2008.06.29.

 

イザヤ書講解説教 第64

 

――23章によって――

 

 イザヤ書のここまでのところを振り返って見ると、11章でメシヤの到来が約束された後、13章からはバビロンについての託宣であった。次に1428節からはペリシテについて、15章からはモアブ、19章からはエジプトについての託宣であった。そして、211-10節はまたバビロンについての託宣。2111節以下はエドムとアラビヤについての託宣であった。22章ではエルサレムについての託宣を聞いた。預言者イザヤは、特にユダとエルサレムについての預言を語る使命を帯びていたが、それに限らず、バビロンのような大国、エドムのような小国、アラビヤのように国をなしていない砂漠の民族集団、これら異邦人の国に迫っている危機を預言した。神はイスラエル・ユダにとっての神であるのみでなく、全ての国々の神であり、神を知らない国びとにとっても神でありたもうからである。これらを周囲の国々に対する神の怒りを羅列したものと見てはならない。これらは、その時の現実世界の展望である。ユダ王国はアッスリヤの脅威に曝されているが、この世界帝国の脅かしのもとに国々が置かれている。

 世の国々の問題を考えていては精神が散漫になると言う人があろう。なるほど、我々が己れの魂のことを考えず、直ぐ隣にいる人のことも顧慮せず、世界の国々のことをあれこれ論じていたならば、意味がない。世界の国々について考える者には、立つべき立場がある。それを踏まえなければならない。世界の主を思わなければならない。

 今回は23章で、ツロについての託宣を学ぶ。ここまでに上がった国々と比べて、ツロは異邦人の国ではあるが、ユダとは特にダビデとソロモン以来、緊密な共存共栄の関係を持つ友好国である。

 ツロは国と言って良いが、陸地と僅かに隔てられた岩山の小島、その上に建てられたフェニキア人の都市国家である。堅固な都市あるいは城塞として古くから有名だが、周囲の地域を支配して領土を拡張して行く政策は取らず、領土としては小島があるだけで、国民は海外に出て働く。働きに出ると言っても、漁業をするのでなく、植民地を開くのでもなく、軍隊を各地に遣して支配を広げ、侵略や掠奪をするのでもなく、船を造って、海運業、貿易業を営む。つまり産物と産物の交易をし、それによって相互に豊かになった。

 ツロとしばしば並べ挙げられるのが少し北にあるシドンで、これは島でなく陸にある。これもフェニキヤ人の都市国家で、この二つの都市は同族の親密な関係にあった。ツロの方が栄えた時期が長いようである。フェニキヤはイスラエルと人種的には近いが、宗教は偶像礼拝で、カナン人と同じである。だからイスラエルはこれと分離しなければならない。列王記上115節では、ソロモンがシドン人の女を愛し、その影響でシドンの女神アシタロテ礼拝を採り入れたと述べている。そのような宗教的不純がしばしば起こるが、ユダはツロ・シドンは経済的共存という関係を維持していた。

 ダビデの王国はこの地域では後進国だが、それがメキメキと国力を伸ばしたのは、周囲を征服したからでなく、国内に法秩序を確立するとともに、ツロのやり方を真似て、武力の拡張はほどほどに留め、貿易に力を入れたからである。すなわち、ツロは地中海貿易の先進国であって、交易の範囲は地中海の西の果てタルシシにまで及んだが、それと連携した。すなわち、ユダの南の端にあるエラテを港として整備し、ここを起点としてインド洋に至る航路を開いた。そのような大航海の可能な大型船を造る技術はユダにないから、ツロの技術者の力でタルシシ航路の大型船をエラテの海に浮かべた。こうして、インドの物産がエラテまで運ばれ、それがユダを経由してツロに運ばれ、地中海の端まで届けられるようになった。このような物品の輸送によって、ユダにもツロにも富が豊かになり、文明が栄えた。特にツロには大いなる富と富の栄光を齎らした。

