2003.03.30.
イザヤ書講解説教 第6回
――1:21-31によって――

 「かつては忠信であった町」と言われる。……「昔は公平で満ち、正義がその内に宿っていた」と言われる。言うまでもなく、エルサレムを指しているのであるが、そのエルサレムは先に9節と10節で、ソドムよ、ゴモラよと呼ばれたではないか。ソドムは初めからソドム、ゴモラは初めからゴモラであったから、絶滅したのである。エルサレムを「かつては忠信であった町」と言うのは矛盾しているのではないか。そのような疑問を抱く人があるかと思うが、これは矛盾ではない。

  神が預言者を通じて語られる告発の言葉は、首尾一貫しているのであるが、21節で論点が切り替わる。ここでは、「初めからソドムのようにまたゴモラのように本性が腐っていた」と言われるのではない。「初めから腐っていた」ということは確かに言えるのである。一人一人の人間について、その本性がどうかを問うなら、エペソ書2章3節で「生まれながらの怒りの子」であるから、そのように断罪しなければならない。だから、建て直しでなく、生まれ変わらなければならないと言うべきである。だが、ここで神は、そのようにことを扱っておられるのではない。

  かつてエルサレムが「忠信の町」と呼ばれたのは、いつの事を指すのか。――よくは分からない。しかし、恐らくダビデの治世ではそうであったと言われているようである。また、ヨシヤ王の時、律法に従って神殿礼拝の大改革が行なわれたが、そのような改革が行なわれたなら、当然、個人個人の道徳生活も、社会の公平な秩序も正しく維持され、ユダ国と首都エルサレムは、近隣の国々の間で風儀の良さで傑出していた。すなわち神から律法を授けられており、その律法がよく守られていたからである。

  律法を社会全体が正しく守っても、心から守るのでないから、上べで守るだけでは、偽善になって行くのではないか、と言われるかも知れない。その通りである。矢張り、人間が根底から生まれ変わらなければならない。そして律法の行ないによって義とされるのでなく、信仰によって義とされるのでなければならない。そのことが、旧約聖書よりも新約聖書においてより明瞭に教えられていることは確かだ。しかし、だからと言って、今、旧約の学びを抛棄して、新約に移れば良いということにはならない。

  とにかく、神が律法を授けたもうたのであるから、律法は守られなければならない。社会から正義が失なわれてしまったのを見た時、矢張り律法では駄目だったという議論に移るのでなく、神が命じたもうた以上、この掟が守られるようにしなければならない。そのような意味での社会の回復が今日の学びの要点である。

  回復と言ったが、今日学ぶ回復はもとの状態への回復である。新しい創造ではない。26節に、「こうして、あなたの裁き人を元の通りに回復する」と言われるが、そのような意味での回復である。これは2章に描かれたエルサレムの回復と対照させれば良く分かるであろう。2章の方では先ず「終わりの日」と言われる。終わりの日にならなければ、すなわち、この世を越え出たところにおいてでなければ、起こらない出来事なのだ。

  それと比べて、1章21節以下で学ぶ回復は、この世の歴史の中でかつてあり、したがって取り戻し、実現して行かなければならない回復である。

  主イエスはヨハネ伝11章で「死に至る病」と「死に至らぬ病」について語っておられる。死に至る病は人間の力や技術では治せない。だから、人はみな死ぬ。永遠の生命の獲得は、長寿法の開発によって得られるものではない。キリストに与り、キリストの持っておられる永遠の生命に与るのでない限り、人は生きられない。

  そのように把握しなければならない事情があるが、それと全く別次元のこととして、人間の身体の状態は、健康あるいは通常の状態と、病気の状態とに区別される。そして、病気の状態であれば、何らかの手段によって癒すように努力する。また、そのために祈ることも大事である。死から命に移ることと別のことであるが、病から健康へと移ることは無視すべきでない。

  この社会も、健常の状態と病的な状態とに区別される。病んだ社会は癒さなければならない。この世を神の国のようにしようという理想を追求しなければならない、と言う人がいるが、そういう営みは我々に命じられていない。我々のしなければならないのは、病んでいる世を癒すことである。確かに、今日、世界は病んでいる。それは我々の手で癒すには余りに重い病気になってしまった。それでも、我々の手に負えないと投げ出すのが神の御旨にかなうことであろうか。出来るだけ努力するのが当たり前ではないか。

  「かつては忠信であった町」――これは、譬えでも、象徴でも、皮肉でもなく、事実そうだった。完璧に正しかったと取る必要はない。分かり易くズバリと言うならば、政治が良かったのである。政治は何時の時代にも濁っていると考えている人は多い。いつもそうだと考えさせられる要素が実際あり、特に現在濃厚である。だが、政治を治らない病気のようなものと見るのは正しくない。かつて忠信であったというのは、例えばダビデの時代、政治がよく整えられていた。そして、宗教の規律も守られていた。

