2007.09.30.


イザヤ書講解説教 第59


――19:1-25によって――

 

 イザヤがエジプトについて預言したのは、ユダの人たちがエジプトにかなり深い関心を持っていた時期であったと我々は感じている。もっと分かり易く言うなら、人々は神を頼みとせずエジプトを頼みとしていた。最大の関心事である神について思いを集中していなければならないのに、精神が散漫になって、エジプトの方に傾いてしまうということがあった時代である。したがって、預言者の訴えは、神とその御言葉への立ち返りの呼び掛けである。
 思いを神に集中することと、信仰、これを、区別して考えた方が良い場合がある。だが、今はごく単純に、神への思いが散漫になっている危機について思いを深めるようにしよう。現代の我々にもそういう精神的危機があるのである。
 イザヤ書ですでに何度も読んで来たところであるが、神を信じて立つことを国是としているユダの国は、北の方から迫る危険を恐れていた。イザヤ書で最初に見た事情は、7章に書かれていた。エフライムとシリヤが連合してユダに攻めて来て、人々の心も王の心も、風に騒ぐ林の木のように揺らいだ。この時、預言者を通じて語られた御言葉は「恐れるな! ただ神を信頼せよ! 気を付けて、静かにせよ!」との命令であった。
 その時以来、同じ事態がズッと繰り返されたと言って良い。御言葉を聞いて神信頼に立ち返った者はいたにはいたが、少数であって、預言が語られても国内の霊的状況は同じであった。あるいは、だんだん悪くなって行ったと言うべきであろう。
 初め、預言者イザヤは、アハズ王に「神に立ち返れ、神のみに信頼せよ」と語った。その頃、アハズのすることも単純であって、彼はエルサレムの防衛のために、籠城した時、生活用水の水源は大丈夫か、また城壁の攻撃し易い所、つまり低い箇所は大丈夫か、という程度に心を労するだけであった。
 王の代が替わっても、国防の心配は続く。ますます心配は昂じて行く。神を信頼したならば、恐れはなくなるのであるが、信頼がないから、恐怖心は昂じるばかりである。王家では、国にとって恐怖となっているシリヤの力を、その向こう側の、より大きい国アッスリヤと結び合う政策によって、牽制することが出来るのではないかと考えた。しかし、結果として大国アッスリヤの破壊力と禍いをユダに引き入れることになった。国を建てて以来最大の危機が襲った。
 その次の政策転換が必要となった。それは南の大国エジプトの力を引き入れることによって、アッシリヤの圧力を緩和しようというものであった。正確なところは良く分かっていないが、エジプトの方から先に誘いを掛けたらしい。この誘いを受けてユダの国内はまたまた大いに揺れた。今日学んでいる19章はその時代に語られた預言である。
 人々の関心は国の安全であった。他国から攻められないためには、相手から少なくも攻め込まれないだけの武力を持てば良いと考えられた。しかし、もっと考えてみれば、心配は幾らでもある。相手よりも圧倒的に強くなければ安心は出来ない。そこで軍備の拡張がとめどなく行なわれることになる。それでも、国力に限度があるから、軍事費の出費に限りがある。
 それで、自国だけでは力が足りないなら、味方になってくれる外国の武力を使うことが出来る。今日の世界にも続いている集団安全保障という方策である。国と国とが条約で結びつけば、安全が確保されると言われる。だが、一方の同盟に触発されて対立する同盟が結ばれることになるから、軍備拡張競争はやまず、心配はなくならない。
 王たち支配者たちはそのような方策で心を労していたが、根本的な解決はすでに預言者を通じて教えられていた通りである。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」。つまり、神に立ち返ればすべてが解決する。
 これは人間の考え出した窮余の策としての神頼み、お手上げではない。これは神の命令であり、神の約束を伴っている。神はご自身を信ずる者を救い、守りたもう。「静かにせよ、恐れてはならない」とは神の命令であるから、従わねばならないのだが、従うためには神の言葉に信頼して任せなければならない。ところが、神に信頼して神に一切を委ねる決断は怖くて出来ない人がいる。自分でも何かしなければならないのではないか、と考える。それが、安心のためであると言われるが、むしろ新しい心配の種を蒔くことになっている。そのことに気付こうとしない。
 今、考えさせられている問題は、イザヤ書では7章で示されたことである。神はイザヤを通して、「もし、あなた方が信じないならば、立つことは出来ない」とキッパリ言われた。だが人々は信じないで、他の道を求めた。そして、問題はいよいよコジレて来た。ユダの国で起こっていたことを我々は余所事と見てはならない。
 「信仰のない人は次々に取り越し苦労をしている。それは愚かな思い煩いではないか」と賢げに批判するクリスチャンは少なくないが、そういうことを言う人自身、一応信仰を持っているようだが、信じ切ってはいないで、信仰以外の策を講じ、それゆえ安心の出来ない実情である。
 話しが広がり過ぎないために、今日学ぶべき聖書箇所に戻らなければならないが、その前に一点だけ触れて置きたい。神に信頼して何も策を講じないようにせよと預言者は言うが、それは自分のすべきことを投げ出す無責任や怠慢を勧めるものではない。神を信じることは、隣り人を己れ自身を愛するように愛することに結び付いている。これが神から与えられた最も基本的な命令である。だから、自分のためには思い煩いをしないが、隣り人のためには思い煩うのである。実は、隣り人のための安全と幸福を考えることが自分の安全を追い求めることでないにも拘わらず、我々自身の安全保障になる。それが神の摂理である。
 さて、エジプトに関して語られるイザヤの預言は前の章から続いていて、次の章にまで及ぶ。長い預言である。これまで読んで来た国々についての預言よりも長いし、いろいろなことに言及している。それは非常に大事なこととは言えないけれども、ユダの人々にとって、エジプトが無関心ではおられない国であったことの現われであろう。
