イザヤ書の初めから見て来たように、神は峻烈な告発でイスラエルを責めたもう。それは殆どソドム、ゴモラに等しい破滅を指し示す警告であるが、それだけでなく、回復の日を指し示すものでもある。こう言われる。
「あなた方は身を洗って、清くなり、私の目の前からあなた方の悪い行ないを除き、悪を行なうことを止め、善を行なうことを習い、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」。
すぐ前の節で、主は「あなた方の手は血まみれである」と断定されたばかりではないか。その汚れが一挙に清くなるという大逆転がどうして起こるのか。――そのように人は疑問に思うであろう。長い時間を掛けて、少しずつよくなることしか出来ないのではないか。なるほど、我々が実際に見るところをもとにして人間の変革を考えるなら、そうであろう。いや、長時間の修練の末に良くなるのは、最も幸福な場合であって、清くなろうと願って努力を重ねても果たせない、それどころか、もっと悪くなって行くのが実情ではないか。
19節で「もし、あなた方が快く従うなら、地の良き物を食べることが出来る」といわれる。これがどのように実現するかを考えて見よう。天候異変で穀物が実らない、あるいは外国の軍隊が侵入して略奪し、また畑を荒らしているという場合である。7節に書かれていた通りである。飢饉が過ぎ去るとか、国のうちを占領していた外国の軍隊が引き揚げるとかして、畑が回復し、地が良き物を生産し、それを食べることが出来るようになるためには、少なくともその年の収穫まで待たなければならない。
実際はもっと待たなければならないであろう。イザヤ書37章30節に、「あなたに与える徴しはこれである。すなわち、今年は落ち穂から生えた物を食べ、二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種を蒔き、刈り入れ、葡萄畑を作ってその実を食べる」と預言されている。これは、ヒゼキヤ王の第14年に、アッスリヤが攻めて来た時にイザヤが語った回復の預言であるが、アッスリヤ王はエルサレムを攻め囲んだけれども、結局、エルサレム占領を断念して国に帰って行った。それでも、荒らされた畑の回復には3年かかる。しかも、これが「徴し」だと言われる。徴しであっても、3年見続けなければならない。神のなしたもう業ではあるが、即席に出来上がる物ではなく、その場で見られるわけではない。
しかし、我々が今日、次に聞こうとしている18節の御言葉は、「たといあなた方の罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ」と言う。何十年も掛けて少しずつ色を落として行って、やっと白くなるというのではない。全く荒れ果てた畑は、石を取り除き、土を入れ替え、土そのものを改良するなどの勤勉な営みを重ねて、やっと良き実を結ぶのであるが、そのことはそのこととして、軽んじてはならない。しかし、神はここにそれと別の次元の事実を示したもう。
それは夢物語ではない。神の業が一挙に起こるのである。では、神は時間を掛けて御業を成し遂げることをなさらないのか。そうではない。人間の業が長い時間を掛けなければホントウのものにならないのと比べ物にならないほど、神はその計画の実現にために長い時間を費やしたもう。神の「忍耐」ということ一つを取り上げて見ても、人間の忍耐とはスケールが違うのである。しかし、そのような長く掛かる面からだけ考えていては、神の第一義的な御業は分からないのである。
聖書の初めのページを思い起こそう。「神は『光りあれ』と言われた。すると光りがあった」と創世記1章3節は言う。神が光りの創造を企画されて、何億年かかかって光りが生じたというのではない。御言葉によって、立ち所に御旨は実現した。勿論、今日の人が価値あることと思っている早さ、これを規準にして言うわけではない。早いだけでは空しいのである。神が言われた、その通りになった、とはストップウォッチで計る時間について言うのではない。
世の終わりはどうであろうか。現在、かなり多くの人は、世界がドンドン崩壊して行くではないか。地球は疲弊し、人類はだんだん退化して、やがて絶滅するのではないかと、終わりの陰が近づいているのを心配するようになっている。しかし、そういうことでは、終わりは来ない、と我々は教えられている。「戦争と戦争の噂とを聞く時にも、慌てるな。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない」。マルコ伝13章7節で主イエスの言われる通りである。
「あなた方自身が良く知っている通り、主の日は盗人が夜来るように来る。人々が平和だ、無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らを襲って来る」。I テサロニケ5章2節-3節の言葉である。このように、世の終わりも、にわかに、そして一挙に来る。