 今、我々は文明の発展を感心して眺めるのではない。この文明が滅びることをこの23章で学ぶのである。ただし、富、文明、その栄光、その驕り高ぶり、その結末として滅亡するという道徳的教訓を、歴史を辿って学ぶのとは少し違う。そういう教訓をここで読み取りたいなら、そうしても悪くはないであろう。しかし、神がここでイザヤを通じて語っておられるのは、そのような教訓ではない。

 国々が繁栄し、繁栄の果てに衰亡する、という原理があると言って良いであろう。さらに、繁栄は驕り高ぶりを生み、驕り高ぶりが滅亡の原因になるという道理があると言って良い。しかし、我々、神を信ずる主の民は、そういう原理とか道理とかいうものについて教えられているのではない。そのような教訓なら、信仰がなくても、知恵があれば歴史を観察して悟る。我々は、神が生きて働き、歴史の一齣一齣に関わって御旨を行いたもうことを見、人はその御旨に従って生きるべきである。

 主なる神が支配しておられ、主の御意志によって、世の国々の興隆と衰頽があるということを、見て取らなければならない。さらに、神の支配を一般論として納得しているのでなく、神の意志が個別的・具体的な一つ一つに働いているということを、信仰者は信仰において読み取らなければならない。実際の、近い将来の世界の動きについて、神は預言者イザヤを通じて予告しておられる。我々は今のこととしてそれを学ぶ。

 13節に「カルデヤ人の国を見よ、アッスリヤではなく、この民がツロを野の獣の住みかに定めた」と言われる。分かり難い言葉である。共同訳は「カルデヤの地もそのようだ。それは最早存在しない民。アッシリヤは彼らを荒野の獣に渡した」と訳し、意味が反対になっている。確かに、ツロを攻めたのはカルデヤ人の国だという事実がある。これはそのことの預言なのだ。預言者は世界の歴史の原理を唱えているのでなく、アッスリヤ王セナケリブがツロを攻めて、海運と貿易を破壊することを預言している。

 前置きはそこまでにして、託宣を順を追って見て行く。「タルシシのもろもろの船よ泣き叫べ」。これはツロの滅亡を描くのである。「タルシシの船」とは、地中海の西の端タルシシまで行くことが出来る大型船で、当時の人々の思い描くことの出来る最大の船である。それが母港に帰って来ても碇泊すべきところがなくなっているのである。

 「この事はクプロの地から彼らに告げ知らせられる」とは、タルシシに行った商船への連絡をすべきツロそのものがなくなったから、彼らに対しては、クプロを通じて連絡し、帰るべき港がないぞ、と告げる。クプロは地中海の中の大きい島であって、ツロと交渉は当然あったが、クプロの人はクレテやイオニア海の島々の住民と同系統の民族であって、特に親密な関係ではなかったらしい。

 2節の「海辺に住む民よ、シドンの商人よ、もだせ」。これもツロ、シドンが失われ、語る言葉を失ったさまを表している。

 3節にある「シホル」、これはエジプトの別名である。ナイル川によって齎らされるエジプトの穀物の豊かさは、ツロの船によって諸国に運ばれ、国々を豊かにしたが、ツロ自身はその交易によって大いに富んだことが述べられている。

 4節で言われているのは、ツロ、シドンの若い男女がいなくなったことの嘆きである。「産みの苦しみをせず、若者を養わなかった」とは、実際に出産の苦しみを負わず、若者を育て上げる労苦をしなかったと批判するのではなく、若き者が戦争で失なわれ、したがって次の世代を産むことも育てることもなくなった悲哀を言うものである。言い換えれば、セナケリブの攻撃によってツロは殆ど滅亡し、若者がいなくなり、高齢者の一部が辛うじて生き残ったが、後を継ぐ人は生まれて来ない、育ちもしないという危機的状況を描いたものである。

 5節、ツロ壊滅の報道がエジプトに達する時、エジプトも深い悲しみに陥る。つまり、地中海貿易を一手に引き受けていたツロがなくなると、穀物を輸出していたエジプトは穀物が売れず、売れない穀物が余って困惑するのである。

