2008.03.30.

 

イザヤ書講解説教 第63

 

――22:1-25によって――

 

「幻の谷についての託宣」と標題がつけられている。これはイザヤ書の編集者がつけた題であって、この言葉は5節に出て来る。「幻の谷」がエルサレムを指すことは文章の全体から容易に判断出来る。しかし、エルサレムのことを何故「幻の谷」という謎めいた名で呼ぶのか。こう呼んだ前例はなく、この名の謂われは分からない。

 ただ、この名がエルサレムを指すとことが分かっておれば、22章を読む際の支障はない。だから、深入りしないで置くことは許されると思う。

 どの時代にこの預言が語られたのか。それはエルサレムがアッシリヤの侵入によって脅かされていた時代である。その時代にエルサレムがどのように不信仰であったかが示され、その預言が今日の我々にとって適切な直言であると受け止めれば良い。時代はヒゼキヤ王の治世である。

 預言者の言葉は生々しく響く。そのことが我々の眼前で起こっているかのように受け取られる。実際、15節以下で聞くセブナという高官の汚職の指摘、これは面と向かって責める実際の場面である。そういう現実と、未だ起こっていない事とが入り交じって記されているが、来たるべきことの預言と、実際のイザヤの言動との見分けは容易である。

 1節、「あなた方はなぜ、みな屋根に登ったのか」。――エルサレムが敵、アッスリヤ軍に取り囲まれていた時と考えられる。例えば、イザヤ書では36章に記されている場面と関連する事態だと取れば、かなりハッキリして来る。ヒゼキヤ王の第14年にアッスリヤ王セナケリブが上って来て、ユダの全ての堅固な町々を攻め取った。36章に書かれていることは、学びがそこまで進んだ段階で、詳しく語るようにするほかないが、アッスリヤ王から遣わされた軍の総司令官ラブシャケが大声でエルサレムを威嚇していた。ヒゼキヤは使いをイザヤのもとに遣わして、「今日は悩みと責めと辱めの日です。胎児がまさに生まれようとして、これを産み出す力がないのです」と伝えた。

 その場面そのままの時とは言えないが、結び付けて考えれば、1節はかなり良く分かる。敵が攻めて来ている。軍隊は防備態勢に入り、市民は家の中に潜んだ。人々は城壁の前線まで見に行くことは禁じられているから、自分の家の屋根に登って様子を見る。2節に「喜びに酔っている町よ」と言われるが、エルサレムの町全体としては、戦争に勝ったのだと受け取って、喜びに湧いている。勘違いなのである。預言者は4節で言う、「私を顧みてくれるな。私はいたく泣き悲しむ」。

 何が起こったか。3節に書かれている。「あなた方の司たちは皆逃れて行ったが、弓を捨てて捕らえられた。彼らは遠く逃げて行ったが、あなたのうちの見つかった者は皆捕らえられた」。――これはイザヤの知っていることで、民衆は知らない。あるいは民衆も何となく察知していたかも知れない。

 言われているのは、こういうことである。エルサレムの城壁の内側に、秘密の抜け穴が掘られていた。この抜け穴が知られたのはかなり後の時代で、預言者エレミヤの時代である。エレミヤ書39章にあるが、バビロン軍がエルサレムを包囲して、兵糧攻めをし、ついにエルサレムの一角が崩れた。その時、王と軍の上級の者は夜のうちに秘密のトンネルを抜けて遠くへ逃げた。そして、そこで捕らえられた。一般民衆は秘密の抜け穴のことを秘かに聞いていたかもしれないが、どこにあるかは少数の者しか知らない。エルサレム陥落の後ではみんなが知るようになった。

 イザヤはこういう抜け穴の事実を知っていたのではないかと思う。知らなかったとしても、この託宣を語る時には示された。「あなた方の司たちは皆逃れた」というのは、軍隊の上級指揮官、王や政府要人はみな逃げた。下級兵士と庶民を置き去りにする。下級の者ほど重い苦痛を担うことになる。これは昔からどの国にもある事実である。

 「幻の谷」という隠語めいた言葉は、3節で語られている事件と関連しているのではないかと思われる。すなわち、文書には残っていないが、人々の間でヒソヒソ囁かれる噂の、絶対秘密の逃れ道、これが民衆の隠語で「幻の谷」と呼ばれていたということは十分あり得る。地下道が王宮の庭園の一角から、北の方のある谷に通じるように掘られていた。そうであるから、「幻の谷」という謎の言葉に人々はまごつかなかった。とにかく、この難解なことばについては今日は立ち入らないでおこう。

 預言されたことの実現はイザヤの時代でなく、次の時代、エレミヤの時代、バビロンによってエルサレムが滅ぼされた時のことである。そうだとしても、我々に混乱を起こさせることはない。預言は真実であった。そして、ここで語られることは我々の時代にも当て嵌るからである。

 我々の時代に当て嵌まるのは、先ず、時代の危機である。次に、人々は、悲しまねばならない時に喜び浮かれており、その時に預言者は悲しんでいることである。王宮の抜け穴については、我々の時代にもその種のことがあるが、預言の重要項目と見る必要は多分ない。そういう仕組みがあることは庶民の知恵として知られている。ただ、下々の者は、秘密の抜け穴があるということは知っていても、その抜け穴を利用する方法は知らされていない。特権階級だけが知っている。

 我々が知らねばならないことは、預言者が悲しみ、一般の人々が浮かれている、その時、それを第三者として無責任に眺め、またあざ笑うのでなく、我々も預言者とともに悲しむべきだということである。預言者の悲しみは、人々が今悲しまねばならないのに喜んでいるその軽薄さについての悲しみ、そして今喜んでいる人が間もなく悲しまねばならなくなるその悲しみを先取りして悲しむ悲しみである。

