2007.04.29.


イザヤ書講解説教 第54


――14:1-27によって――

 

 先の章では、主がバビロンになしたもう裁きについて学んだ。14章ではそれと対照的に、これまでバビロンによって虐げられていたヤコブの回復が記されている。これは、かなり先の回復の預言であって、それだけに、描かれていることは、細部に関して言えば幽かにしか見えない。ではあるが、主要な点はこれで十分ハッキリ読み取れる。1節と2節の初めを聞こう。

 「主はヤコブを憐れみ、イスラエルを再び選んで、これを己れの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結び連なり、もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る」。

 憐れみの回復が先ず語られる。神は憐れみの神である。しかし、神は70年に亘って憐れみの御顔を隠したもう。それでも、憐れみの御顔は回復するのである。

 イスラエルの民のバビロンからの帰還が、ほぼこの通りであったことを我々は知っている。彼らは神に背いたために、罰としてユダ王国の喪失、エルサレムの崩壊、バビロンの捕囚を経験しなければならなかった。だが、罪を犯した故に罰を蒙ったという論法では、一応の納得は出来るとしても、この世で罪と罰が、原因と結果の順序で繰り返されるのと変わらないではないか、と見られるであろう。

 実際、イスラエルの歴史を見ても、同じことの繰り返しで、他国と違っていないことばかりのように見える面が大きい。しかし、それだけでない、神の働いておられる徴しを読み取らねばならない。「異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結び連なり……」というのは、これまでなかった恵みの徴しではないか。

 これまでは「神の選びの民」と「異邦人」、と二種類の民が截然と分けられていた。混じり合ってはならなかった。異邦人が参画するというようなことは考えられもしなかった。しかし、イスラエルの民が帰還する時、例えば、メデヤの王クロスが彼らの便宜を図るということが起こった。これはイザヤ書44章から45章に掛けて記された預言である。彼の協力を偶然の幸運であったと見ることは神の御心を無視している。

 異邦人が加わって来たことの最も顕著な実例として、我々に知られるのは、新約聖書の中に、使徒行伝で、しばしば語られる「神を敬う人々」の礼拝への参加である。このような人々が起こされていることに目を開かないユダヤ人がいたことは事実である。彼らはユダヤ人が、ユダヤ人のみが、神の選びの民であると一途に思い込み、これを堅く思い込むことが神の民の生きる道であり、信仰の本筋だと信じ、神の働きを見ようとしなかった。彼らにはキリストの到来が見えなかった。

 異邦人が神の民に加えられることについて、聖書の中に、さほど多くの証拠になる聖句が見られるとは言えない。だから、余りに大胆な聖書解釈をすることにならないようにしたい。しかし、預言者の時代から、それまで神の民でないとされていた者を、神が御自身の民に加えたもうという事実が起こった。キリストの時代にはそれはもっと顕著になった。エペソ書211節以下にはこう書かれている。

 「あなた方は以前には、肉によれば異邦人であって、手で行なった肉の割礼ある者と称せられる人々からは無割礼の者と呼ばれており、またその当時はキリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく、神もない者であった。ところが、あなた方は、このように以前は遠く離れていたが、今では近いものになった」。

 キリストが時満ちて来られることによって、遠くにいた者が入って来た。ここまでは確かに言えることである。しかも、言えることがもっとある。かつてイスラエルは己れの確信だけによって、義の律法を追い求めていたが、律法に達しなかった。そして義を追い求めなかった異邦人は、義すなわち、信仰の義を得た、という逆転が起こった。これはローマ書930-31節でいうことである。言い方は誇張であるが、ユダヤ人が捨てられ、異邦人が選び入れられる逆転が起こった。――それなら、今日、己れの義に安んじているキリスト者が、信仰の義に達しないでいる間に、外部の人が先に神の国に入るという逆転があるのではないか。キリスト者の外にいるノンクリスチャンが選ばれて、クリスチャンが捨てられる逆転があるかも知れない。