 この時、人々の関心を引いているのはエジプトの軍事力である。同じ主旨でイザヤが語り掛ける言葉で有名なのは31章の1節である。「助けを得るためにエジプトに下り、馬に頼る者は禍いだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵が甚だ強いので、これに信頼する。しかし、イスラエルの聖者を仰がず、また主に諮ることをしない」。………その続きに言う、「かのエジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされる時、助ける者は躓き、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる」。
 エジプトの軍事力に対する関心や信頼はこのように空しかった。しかし、人々は軍事力でない面への関心も持っていた。だから、ここでは、エジプトのいろいろな面について述べられているのが読み取れる。実際、アブラハムの時以来、様々な関係があった。ヤコブの一族は飢饉の難民となってエジプトに寄留した。ヤコブの息子ヨセフはエジプトの祭司の娘を妻とし、その二人の子はイスラエルの二つの氏族の族長になっている。また、イスラエルの民族的指導者モーセはエジプトの王宮で40年に亙ってエジプトの帝王学あるいは上級官僚のなすべきことを学んだ。文化的関心もあった。軍事的関心ではないから良いと言うのではないが、精神的なものもあった。それは唯一の神の権威を犯すものとして排除された。排除された痕跡が十分に残る。
 イザヤの時代、エジプの軍事力にユダの支配者は関心を寄せたが、民衆は必ずしもそうでない。戦争に負けると人民も掠奪に遭うから、彼らも王たちの国防政策を支持するが、彼らは持っている物を失えばそれ以上失う物はないから、王家の者たちほどには執着しなくて良かったかも知れない。だから、民衆の間ではエジプト文化一般にかなりの関心が持たれていたらしい。ただし、それが神への精神の集中の妨げになったのである。19章の本文に入ろう。
 1節、「見よ、主は速い雲に乗って、エジプトに来られる」。――主が雲に乗って来られるという言い方は旧約では珍しいものではないから、ここを特別に強調することは避けて置く。しかし、主が誰かを用い、何かの状況を用いてエジプトを撃ちたもうのでなく、直々に来られる。しかも雲に乗って来られる。これは他の国の軍隊をもって撃つ場合と違うということを現そうとしたものではないか。
 2節に進む、「私はエジプト人を奮い立たせて、エジプト人に逆らわせる」。――これは国の内部崩壊である。もともと、エジプトは内政がシッカリしていて、国の崩壊は起こりにくい。王朝は屡々変わるが、王家が変わっても、強力な官僚機構は持続された。3節に「エジプト人の魂は、彼らのうちに失せて空しくなる。私はその計りごとを破る」と言われる計りごとはエジプト王朝のもっていた統治する知恵を言うもののようである。
 5節の「ナイルの水は涸れて乾く。またその運河は臭い匂いを放ち、エジプトのナイルの支流はややに減って乾き、蘆と葦とは枯れ果てる」。ナイルで象徴されるエジプトの土地、産業、豊かさは壊滅する。
 10節、「国の柱たる者は砕かれ」とあるのは、先に述べて優秀な官僚による統治機構を指している。11節、「ゾアンの君たちは全く愚かであり、パロの賢い議官らは愚かな計りごとをなす。あなた方がどうしてパロに向かって『私は賢い者の子、いにしえの王の子です』と言うことが出来ようか。あなたの賢い者はどこにおるか。彼らをして、万軍の主がエジプトについて定められたことを、あなたに告げ知らしめよ」。主が来たって、エジプトでなしたもう御業の前に世界に知られたエジプトの知恵は無に等しく、主が何をされるかを告げることが出来ない。
 以上と対照的なのは17節である。「ユダの地はエジプト人に恐れられ、ユダについて語り告げることを聞くエジプト人は皆、万軍の主がエジプト人に向かって定められた計りごとの故に恐れる」。このようにエジプトに対する万軍の主の裁きは遂行される、それと並んで、壊滅したエジプトの回復がある。「その日、エジプトの地にカナンの国ことばを語り、また万軍の主に誓いを立てる五つの町があり、その中の一つは太陽の町と称えられる」。これはユダの人たちがカナンからエジプトに移り住んで、主を礼拝する5つの町が出来るということである。その町々について詳細を読み取ることは我々には無理である。この太陽の町と呼ばれるものについても別の名を当てているものもある。何か宗教的な意味のある町のように思われるが、分からないままで置くほかない。
 しかし、遂にエジプトが神を礼拝する国になると預言していることは確かである。22節で「主はエジプトを撃たれるがまた癒される」と言われる通りである。破壊しまた回復させるのは神である。神が和解の福音をこの地に及ぼしたもうことの預言である。
 さらに、この章の最後の部分はエジプトの回復だけでなく、対立する大国エジプトとアッスリヤの平和の成立が告げられる。回復に伴う和解が予告される。23節、「その日、エジプトからアッスリヤに通う大路があって、アッスリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッスリヤに行き、エジプト人はアッスリヤ人と共に主に仕える」。
 こうして、最後の節で見るようにイスラエルが回復する。それはユダとイスラエルの分裂も克服されて、イスラエルが回復することであるが、その時、かつては忌まわしくも恐ろしい大国であったエジプトとアッスリヤがイスラエルによって祝福された平和に達するのである。これはイエス・キリストによる回復である。

 

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