神の言葉に信頼を置く者らは、御言葉が畑に蒔かれた種のように、日を経て芽を出し、時間を重ねて成長し、やがて実を結び、その実が熟するに至るという面を捉えなければならない。が、それとともに、言葉があって、直ちにそれが成るということも理解している。
それはどういう面で見られるのか。そのことについて、今日は18節にある一つの言葉に注目しなければならない。「あなた方の罪は緋のようであっても」。………「罪」とそれからの「贖い」の問題に目を向けなければ理解は出来ない。すなわち、罪は負い目と言われ、事実負い目なのがが、借金の場合のように分割払いで償うことは出来ない。借金ならば何十年にも亘って償い続ければ返済は完了する。また、人間の定めた法律による犯罪の償いは、定められた刑期を満たせば済んだと看倣される。
しかし、神に対して犯された罪を、長年に亘って返済し続ければ、ついに完了するのか。そういうことは決してないであろう。償っても償っても、罪責は減らないで増えて行くばかりである。簡単に言うならば、人間の業によって償うことを考えても埒があかない。神が贖い主になりたもうという道でなければ、罪の問題は解決しない。そして神が贖いをなしたもう場合、その決着は一挙に来る。
例えば、マルコ伝2章にある中風の者の癒しである。主イエスは、この病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。その時、彼は癒された。そして、「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた時、すぐに立ち上がり、自力で床を取り上げて、家に帰った。ここでは、癒しの奇跡が行なわれたことよりも、罪の赦しが、一瞬にして行なわれたことが重要である。
罪の赦しは時間をかけた人間改造や人間鍛錬ではない。「あなたの罪は赦された」と宣言された時に、赦しは完成した。主が赦すと言われたからには、人も、権力も、サタンも、私を罪に定めることは出来ない。勿論、本人に全くその気がないのに、御言葉が呪文のように作用して私が無罪の者になるということではない。先の、マルコ伝にあった奇跡の際も、主イエスは中風の者の信仰に向けて語り掛けられた。この言葉は、信仰をもって聞きとり、受け入れなければ何の意味もないのである。
「さあ、我々は互いに論じよう。たとい、あなた方の罪は緋のようであっても、雪のように白くなる」。こう言われるのは、信仰による罪の赦しを指しているものである。この所をもう少し詳しく述べるならば、先ず、「我々は互いに論じよう」と言われる。「互いに論じる」とは、裁判において原告と被告が互いに自分の言い分を陳述することを指す言葉である。
神が論告したもう。人は通常、自分は潔白だと自惚れている。良心に疚しいところのある人なら、自分は白ではないかも知れぬと思うが、せいぜい灰色であって、黒ではないから罰せられることはない、と安心している。
しかし、神の論告の前に立たせられる時、罪が炙り出されて、白いと思っていたものが、見る見る緋色になる。これが第一段である。
その次の段階で、信仰による罪の赦しの宣言が行なわれる。ここでは簡略に書かれているが、神が宣言したもう。隠れようもない緋色で、毒々しい色を呈していたものが、神の言葉のもとで、見る見るうちに白くなるのである。紅のように赤くても、羊の毛のように白くなる。
そのことが分かれば、信じて悔い改める道が開ける。「悔い改め」という言葉はここに書かれていないが、そう読むのが当然である。「悔い改める」とは、単に自分の欠陥に気付いて、自分の犯した過ちを悔やみまた悲しむだけでなく、新しい人として生まれ変わることである。
その段階で、もとに帰って16節を読めば、素直に受け入れられるであろう。「あなた方は身を洗って清くなり、私の目の前からあなた方の悪い行ないを除き、悪を行なうことを止め、善を行なうことを習い、公平を求め、虐げる者を戒め、孤児を正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」。
後年、ユダヤ人の間では潔めが度を越して重んじられたことを我々は新約聖書の福音書によって知っている。彼らは外出から帰ると、入念に身を洗った。つまり、自分は清いけれども、世間は汚れているから、外から帰った時には汚れを落とさなければならない、と考えていた。主イエスは自分自身が汚れていることに気付かねばならないではないかと警告された。
イザヤの時代には、そのような潔めの儀式はなかった。しかし、神の民が清くなければならないことはみんな一応知っていた。その潔めは、犠牲として祭壇に献げられる小羊の血によって果たされることも彼らには教えられていた。清いということが大事だということも「知っていなかった」と言い逃れるわけに行かない。すなわち、レビ記12章45節に、主なる神は「私は聖であるから、あなた方も聖でなければならない」と宣言しておられるからである。
