2007.01.28.


イザヤ書講解説教 第51


――12:3-6によって――

 

 12章の後半部は主の民の讃美の歌である。「あなた方は……」と呼び掛けられる。12節では「あなたは……」と呼び掛けられた。主旨から言って、前半部と共通しているのだが、前半部において預言者は一人の人に呼び掛け、その一人が答えているという形を取っている。その一人がどこの誰であるかを特定することは出来ないし、誰であるかを詮索して見ても意味はない。「それは信仰者だ」と言えるだけである。ここでは信仰者の姿勢が「単独者」として描かれるのである。だから、我々一人一人は、自分が信仰者であると考えるならば、他の誰でもなく私に、この言い方が適用されねばならない場合があることを思うのである。
 しかし、信仰者がつねに単独者として描かれなければならないわけではない。「我は信ず」と言うのと、「我らは信ず」と言うのと、区別をつけねばならないという主張をする人がいるが、思い込みであり、行き過ぎである。世々の教会はこの二通りの言い方を、混同せず、使い分けて来たが、重要さが違うとは見ていない。それでも、「我は信ず」と言い表わさなければ状況に合わない時がある。その反面、「我らは信ず」と言い表わす方が適切な場合もあるのを我々は知っている。
 余人でなく、私が私の存在の全てを懸けて求道し、信頼し、告白し、献身するという時には、「我々は」ではなく「私は」と言うのである。単数と複数、個人と集団、この使い分けが有意義な機会があるが、信仰の中味でなく、信仰者の在り方、置かれた状況のもとでの姿勢に関わる場合である。
 今「集団」という言葉を使ったが、6節には「シオンに住む者」と言われ、神が御自身の住まいと呼ばれたシオンの住民、つまりエルサレム市民集団である。これは聖書の通例の言い方にしたがって「民」と言うべきであろう。信仰の集団は、単に複数とか多数として扱われるだけではない。それは寄せ集められて増えたのでなく、初めから一本筋の通った「民」としての纏まりを示しており、「民」として把握される。ここで「あなた方」と呼ばれているのは、明らかに「神の民」、神が御自身の民とされたものである。神との特別な関係を持つ民以外の者が「あなた方」と呼ばれることはない。今「神との特別な関係」と言ったこの関係は、選び、契約、嗣業、約束とその成就、というような聖書特有のキーワードによって信仰者に知られている関係である。
 聖書特有の言い方と言ったものについて、詳しく教えられていない人がいるかも知れないが、これらの言葉をシッカリ押さえていてこそ、今日学ぶところはハッキリ分かるのである。
 さて、信仰者の在り方をハッキリさせるために、「私」と「我々」の使い分けが適切な場合があると言ったが、「単独者」というのでもなく、「集合体」というのでもなく、「少数者」としてこそ、この世における信仰者の在り方が鮮やかに捉えられるもう一つの面があることも我々は教えられている。預言者イザヤはこのことを我々に教えてくれる大事な教師である。だが、これは今回学ぶ箇所とは余り関係がないので、深入りしないでおく。
 「あなた方は……」と呼び掛けられるのが適切なのは今学んでいる状況であるが、それが適切なのは「讃美」に関わることだからである。5節でも「主をほめ歌え」と言う。6節に「イスラエルの聖者はあなた方のうちで大いなる者だから」と言われるように、大いなる神に対しては大いなる讃美が相応しい。ここでは民らが挙って讃美しているのである。「主はその御業を見事に成し遂げられたから」と言われる。完成したのである。洩れた人は一人もなく、全員が吸い寄せられるように集まって讃美する。讃美とはそういうものである。――もっとも、たった一人で、真っ暗な闇の中で、陰府の深いところから、讃美の声を上げる場合も時としてある。闇の中では一筋の光りも十分意味を持つ。そのように単独者の讃美も有効である。神はその叫びを聞いてくださる。しかし、ここはそのような闇の中での絶叫を考える場合ではない。光りが溢れている。喜びが満ち満ちている。救いは成就している。あらゆる者が救いの成就を歓呼している。そのような情景を思い描かなければならない。
 「救いの井戸から水を汲む」という比喩的な言い方は、旧約以来親しまれた表現であるが、救いがまだ細々と味わわれた旧約時代の言い方かも知れない。人々は夏の日照りのもとで、井戸から汲み上げた水を飲んだ時、これこそ救いになぞらえるに最も相応しいと感じ、来たるべき救いをこの水のようなものと考えた。こういうたとえは、そのような地方に住む人にしか適切でなかったかもしれない。
 しかし、水についてもう少し思いめぐらせよう。恐るべき言い伝えがあった。ノアの時代に水によって世界は滅び、ノアの一家だけは水に浮かぶ箱舟に身を託したことによって救われた。これが聖書における救いと滅びの謂わば原型になっている。水によって滅びが来、救いも来る。
 さらに、ノアの原型に則ったと見られるものであるが、モーセの時、主の民は紅海の水を通って救いに到達し、一方、彼らを追って来たエジプトの騎兵の大軍団は水に溺れて全滅した。だから、水が圧倒的な滅びの力を発揮できないように留められていることは人々にとって幸いであって、井戸水は僅かなものという意味ではなく、貴重な味わいの比喩であった。
 聖書を読み慣れた人なら、ここでヨハネ伝4章、サマリヤのスカルの町外れ、ヤコブの井戸のほとりにおけるイエス・キリストを思い起こす。「この水を飲む者は誰でもまた渇くであろう。しかし、私が与える水を飲む者はいつまでも渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう」。救いの井戸はキリストのことである。
