2007.01.01.


イザヤ書講解説教 第50


――12:1-2によって――

 

 「その日あなたは言う」と預言者イザヤはある人に呼び掛ける。呼び掛けられているのは「あなた」。一人の人である。「あなた方」ではない。その人がイスラエルに属し、さらにイスラエルの残りの者に属するということまでは推定出来る。しかし、イスラエルの誰か。その特定は出来ないし、この人の名前を特定することに意味はない。では、「どこかで誰かがこれを言う」ということなのか。そうではない。「あなた」なのだ。預言者が、前に立つ一人を見据えて、「あなたが言う」と語る。「あなた方みんな」と言っても意味がずれるわけではないが、「あなた方」ではなく「あなた」なのだ。これはイスラエル集団の普遍的な救いの普遍的な感謝である。しかし、今は呼び掛けられているその人が「主よ、私はあなたに感謝します」と言うのであるから、一人の救われた人に対する語り掛けと受け取らなければならないであろう。
 それならば、今これを聞いている者一人一人も、この言葉がこの「私」に宛てられたと受け止めなければならない。よその人に宛てられたもの、あるいは一般に誰にも当てはまる原理的・原則的なものとして聞くならば、言葉としては間違いなく読んだことになるかも知れぬが、他の人に宛てられた手紙を脇の人が読むのと同じである。感銘は深いかも知れない。宛名人本人よりも的確に解釈出来ている場合もあろう。それでも、言葉本来の働きとしては違うのである。
 121節では、預言者がある人に語った。その言葉を、嘗て語られた言葉として聞くのではない。預言者は神が語れと命じたもうた言葉を語ったのであって、これは神の言葉である。そうであるならば、神の言葉が私に届いたとしてこれを聞き取らねばならない。
 「その日あなたは言う」。「その日」とはいつのことか。――前から続けて学んでいる人なら、「その日」という極めて特徴ある聖書的な言い方が、直ぐ前の11章の10節に、また11節にあったことを思い出さずにはおられないであろう。「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となる!」。「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者を贖われる!」。その日である。
 それ故、先に1110節から16節に亘って学んだことをもう一度繰り返すならば、「その日」という言葉の響きが一層鮮やかになるであろう。しかし、前との関連でこの日があることは確かであるが、もっと大事な響きがあるのを聞き落としてはならない。すでに「私」また「あなた」という呼び掛けから汲み取った人は少なくないと思うが、「その日」とは「今日、いま」のことである。
 主の年200711日、この朝、私は言う。私の言葉として言う。「主よ、私はあなたに感謝します。あなたは先に私に向かって怒られたが、その怒りは止んで、私を慰められたからです」と。
 それが本当に私の言葉になっているのか、と疑い、迷い、躊躇する人がいるであろう。「こういうことが言えるのは、模範的な信仰者であって、イスラエルの救いをキチンと把握した人である。私はこう言える者になりたいと願ってはいるが、まだそこまで達していない。だから、私がそういうことを言っては、嘘になるのではないか」。そう思い悩む人もあろう。しかし、今は悩まなくてよい。何故なら、この言葉は、よその人からの借り物ではなく、在り来たりの決まり文句でもなく、「私自身の言葉」として語るように、主が私の口に入れたもうた言葉だからである。主を信ずるとは、そのことを信じることである。
 確かに、この言葉は、今しがた贖いを体験した人の発した第一声であり、経文の受け売りとは違う。主の民に加えられている者は、等しくこれを告白するのである。なるほど、初体験の初々しさは大事に記憶されて良いであろう。けれども、信仰の事柄は古い記憶を保つことでなく常に新しさを保つ。時が経つほどに年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて斃れる。しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼を張って登ることが出来る。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
 「その日」という言い方が先になされたのは1111節であったが、「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者を贖われる」と預言された。今、121節で「主よ、私はあなたに感謝します」と言っているその人は、この預言を聞いていた。だから、預言の成就を見た喜びを味わっているが、その預言は「主が再び手を伸べたもう」との預言であった。――「再び」と言われたのは、かつて一度あったことの繰り返しという意味である。かつてあったこととは、出エジプトの出来事、エジプトの奴隷となっていた民を解放して、御自身に仕え、また隣人に仕える者とされたことであった。
 出エジプトの出来事について、イスラエルの民は子供の時から教えられていた。だから、自分たちは神の民であるという自覚を持っていた。しかし、この自覚にかかわる二つの問題があった。一つは傲慢な選民意識とそれに伴う安心感に陥るという禍いである。それ故に、この民は神の怒りに遭い、国を失って、強国の奴隷になる。
 もう一つ、奴隷的な悲惨に直面したためだけでなく、その前からすでにあったのだが、神の恵みの約束に対する絶望があった。ただし、この点ではキチンと意識した人は稀であった。殆どの人は絶望していることに気が付かない不信仰と無気力に陥っていた。その時、主の御手が再び伸ばされて、人々は再び主の大いなる御業を見るのである。これは実在の人物アモツの子イザヤの語ったこととしては、神の裁きと神の救いという二つの局面を持った出来事で、アッスリヤによる国の滅亡、またアッスリヤからの贖いという形で預言される。
 その預言の成就は、歴史に表れた形としてはその通りでなく、バビロンによるユダとエルサレムの滅亡とバビロン捕囚、またイエス・キリストによる福音の王国の成立というのが、具体的な形なのである。しかし、新しく来たるべきものは旧いものによって型どられていたことを見ておかねばならない。