  もっとも、黄金時代と見られたダビデに時代、政治上いろいろな問題があったことは列王紀の記録から明らかであって、国内で紛争が頻りに起こり、ダビデがエルサレムから逃げ出さねばならなかった事件はしばしば起こる。それでも、ハッキリしているのは、ダビデがそのような危急のさなかでも、神への信頼を失うことはなかった。国を治める者が神を恐れ神に従うことこそ、神の民における政治であった。

  23節に「あなたの司たち」とあるのは、上級の行政官である。26節の「あなたの裁き人」というのは裁判官である。同じ節にある「あなたの議官」というのは、顧問官である。そのような政治上の高い地位にある人々の機能回復によって、エルサレムが「正義の都、忠信の町」と呼ばれるようになると言われていることは確かである。

  テキストを読んで行こう。「かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか」。「忠信」というのと「遊女」とが対照になっている。この対照から、二つの事項の意味を読み取ることが出来る。すなわち、遊女というものは誰にでも身を任す。これは、まことの神のみに仕え、それ以外の神に従わないことの逆である。

  神を信じ、神に犠牲を捧げるという形を、表向き取っていても、裏では真の神以外のものに身を捧げる人がいる。ちょうど、妻がいるのに遊女の所に出入りして姦淫を犯し、快楽を貪り、身を持ち崩して行く人の場合である。

  遊女という風俗制度は、イスラエルでは禁じられていた。それでも、当時すでに入って来ていた。快楽的な文明と結び付いて入って来たのではないかと思われる。イザヤ書では23章に、ツロとの関連で遊女のことが出て来るが、貿易で栄えたツロは華美な文明の取り入れ口となり、遊女の制度もここから入って来たと意識されたのではないかと思われる。

  さらに、この遊女という制度は、異なる神々を受け入れる霊的姦淫を象徴するものであるとともに、それだけでなく、他の神々の礼拝を採り入れることそのものであったかも知れない。エレミヤ書2章20節に、「全ての高い丘の上と、全ての青木の下で遊女のように身を屈めうんぬん」とあるが、高い所と青木の下は異教の礼拝の行なわれる特定の場所であり、そこに遊女が関与していた事情を示していると見て良いかも知れない。イザヤ書1章29節の「自ら喜んだ樫の木」というのは、その青木のことであろう。

  時間を掛けて説明するに価する事項ではないが、神殿娼婦というものが他の国々には多くあった。神殿娼婦が神との交わりへと導いてくれるという迷信的な淫猥な教えを説く宗教も少なからずあった。イスラエルの宗教を汚染から守りまた浄化するために、神殿娼婦、姦淫、遊女の排斥が重要であったことを、我々は旧約の歴史書から読み取ることが出来るのである。

  「昔は公平で満ち、正義がその内に宿っていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった」。この「人殺し」は各人が何かにつけて互いに殺し合うことと取っても良いと思うが、政治が何かの理由を付けて人を殺し、人殺しをさせている、そのことを指すと取った方がさらに適切である。例えばナボテは王の気に入ることをしないので殺された。

  現に今日の世界の中で行なわれている戦争、これは国を守るため、民主主義を守るため、不法をなす者を世界から根絶するために必要なのだ、と説明され、その意義付けを教えられて、必ずしも納得しないが、兵士たちは戦場に赴き、殺されて行く。彼らが殺されるだけでなく、彼ら自身も人を殺している。しかも、戦争と関係のない非戦闘員まで殺す。命令だから遂行せざるを得ない、と彼らは言う。しかし、少なからぬ兵士は精神不安定の症状を呈する。では、命令を下した人はどうか。彼らには人を殺したという罪責感がない。罪責感に悩むのは前線の兵士である。

  そういう仕組みを作って実行しているのが、今行なわれている戦争であるが、これを神がどう見たもうかを知らねばならない。実際に手を汚していない人々、それを神は殺人者と見たもうのである。いや、それだけではない。殺人が行われているのを止めようしない人も同じではないか。「今は人を殺す者ばかりとなってしまった」。これはヨソごととして聞いてはならない。

  22節に移るが、「あなたの銀は滓となり」と言われる。これは罰として銀が滓になるということではなく、銀と偽り称して滓を交えていることを指す。銀というのは通貨である。それは政府が作る。あるいは、政府に近いところにいる有力者が作って政府に売るのである。銀は不純物を交えていて、何度も坩堝に入れて高熱で溶かして、浮き上がる滓を吹き飛ばして精錬しなければ得られない。勿論、精錬を繰り返す毎に目減りする。その手間を厭って、精錬されないままの銀を出荷する者がいる。見た目にはスグには分からないから、この誤魔化しで儲けることが出来る。しかし、不純物を含む銀は重さや色つやによって分かってしまう。

  「あなたの葡萄酒は水を交え」。――水を混ぜて量を増やすのである。これも銀の場合と同様の不正な取引きである。こういう不正が当時蔓延ったかどうか、証拠はないが、いかにもありそうなことである。上級の役人と大商人が手を結んで彼らの利益を増やし、貧しい人たちの生活はますます苦しくなって行った。