 思い起こすに一層適切な聖句として、ヨハネ伝737節以下がある。「誰でも渇く者は、私の所に来て飲むが良い。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。この御言葉には福音書記者による註釈が書き加えられている。「これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊を指して言われたのである」。
 ここでイザヤのいう「救いの井戸から水を汲む」というたとえの意味が、一挙に、全幅的に明らかになる。すなわち、預言者は渇きの癒される井戸というありふれた実例によって、単なる満足感や幸福感を思い浮かばせるのでなく、父と子と聖霊による救い、かつまた聖霊と水との結び付くところにあるバプテスマ、キリストの名によるバプテスマの印を指し示すのである。
 「その日、あなた方は言う、『主に感謝せよ』」。……これはこの章の1節で聞いた言葉「その日あなたは言う、『主よ、私はあなたに感謝します』」に対応し、それを増幅した響きを持つものである。12節は一人で歌い、3節以下が大合唱になるように考えれば、心に届かせることが出来る。
 「その御名を呼べ」。――「御名を呼ぶ」ということを、粗略に考えないようにした方が良い。軽々しく扱えない意味が籠っている。
 「主の名をみだりに口に上げてはならない」と十誡の第二誡は言い渡す。決してその名を口にしてはならない、と言われたのではない。ユダヤ人の間では、神の名を口にしないのが正しいと考える傾向が強くなって、御名をそのまま唱えてはいけないと自制するようになったが、主旨の取り違えである。御名を呼ぶことは神奉仕であり、我々の喜びである。
 ただし、御名を正しく呼ばなければならない。どんな呼び方でも神には聞こえているのだから、どんな姿勢で呼んでも良い、と考える人があってはならない。なるほど、どんな呼び方でも神に聞こえている。しかし、聞こえたから祝福されるわけではない。正しく唱えるとは、よこしまな思いや、ふたごころを持たないことでなければならないのは当然であり、神の前で、神に向かって、真正面から、心を傾けて呼ぶことである。よそ見しながら、第三者について語るかのように、神に呼ばわることは、筋違い、むしろ御名を汚す。それは神の名を呪うのと同じになる。
 御名を正しく呼ぶとは、神以外のものに向けて転用してはならない事柄である。すなわち、讃美、感謝、祈りは神に相応しいことである。――人をうわべの言葉でなく真心から褒める、あるいは礼を言う、あるいは何かを依頼するということは、我々の地上の生活が一部分隣人によって支えられているのであるから、なすべき義務である。人から好意を受けながら何とも思わないということは、少なくとも神を恐れる者のうちにあってはならない。
 しかし、人に対する褒め言葉や、感謝や、願いが、度を過ごすことにないようにしたい。度を過ごすとは、本来神に向けられるものを、人に向けることである。こういう間違いは、起こらないはずであるが、実際は起こっている。それは神に帰すべきことを神に帰せず、人間に向ける程度の言葉や思いしか、神に向けていないからである。この程度の、冷え冷えとした祈りが、クリスチャンと呼ばれる人々の間で近年急速に広がっていることを憂えなければならない。
 神の御名を呼ぶことの核心部分は、「神から愛され、神を愛する」ところにある。神は愛する者にこそ御名を呼ぶ喜びを許し、謂わばこの特権を与えたもう。熱心に神を呼んで、自分は悦に入っているが、神は耳を閉ざしておられる場合があるのだ。言葉を換えて言えば、不義なる魂の発する叫びは、どんなに熱烈であっても、神は聞きたまわない。神は愛の故に御子キリストを世に遣わして、御子によって和解したもうた者にこそ聞きたもう。
 神御自身に向けて御名を呼ぶことに付随して、人々に向けて御名を呼ばわることも重要である。「その御業をもろもろの民の中に伝えよ。その御名の崇むべきことを語り告げよ」。もろもろの民には、まだ信じていない者も含まれる。
 まだ信じていない人には、語っても分かってくれないから、彼らの分かる程度にレヴェルを落として語るべきではないか、と考えている人がある。それは間違っている。信じない人は、解説という段階を経て、信仰に達するのではない。初めから、御言葉の解説でなく、御言葉そのものを聞いていて、ある所で、劇的に不信仰から信仰への転換が起こる。回心と言われる。
 パン種が発酵し、葡萄酒が発酵することを信仰になぞらえてはならない。そのように成熟する信仰なら、発酵し過ぎて腐って行くパンや葡萄酒と同じように、成長せず、変質する信仰なのである。「その御業をもろもろの民の中に伝えよ」とは神の御業そのものを語ることである。
 信じている人の間ではどうか。彼らはもう信じたのだから、これ以上信仰の言葉や神讃美を聞かせる必要はないのか。そう思っている人がクリスチャンの中に多いようである。彼らは信仰のことは余り語らないで、信仰と無縁なことを話したがる。
 信仰と無縁なことを信仰の光りのもとで語るのは、決して忌むべきことではない。教会用語や聖書用語を使わないけれども、信仰の証しを立てることは必要だし十分できる。行ないによる証しだけでなく、良き言葉を語る証しがある。そのことが分かっている人は少なからずいる。
 問題なのは、信仰の仲間に対して信仰の言葉を語りたがらない人がいることである。自分の信仰が貧しいので、信仰に関して語ることは恥ずかしいと思う。あるいは、恥ずかしいと分かっているので、恰好をつけて、自分の言葉でない他の人の言葉を借りて語る場合があるが、これは自分にも人にも益にならない。真心から発する讃美の言葉や信仰の言い表わしならば、他の人の霊的な益になる。「徳を建てる」あるいは「徳を高める」と訳されることもあるが、信仰者は互いに霊的な益を与え合いつつ成長するのである。

 

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