも、人類が皆間違っていると決め付けるところから始めるのでなく、神から律法を賜っている者の自己検討として始めるのである。

 「とこしえの契約」と言われるが、神と神の民との契約は、恵みに依る契約であって、それ故とこしえに変わらない筈であった。それは永遠の祝福を保証するものと言うべきであった。ではあるが、一方的贈与によって幸福の所有権を譲渡されたのでなく、相互間の契約であるから、民の側で不真実がある場合には、神は祝福を停止したもう。民は選ばれた者の位置から転落し、呪いの中に沈み込んでしまった。

 その契約内容が「律法」である。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる神を愛すること、また己れ自身を愛するように隣人を愛すること」である。これは神が解放者としてイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放したもうた時、モーセを通じて公布したもうた根本原則である。イスラエルはそのことを繰り返し繰り返し聞いて来た。しかも、彼らはそれに背いた。それでも、神は預言者たちによって、そのことを繰り返し警告し、悔い改めに導きたもうのである。したがって、神が怒りから恵みの和解へと転向したもうだけでなく、民も恵みによって背反から悔い改めへと転換し、新しく生きなければならない。

 さて、「廃れた地が回復させられる」と大まかに捉えて良いのであるが、さらに詳しく恵みの遂行の仕方が解き明かされている。すなわち、全面的に廃れ、全面的に回復するというが、単純な裏返しでなく、滅びの中に少数の残りのものが残され、その残された者が核となって回復が起こることがここで指摘されている。「残りの者の立ち返り」。これがイザヤのメッセージの中核部分であることを我々は何度も聞いて来た。今回学ぶ箇所では、残りの者に割り当てられる務めについて明確な形では語られていないけれども、6節では「地の民は焼かれて、僅かな者が残される」と言い、13節では「地のうちで、もろもろの民の中で残る者は、オリブの木の打たれた後の実のように、葡萄の収穫の終わった後にその採り残りを集める時のようになる」と言われるのである。

 そのことと似ているのは、地が全面的に一様に荒れ廃れ、しおれ衰え、地は全く砕け去るのであるが、地の一角、そこだけは名指しで呼ばれる。2425節の「シオンの山」である。「こうして万軍の主がシオンの山、及びエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前にその栄光を顕されるので、月は慌て、日は恥じる」。

 全地が暗転してエルサレムだけが輝くというのではない。エルサレムから輝きが始まるが、光りは全地に及ぶのである。その光りを最初に見るのはエルサレムの代表者たる長老たちである。それを我々に置き換えても良い。先がけて光りに照らされたのは、その光りを多くの人の前に掲げる使命のためである。

 「万軍の主はこの山で全ての民のために祝宴を設けられる」と言われる特定の山がある。山の名前は上がらないが、シオンの山であることは問うまでもない。これはイザヤ書2章で「主の家の山」と言われていた山である。「終わりの日に次のことが起こる。主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高く聳え、すべての国はこれに流れて来、多くの民は来て言う『さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我々に教えられる、我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである」。

 その山はイザヤ書25章では祝宴の山として示される。「山」と「祝宴」の結び付きについて思い起こされるのはシナイの山である。出エジプト記1812節に、エジプトを出ることに成功した後、モーセのしゅうとエテロは、実家で預かっていたモーセの妻と子を神の山シナイに連れて来てモーセに引き渡し、イスラエルの長老たちがみな加わって、神の前で食事をしたことが記される。同じく出エジプト記2411節にも、民の長老70人がモーセと共にシナイ山に登って、神と契約をし、神を見て、飲み食いしたことが記されている。犠牲を神に捧げ、その犠牲の肉を神と共に食することはイスラエルにとって最高の喜びの酬恩祭であった。その食事がシナイにおいて行なわれたことの記憶は、旧約の民にとって最高の記念であった。

 ただし、シナイの山は、触れることも許されない聖なる山であり、神が臨在される時には雲に包まれ、見ることが出来ない。その山において長老たちが、神を見つつ神とともに食したことは繰り返し思い起こすべきことであるが、身近に繰り返し見るべきことではなかった。

 それが今、イザヤ書25章では、もっと身近なこととして、シナイからシオンの山に場所が移されるのである。この事情について最も適切な解き明かしをしているのは、新約聖書のヘブル書である。その1218節に言う、「あなた方が近づいているのは、手で触れることが出来、火が燃え、黒雲や暗闇や嵐に包まれ、またラッパの響きや、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉が響いて来た山ではない」。(中略、22節から)「しかし、あなた方が近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびにアベルの血よりも力強く語る注がれた血である」と説かれるのである。その言葉の解説は省略するが、解説はなくても、言葉の一つ一つが聞く者の魂に打ち込まれるのである。

 見ることを許されず、雲に隠されて見えないもの、それを信仰により、言葉によって捉えるのであるが、今はモーセの時よりもっと身近に、見えないお方は仲保者として我々に近くいまし、我々と向き合いたまい、その仲保者の血が契約の血として注がれることを、聖礼典として示されて、確信はさらに確かなものとされるのである。

 

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