 旧約の型の代表的なのは、過ぎ越しの祭りとして定着したのであるが、初めの「過ぎ越し」の夜、禍いを齎らす主の使いが、エジプトの中を過ぎて行った。エジプトの初子は皆死に、小羊の血を門口に塗ってあった家だけは禍いを免れた。一晩のうちに滅びと救い、あるいは滅びから救いへの転換が、いわば、つむじ風のように過ぎて行った。キリストの来臨もまさにそのようなものであったし、イザヤが語った審判と恵みもそのようなものであった。それを繰り返し学ぶことは大切である。もう一つ、新約に至って明らかになったのは、旧約でも言われておりながら、必ずしもハッキリはしていなかった点として、行ないによらず信仰による義ということがある
 「あなたは、先に私に向かって怒られたが、その怒りは止んで、私を慰められた」。竜巻が過ぎた後、それを振り返る人が述懐するのと似ている。怒りと慰めが語られる。怒りは終わった。慰めの時が来た。
 ここでは、怒りの時は過去となった、と取って良い面と、済んだと思うべきでない面と、二つを捉えて置きたい。神が罪人の罪を赦し、罪人と和解したもうたことは、何よりも重要である。キリストの贖いが十分に果たされたからである。したがって、我々は自分が赦されたように、人の罪をグズグズ言わずに赦さなければならない。人を裁いてはならない。それでも、我々自身が裁き主の前に立たされる日が来ることは、忘れないようにしよう。あるいは、常に神の前に立つことを覚えると言っても良い。ただし、その裁判では、論告が行われるのでなく、無罪が宣言される。
 出エジプトの時、イスラエルには神の怒りの意識は殆どなかったのではないかと思われる。彼らは主の怒りの向けられたのがパロとエジプト人であり、彼らは神の敵であって、イスラエルは神の側に属していて、恵みを受けたのだと捉えた。そのような捉え方で差し支えない面もあるにはあるが、これでは独り善がりの自惚れになる恐れがある。旧き契約においても、神の御旨である律法の遵守が命じられ、違反には厳罰が課せられたのであるが、多くのユダヤ人は律法の遵守は所謂律法主義的な行ないで果たされたと考えた。新約においては、この点、遥かに厳格である。
 例えば、イエス・キリストはマタイ伝5章で「昔の人々に『殺すな、殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなた方の聞いているところである。しかし、私はあなた方に言う。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁判を受けねばならない。兄弟に向かって愚か者という者は、議会に引き渡されるであろう。また。馬鹿者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物を捧げようとする場合、兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残して置き、先ず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物を捧げることにしなさい。うんぬん」と教えたもうた。
 この点が安易に見落とされ、赦しばかりが強調されて神の裁きは無視され、キリスト教とは幸福主義だと説かれることが多い。裁きと赦しがあることはその通りであるが、相反する二つのものと捉えることも良いが、一つなる審判が行なわれて、その審判の中で無罪宣告がなされると捉える方が適切である場合もある。
 クドクド言って来たが、我々にとっては、「キリストによる和解の時が来た」という決定的なことを確認し、宣言する重要さを堅く捉えて置こう。それは、公式として覚え込んで置くという意味ではない。どこで確定的に捉えられるかが勘所である。十字架を仰ぎ見る時にこのことは確定するのである。
 旧き年は過ぎ行き、新しき年が来た。旧き年には禍いなことが次々と起こった。その禍いには、政府の失策、権力者の驕り、知恵ある者の劣化、また全人類の道義の頽落に原因があると説明できることもある。だが、人間の罪に対する神の怒りとしか思えないことも起こっている。いや、神の怒りはまだまだ始まったばかりであって、終わったとはとても言えない。それ故、この日、私に対してでなく、人類に対しての神の怒りが止むようにと祈らずにおられない。
 それでも、怒りが止んで、救いが始まったことを我々はキリストを知る故に大声で言わなければならない。そして、一緒に叫ぼう。「見よ、神は我が救いである。私は信頼して恐れることはない。主なる神は我が力、我が歌であり、我が救いとなられたからである」。
 「神は我が救い」という言い方は、普通なら、神は我が救いの源泉とか、基礎とか、主体とか、あるいは神が我が救いをなしたもう、あるいは神以外に私の救いをなし得る者はない、と言うところである。主体と対象とを対置せずに、端的に「神」と「私の救い」とを同一化している。通常はこのようには言わない。今このように言うのは、普通の言い方に逆らって破格的な言い方によらなければ言い表されないと感じているからである。その感じは我々によく伝わる。
 「神は我が歌である」というのも、通常ならば、私の讃美の対象は神であり、私は全身全霊をこめて神をほめ歌う。私は殆ど無となって、神を歌うことが私の全てになる。あるいは、私は神以外の者をほめ歌うことはしない、と言うところである。讃美される対象と、讃美する私とを同一化した言い方は通常はしない。だが、この言い方が間違っていると言う必要はない。言わんとすることが何であるかは、我々にも分かるからである。破格の言い方をするのは特別に感動しているからである。
 このような特別な思いに満たされる場合があることも分かっているが、この言い方を使い慣れてしまうと、言わんとする事柄の厳かさが平板化してしまうということも心得ていて良いであろう。それでも、この言い方が許される機会も時には来る。
 昔の人は50年目のヨベルの年を歓呼して迎えた。全ての負債はその時に免除される。これは窮極の赦しの到来を象徴していたものであって、神の与えたもう窮極の赦しそのものではない。そのように、暦でいう年の初めは、単なる比喩に過ぎないと言えばその通りであるが、この比喩は本当のものを指し示しているのである。「あなたは先に私に向かって怒られたが、その怒りは止んで、私を慰められた」。アァメン。

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