 6節の「タルシシに渡れ」というのは、ツロが壊滅したから、住民はタルシシに避難して、そこで生き延びよ、という意味であろうと思われる。「海辺に住む民」とは、ツロ、シドンの民のことであろう。

 7節、「起源も古い町」というのは、ツロが古くから名を知られていたことを指すのであって、ヨシュア記19章に、アセル族の区域の北の境を示すところで、28節には「大シドン」の名があり、29節にが「堅固な町ツロに至る」と記されている。「自分の足で移り、遠くにまで移住した町」というのは、船を使って遠くに移動することが出来たことを指す。名は広く知られ、ツロの人々は名声を誇りとしていた。

 8節の「ツロに向かってこれを定めたのは誰か」。……ツロの運命を定めたのは誰か。この問いに対する答えは、9節「万軍の主である」である。13節で見るように、ツロを滅ぼすべく定めたのはセナケリブであると言われるが、実は万軍の主である。そして主がそれを定めたもうた理由は何か。「それは全ての栄光の誇りを汚し、地の全ての尊い者を辱めるためである」と言う。神のみが栄光を有したもうために、神以外の者が誉れを持つべきではない。だから、地の全ての尊い者は辱められねばならない。

 10-11節で言わんとする大略の意味は分かるが、言っていることは難解である。「タルシシの娘よ、ナイルの地のように己が地に溢れよ。もはや束縛する者はない。主はその手を海の上に伸べて、国々を震え動かされた。主はカナンについて詔を出し、その砦を壊された」。

 「タルシシの娘」に呼び掛けているのは、タルシシの地ではツロ本国の壊滅の故に、抑圧がなくなり、エジプト人がナイルの地で自由に耕作するように束縛はなくなった、ということであろうか。あるいは、ツロの人々はタルシシに移らざるを得なくなったが、タルシシはツロのような都市ではなく、原始的な村落であって、フェニキヤ人がもとは農民として、土を耕して生活の資を得ていた生き方に戻らなければならない、という意味であると解釈する人もいる。

 「主がその手を海の上に伸べて、国々を震え動かされた」とは、主の支配が地中海世界の国々を震え上がらせることであろう。ここで「カナン」というのはツロ、シドンのことと考えられる。ヨシュア記51節に「海辺におるカナン人の王たち」とあるカナン人はツロ、シドンのことであろう。ツロ、シドンは海の砦であった。それが壊滅した。主が手を伸ばされたからである。12節の「虐げられた処女シドンの娘よ」と言われるのはセナケリブの侵略によってシドンの処女たちが暴行を受けることを指す。彼女たちはクプロに難を避けて逃れるが、そこでも安きを得ることが出来ない。

 ツロの破壊は13節に書かれるが、岩の塊に建てられた家は砦のように立っている。それを攻撃する者は櫓を組んで、建物を壊して行く。こうして栄えた都市は荒れ塚となった。船が港に戻って来ても、それを繋ぐ岸壁もない。船は漂泊者となるほかない。

 最後にツロの回復を学ぶ。ただし、回復と言っても一時的な再建である。そして再建されたツロは貿易都市ではなく、遊女の都市である。以前のツロが健全であったとは言えないかも知れないが、害悪を世界中に振りまくことはなかった。70年の後再建されたツロは地中海周辺の国々の交通を回復するが、国々の交流は淫らなことの世界的流通にほかならない。15節に「一人の王の長らえる日と同じく70年」と書かれている。これはセナケリブの705年の死による国々の解放を言ったものと思われる。

 しかし、最後の節で「その商品とその価とは主に捧げられる」と言う。70年後の回復はツロにとってだけのものではない。この世の歴史に当て嵌めるなら、これはアッスリヤ帝国の挫折、したがって、その重圧からの諸国の解放である。ユダも自由になる。神殿への献げ物が自由でなくなっていたが、それが自由になる。さらに、ユダの人たちが圧政から解放されるだけでなく、諸国民も主に献げ物を持って来るようになる。こういうことはエジプトにも起こることが187節、1921節にある。これは一人の主に対する全地の人々の帰順である。来たるべきメシヤへの礼拝の予告である。

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