 イザヤ書のテキストに戻るが、「イスラエルを再び選び」と書かれている。「再び選ぶ」という言い方は、聖書には本来ない。選ぶとは神の固有の御業であり、決定であって、一度きりの、永遠のことの筈である。しかし、神にはあり得ないと人間が決めつけるわけには行かない。また、言葉の表現として、神が人間の弱さのために、人間の理解力に応じて、特別な言い方を適用される場合はある、と考えることは出来る。そこで、「再び選ぶ」という言葉が何を言おうとしているのかを思い巡らして見よう。

 再び選ぶとは、先の選びが否定されるということではない。神に対する我々の信頼の依って立つところは、神の真実と慈しみであるから、我々の信頼を覆すようなことを神はなさらない。神には出来ないことはないのだが、これは、我々が神についてどうにでも考えることが出来るということにすり替えてはならない。

 簡単に言うならば、神が「再び選ぶ」と言われる時、それによって我々の信頼が、これまでの規模、これまでの構造以上に堅固な、奥深いものとして捉えられる。

 選びということは、信仰に関して最も基礎的な要件であると我々は知っている。選びという岩盤にまで掘り下っていないならば、我々の信仰は結局はフワフワとした曖昧なものである。選びを確認してこそ、単なる信念を越えた、揺るがぬものに依り頼む確かさが捉えられるのである。それが選びの信仰であるが、「再び選ぶ」との宣言を聞く時、この揺るがぬ確かさが倍加される。

 しかし、もっと考えて見なければならない点があるのではないか。「再び選ぶ」とは、今見たように、選びを堅くすることには違いないが、ネジを締め直すという程度の確かめ方でない新たな確かさが加わっている。恵みの確かさがさらに深く理解される出来事が起こるのである。すでに、選びというだけで、我々の理解力を越えたものであるが、再び選ぶと言われることは、それをさらに越える。

 では、どういうことになるのか。我々の知恵ではここを十分説明出来ないのであるが、先に少し触れた異邦人の選びがそれだということが分かる。先に触れた言い方では、旧約の昔から伝えられたように、アブラハムが選ばれ、その子たちのうちイサク、ヤコブが選ばれた。つまり彼らが先ず「選ばれ」ていて、そこに異邦人が「加えられる」という言い表わしであった。

 これは、異邦人が接ぎ木されるという比喩によって説明されることがある。しかし、イスラエルはもともとの選ばれた親木であって、異邦人は接ぎ木なのか。そうでないということはハッキリしている。イスラエルも接ぎ木された。もともと、生まれながら神の子、神の世継ぎであったわけではなく、恵みによって神の子とされたのである。後で加わった者と条件は同じであった。したがって、イスラエルも新しく選ばれる。これが「再び選ばれる」と言われる意味である。

 14章で学ぶことの大半は1節で済んだと言っては乱暴だが、後の部分は端折ることが許されると思う。神のなしたもう報復に我々が干渉することは出来ないが、我々が復讐者になってはならないという慎みをもって読んで行く必要があるだけである。

 4節に言う、「あの虐げる者は全く絶えてしまった。あの驕る者は全く絶えてしまった」。………ここに虐げられていた者の感情を読み込むことは許されるかと思うが無駄な言葉を乱発するだけに終わることが容易に予想されるので、神が虐げと驕りを徹底的に嫌いたもうことだけを聞き取れば十分であろう。

 虐げる者、驕る者、というのは権力者のことである。しかし、権力が悪であると言うならば短絡的である。殆ど常に権力が虐げまた驕ることは確かである。しかし、権力だから必ず悪であるというのは、権力を立てておられる神の秩序をないがしろにし、神にさからい、往々にして自分が権力に成り上がって、もっと悪性な権力者になる場合を生むのである。権力を授けられた者が人一倍自制と謙遜に努めなければならない。しかし、それが行なわれない場合が極めて多い。バビロンがその典型である。