「あなた方は身を洗って清くなれ」と言われた時、後年のパリサイ人が理解したような意味で、水で体を洗えと言われたのでないことは言うまでもない。神に向けて手を差し伸べているが、その手が血まみれである。すなわち、罪なき人の血を流した罪によって汚れている。そのような自分で気が付いていない罪を自覚して、悔い改めなければならないという意味である。
「私の前からあなた方の悪い行ないを除き、悪を行なうことを止めよ」。「私の前でなければ何をしても良い」という意味でないことは言うまでもない。神はいつも、どこでも見ておられるのである。神が見ておられるとは、どういう見方であるかもよく知らなければならない。自分では悪いことをしているつもりではない、ということは、悪いことをしていない根拠にはならない。後に続いて教えられるように、良いことをしなければならない。良いことを怠ってはならない。
「善を行なうことを習え」。ここで「習え」と言われるのは、学び取らなければ自分では身につけていないからである。習わなくても、人は当然善を行なうと考えていた人は、その間違いに気付かなければならない。人々はどうすれば金が儲かるかを習う。どうすれば物を作ることが出来るかを習う。しかし、善を行なうことは学ばないし、教えもしない。学校で教えないなら家庭で教えるべきであるが、家庭でも善を行なうことの修練をしていないではないか。
「善を行なうこと」と言われる点に注意しよう。何が善であるかを知れ、と言われるのではない。勿論、善が何であるかを知る時、それを行なうことを当然伴うのであるが、それでも、知るだけで行なわない場合がある。ここでは、そうならないよう注意を受けるのである。
「公平を求めよ」。神は人を創造したもうた時、公平に、平等の条件で造りたもうた。だから、初め人類社会が、差別なく、公平であったことは我々に良く知られている。荒野に行った民に神が毎日マナを与えたもうた時、多く集めて来ても豊かにはならず、少なくしか集められなかった人も乏しくならなかった。神の直々の支配のもとでは公平が保たれた。
イスラエルの民が荒野から乳と蜜の流れる地に移って後、不平等が次第に蔓延るようになった。そこで、ヨベルの年が設けられ、50年に一度借財が帳消しにされるよう図られたが、この通り実施することは社会の経済を運営するためには無理があった。しかし、ヨベルの年の制度が破棄されたのではない。そこに象徴されている公平をさまざまな手だてを用いて維持しなければならない。でないと、富む者はますます富み、貧しい人はますます貧しくなる。
「虐げる者を戒めよ」。あなた自身が、弱い立場にいる人を虐げるのは勿論してはならないが、そればかりではなく、虐げる人を戒めないことが罪に数えられると警告されるのである。
これは、今日の世界に生きる我々にとって、厳粛な警告ではないか。弱い者への虐げが世界の至る所で行われている。貧しい人はますます貧しくされ、持っている物まで奪われている。一方、持っている人々は貧しい国の人々から、ドシドシ奪って富を増やしている。虐げを行なう人自身は、獰猛な顔をした、見るからに嫌らしい人かというと、そうではなく、綺麗な手をして、綺麗な顔をして、良い身なりをして、優しそうな言葉をなめらかに使う。その人に対して、悪を止めよとの警告が殆どなされていないのではないか。
「みなしごを正しく守れ」。両親が子を生んで育てるのが自然の秩序である。人間の子供には自活の能力がないからである。しかし、親が二人とも先に死ぬということはある。その時、残された子の保護は親戚と隣人の責任になる。親のない子も親のある子と平等でなければならない 「寡婦の訴えを弁護せよ」。イスラエルの社会制度は男性本位であった。その問題には今は触れないが、中心であった男性は一身に家族の全責任を担った。ところが、彼が死ぬと、保護を受けない家族が残される。その家族の権利を守るのは法である。そこで、寡婦が法に訴える裁判を起こす。それが敗訴に終わる場合が多かった。即ち、裁判が法を守らず、社会的な勢力のある者に動かされたのである。だから、社会的に弱い人のためには、それを支える必要がある。正義の神はそれを要求したもう。この必要は今日も同じである。
「もし、あなた方が快く従うなら、地の良き物を食べることが出来る。しかし、あなた方が拒み背くならば、剣で滅ぼされる」。
剣で滅ぼされるとは戦争である。敵の軍隊が侵入してこの国を滅ぼすのである。すなわち、神は直接の御手の業によって滅ぼすのでなく、歴史の成り行きの中でこの国を抹殺したもう。事実、その通りになったのである。神のご計画を知らされているのに、それに従わない者は滅びるのである。その御言葉に従う者は恵みによって清くされる。