 このことを預言者の先見の明というふうに取っては大して意味はない。それは預言者崇拝で終わってしまう。我々はここで預言者が、来たるべきキリストを指し示していることに思い至らなければならない。我々の主は地上の御生涯の終わりが近い時、エルサレムに入城される直前、「都の近くに来て、それが見えた時、そのために泣いて言われた、『もしお前も、この日に、平和を齎らす道を知ってさえいたら………しかし、それは今お前の目に隠されている。いつかは敵が周囲に塁を築き、お前を取り囲んで四方から押し迫り、お前とその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、お前が神の訪れの時を知らないでいたからである』」。ルカ伝1941節以下に記されている通りである。似た主旨の主イエスのことばがほかにもある。

 神の訪れの日を知らない人たちのために主イエスは泣きたもうた。それならば、我々も泣かなければならない。今はその時である。

 イザヤの預言に戻るが、5節、「万軍の神、主は幻の谷に騒ぎと、蹂み躙りと、混乱の日を来させられる。城壁は崩れ落ち、叫び声は山に聞こえる」。エルサレムの破滅の日の情景が描かれる。――6節、「エラムはえびらを負い、戦車と騎兵とをもって来たり、キルは盾を顕した」。

 エラムというのはアッスリヤの東の地方をいう。したがってアッスリヤの兵のことである。キルというのはアッスリヤの一つの地名であろうと言われる。スリヤが攻めて来た時(これはイザヤ書7章で読んだ事件である)、ユダのアハズ王はアッスリヤに贈り物を贈って助けを求めた。その時、アッスリヤ王はダマスコを攻めて、その民を捕らえて移した所がキルである、と列王記下169節に記されている。が、この場所はアッスリヤの中には見出せないので、モアブのキルのことだと考える人がいる。ちょうどこの時期にモアブがユダに対する反抗を企てた事件があることを、今述べた列王紀下16章の記事の少し前に書かれている。キルが盾をあらわしたとはそのことかも知れない。しかし、今我々が学んでいることに関しては、キルがどこであるかを突き止めることは、どちらでも良い。

 とにかく「あなたの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵はもろもろの門に向かって立った。ユダを守る被いは取り除かれた」。――あなたというのはヒゼキヤである。最も美しい谷というのはエルサレムの東キデロンの谷である。そこが戦車で満ちた。エルサレムは滅亡に曝されたのである。

 次の「林の家の武具」というのはソロモンが建てた「森の家」という名の倉庫、そこに蓄えられた武具のことである。ヒゼキヤたちは軍備を充実させ、エルサレムの市内を整え、水源と貯水池を整備して持久戦の用意をした。

 「しかし、あなた方はこの事をなさった者を仰ぎ望まず、この事を昔から計画された者を顧みなかった」。先に、7章で戦争の脅威の前では、神への信頼こそが不可欠であると教えられたが、そのことが何度も繰り返される。我々にとってもそうである。

 さらに、神はそのような機会に、ひたすら悔い改めよと預言者を通じて命じたもう。ところが、人々はそれに逆らう。13節、「見よ、あなた方は喜び楽しみ、牛を屠り、羊を殺し、肉を食い、酒を飲んで言う『我々は食い、かつ飲もう、明日は死ぬのだから』」。先に2節で「喜びに酔っている町よ」という預言者の慨嘆の言葉があった。破滅が迫っているのに、その兆候を見ようとせず、軽薄な観察をして、喜ばしい徴しばかりを見る。そして、いよいよ滅亡が明日になっても、明日滅びるのだから今日は飲み食いし歓楽に耽って、恐れを忘れようと言う。

 それに対する神の宣告が、預言者を通じて語られる。14節、「万軍の主は自ら私の耳に示された、『まことに、この不義はあなた方が死ぬまで、赦されることはない』」。これはイザヤの時代の人々の軽薄さを批判しただけの言葉ではない。

 次に15節以下に語られる預言は、同じ時期のものであるが、一般民衆に語られた警告ではなく、特定の人、執事セブナに対する叱責である。執事セブナと言われる人は、363節で、書記官セブナと書かれているのと同一人物であると思われる。政府の最高幹部の一人、宮廷内を取り仕切る実力者である。詳しい説明は省略して良いであろう。国家の存亡の危機に、政府の要人であるセブナは自分のために豪勢な墓を作ったことがここで分かる。恐らく王家の墓の置かれる区域に、実務者としての権能を利用して、身分不相応な墓を作った。それがどうしていけないかの説明は省略する。自分を王と並び立つ権威の座に据えようとしたという反逆ではないと思う。

危機の時代に、人民の苦難に先立って慎ましい生活をしなければならない政府要人が豪勢な生活を営み、死後まで栄誉を残そうとする、それも自分の金を用いるのでなく職務に付随する権限を利用して行なった。それをイザヤは何かの関係によって知ったのでなく、直接に神から示されたのである。「万軍の神、主はこう言われる、『さあ、王の家を司るこの執事セブナに行って言いなさい』」。

 預言者イザヤが政府の人事に介入し、書記官セブナを罷免して、エリアキムをその後任者に指名することが記されている。預言者にそういう権能があったのか。疑問があるかも知れない。確かに、政治と宗教は分離されていなければならない。この問題に今日立ち入ることは省略しなければならないが、神がこの世の政治問題に介入されることはある。神は政府の上層部の人々の傲慢な姿勢を見ておられる。我々自身が彼らよりも上の権威を持つと思ってはならない。しかし、神が地上の権威を裁いておられることを忘れてはならない。

 

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