 虐げる者は人間を粗略に扱うだけでなく自然を荒廃させる。その具体例が8節である。「いとすぎ及びレバノンの香柏でさえ、あなたの故に喜ぶ」。バビロンが倒れたためレバノンの木が切られることがなくなったのである。権力は資源を至る所から奪取する。レバノンの香柏は切り倒され、持ち去られる。この山は豊かな森林で覆われ、その森林はヨルダンの水源になっている。水源を維持するためには、木を切り過ぎないようにしなければならない。しかし、バビロンは木をドンドン切らせた。しかも、バビロンの権力はその地がどんなに傷めつけられるかを考えない。

 バビロンの滅亡が不気味な神話として語られるのは9節以下の記事である。陰府には諸国の指導者の亡霊が蠢いている。それらが立ち上がってバビロン王の到来を歓迎して言う、「あなたもまた我々のように弱くなった。あなたの栄華とあなたの琴の音は陰府に落ちてしまった」と言う。

 これは権力に対する辛辣な風刺であるが、風刺と言うよりもっと厳しく異教的な頽廃への審判を語るのは12節以下である。「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった」。

 明けの明星とは金星のことである。明け方に空が白みかけ、星の姿が薄れて行く時、金星は一段と輝きを増す、と古代の多くの国々で観察され、金星を神に見立てることはあちこちでなされたようである。バビロンの権力が己れを金星に準えたことがあるかどうか、分からない。カナン宗教の神話の中にあったと言われている。

 神話についての知識がなくても、ここで言われている意味は容易に読み取れる。かつてこの星はこう言った。13節であるが、「私は天に登り、私の王座を高く神の星の上に置き、北の果てなる集会の山に座し、雲の頂きに登り、いと高き者のようになろう。しかし、あなたは陰府の底に落とされ、穴の奥底に入れられる。あなたを見る者はつくづくあなたを見、あなたに目を留めて言う、『この人は地を震わせ、国々を動かし、世界を荒野のようにし、その都市を壊し、捕らえた者をその家に解き帰さなかった者であるのか』。もろもろの国の王たちは皆、尊いさまで自分の墓に眠る。しかし、あなたは忌み嫌われる月足らぬ子のように墓の外に捨てられ、剣で刺し殺された者で覆われ、踏みつけられる死体のように穴の石に下る」。

 バビロンが心のうちに秘かに思い巡らした計画はこうである。自分は明けの明星として諸国の中に頭角を現したが、もっと秀でたものになろう。天の上に登り、神の星よりも高く位置を占め、神々の集会の行なわれる北の果ての山の上に、座を設け、神々の筆頭になろう。

 これは全くの神話である。カナンの神話に沿って造られた。これが悪魔の起源であると考える人がキリスト教の中にもいるから、みだりに信じないよう警戒しなければならない。神によって創造されたもののうち一際輝く明けの明星が天の最頂点に登り詰めようとして地の底に落とされて、悪魔となったという取るに足りぬ作り話が西洋では流布している。

 こういう話しを詳しくしても益にならない。ただ、権力がだんだん自分の位を高くし、自分を神のようにし、いや神よりも高いものにしようと努め、ついに没落することは実際にある。神話と言うよりも現実である。かつてバビロンの地では、天に達する塔を建てようとする人がいた。その計画は潰れたのであるが、天上的権威を持つ帝国を建設しようとする計画は何度も繰り返される。聖書の最後の巻である黙示録もその試みが最終的に瓦解するところを描いている。

 今日生きている高齢者の中には、高く登り詰めて思いのままに振る舞うことが出来ると有頂天になり、しかし忽ちにして地の底に転落する実例を生涯のうちに二回は見ることになろう。これを歴史の繰り返しとか、神話の中に真実があると言って、感心していてはならない。

 神の民はここに神の御言葉の成就を見る。24節で聞く。「万軍の主は誓って言われる、『私が思ったように必ず成り、私が定めたように必ず立つ』」。これを受け入れるのが信仰である。では、神の言葉が必ず成るとはどうなることか。バビロンの滅亡のことか。それもあるが、我々が聞いてアァメンと唱えるのは「バビロンからその名と残れる者を断ち滅ぼす」と言われる言葉に対してよりも、「私は憐れむ」と言われる言葉に対してである。

 

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