  23節の「あなたの司たちは背いて、盗人の仲間となり、みな賄(まいない)を好み、贈り物を追い求め」とあるが、商売人が政治家に贈り物をして便宜を図ってもらい、贈り物をしない人がいると政治家の側から請求する。これは今日この通り、あるいはもっと巧妙な形で日本で見ることの出来る現象である。

  こうして「みなしごは正しく守られず、寡婦の訴えは彼らに届かない」。力のある者らの間で利益が手厚く配分され、力なき人々には行き渡らないか、あるいは持っている物まで取り上げられるシステムになっている。みなしごと寡婦の生活権、人権を守ることが特に重んじられたことについては17節で聞いた。

  イザヤの預言を深刻な思いをもって聞かない人はいないであろう。我々の生きるこの時代を描き出したと言う他ない。あの時代から少しも良くなっていないのではないか、と憂鬱になる。しかし、ここでこれが世の常なのだと意気消沈してはならない。神は黙って見ておられるのでない、ということを聞かなければならない。神は貧しい者に向かって、「この世では悩みがあるのだ。この世では悪人が栄えることになっているのだ。諦めなさい。この世が過ぎて行った後で、私はあなた方の幸いを回復してあげよう」と言われるのではない。

  今日、初めに触れたように、神は回復を齎らしたもう。譬えるならば、病人に向かって、「あなたの病気は治らないのだ。死ぬまでこの病は続くのだ。あなたにとって病からの解放は死なのだ。死ぬまで耐えたなら、死後の報いがある」と教えたもうのではない。では、どのようにして回復が来るか。

  24節に入ろう。「この故に、主、万軍の主、イスラエルの全能者は言われる、『ああ、私はわが敵に向かって憤りを洩らし、わが仇に向かって恨みを晴らす』。

  万軍の主なる神がこの世に介入して来られるのである。神は生きておられる。悪をなす者を取り締まる機能が働かないなら、私が立ち上がる。私が立ち上がって不正をなす者を責める、と言われる。神は遠くにおられるのではない。神は力のないお方ではない。悩んでいる者の悩みを非常によく分かってはくれるが、何も出来なくて、悲しむ者とともに泣き、慨嘆することしか出来ないお方ではない。

  例えば、エルサレムのベテスダの池の柱廊の屋根の下に、38年間寝ていた病人のことを思い出そう。時たま水面がガボガボと沸き立つ。その時に真っ先に池に入れば癒される。しかし、寝たきりのこの人は人より先に池に入ることは決して出来ない。

  では、諦めて、望みを来たるべき世に託して、この世では耐えて生きるほかないのか。そうではなかった。キリストは来られる。彼は「起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」と命じたもうた。その力によって病人は起き上がったのである。

  この癒しは永遠の救いとは別である。キリストの与えたもう救いと病気の癒しは混同されてはならない。癒しは彼に大いなる力があることを示す徴しに過ぎない。しかし、その徴しは単なる徴しではないのであって、マルコ伝2章にある癒しの奇跡をなすに当たっては、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きよ、床を取り上げて歩け』と言うのと、どちらがたやすいか」と言っておられる。この癒しは罪の赦しの力と現実性を示すものであった。

  今、全能者が介入して来られる。「わが敵に向かって憤りを洩らす」と言われる。神が怒っておられることは露わになっているのである。神の裁きと刑罰は、終わりの日に決定的な形で示されるものであるが、それの雛形のような物は時々示される。神が直接に手を下したまわないで、罰せらるべき人自身を用いて刑罰を悟らせたもう場合もあり、他の人を用いて警告したもうこともあり、様々の禍いを与えて目覚めを促したもう場合もある。では、24節で言っておられることは具体的には何であったのか。確かなことは言えないが、政府高官が失脚するようなことであろう。

  第二に混ざり物を取り除くと言われる。混ざり物が取り除かれたならば、純粋な物が残るのである。完璧な回復ではないが、政府の機能は回復する。病人になぞらえて言えば、起きて、自分の寝床を自分で担げるようになるのである。

  26節、「こうして、あなたの裁き人を元の通りに、あなたの議官を初めの通りに回復する。その後あなたは正義の都、忠信の町と称えられる」。

  「シオンは公平をもって贖われ、そのうちの悔い改める者は正義をもって贖われる」。悔い改めが必ず伴う。

  本格的な回復とは言えないのであるが、終わりの日の完成ではないとしても、もとの健全な状態に復帰出来るのである。世界の主はそのような御業をも続けておられ、我々もそのような回復を勝ち取って行くことが約束されている。

  神がエルサレムについて約束されたことが、今日の日本とかアメリカとかイラクという国がまともな国に回復されることに当てはめられるか。この箇所は矢張りシオンの回復と読み取らなければならない。しかし、他の場合これに準じて考えてはならないと言ってはならない。それでも、悔い改めは必要である。

  

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