2006.12.31.


イザヤ書講解説教 第49


――11:10-16によって――

 

 「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となる」。――エッサイの根というのは、111節に「エッサイの株……、また根」と言われたものと同じである。「その根から若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」という句で語り始められたことは、要するに、ダビデの子が来て実現する王国の姿であった。そのダビデの子が立ち上がるのである。
 「エッサイの根」について10節でまた語られるのは、9節までに語られたことの続きと見て良いと思うが、初めに帰ると言う方が適切であろう。すなわち、メシヤの来臨によって実現する正義、公平、平和、その原理の確立を語ったのち、各論をこれから述べて行こうというのでなく、エッサイの根が何の使命を果たすかを、別の地平において示すのである。ただし、時を改めて見直すのではなく、「その日」に見るのである。
 11章の初めから語られたメシヤの姿、それは具体的に描かれてはいないが、強いて言うならば、王座に座するメシヤである。王としてあるべき、そして現実にそうである王が示される。王座から発せられる命令、王が行なう審判、王の支配する姿勢を我々は読んで来た。
 10節では、前の記事に矛盾しているわけではないが、違った言い方がなされる。「エッサイの根が旗となる」。「旗」は今では屋内でも掲げられるが、聖書に用いられる旗のイメージは本来は野外のものである。はるばると見渡せる平原に、あるいは高い山に旗は立てられる。そういう光景を我々は今思い描く。エッサイの根は先の章では王座に座したが、今や掲げられる旗として示される。
 「旗」というものはそれ自身で何かの働きをすることはない。旗は何かの意味を示す「徴し」である。合図、シグナルである。全ての人に示される。誰もが、見て分かる。特に、時が来た、日が来た、という合図である。旗を見た者は、見てすぐさま反応し、動き出す。しかし、旗を見ても何とも感じないし、何もしない人もいて、二種類の人に分けられる。メシヤの来臨によってこういう区別が露わになる。
 しかも、この旗は「もろもろの国人の旗」である。他国民はこれまでイスラエルの神の宣言があっても、徴しがあっても、無感動であった。ところが、今や、諸国人がこの旗を見て動き出す。世界的規模で変化が起こる。彼らは「これに尋ね求める」。尋ね求めるという言い方には、今まで待っていた。今一斉に尋ね始めるという含みがあるのを読み取ることが出来る。
 これは12節で「主は国々のために旗を上げて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる」と言われることと重なるが、全く同じであるかどうかは詳しく論じなければならない。すなわち、12節の言うのは、イスラエルの散らされた者、追いやられた者、残りの者が、この合図によって集合させられることであって、残りの者らは旗の上がるのを見るなら、勇を鼓して帰って来るのである。一方、10節の言うのはもろもろの国人についてのことである。もろもろの国民のうちに動きが始まる。
 イザヤ書4922節にも「旗」に関する言葉がある。「主なる神はこう言われる、『見よ、私は手をもろもろの国に向かって上げ、旗をもろもろの民に向かって立てる。彼らはその懐にあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る』」。これが1110節で旗を立てると言われているのにピッタリ合うではないかと言う人もいる。――つまり、王国の始まる時が来て、合図の旗が揚がれば、選ばれた民はそれまでの苦渋に満ちた境遇から解放され、名誉回復が行なわれ、これまで抑圧していた権力者からかしずかれるようになって、王国の民として帰って来る。つまり、権力関係の逆転が起こるのだと考えている人がいる。一般に千年王国と呼ばれる主張、思惑である。
 その考えを全面的に否定する必要はないと思う。抑圧されていた状態から逆転して立ち上がるというテーマを我々は聖書の至る所で読む。今安定していると思われ、あるいはどんどん良くなって行くように思われて有頂天になっているのに、あるいは、ますます踏み付けられて行くようにしか見えないことが逆転する場面がしばしば描かれるのである。
 しかし、10節の言うことは、もっと単純ではないか。これと結び付けることがもっと適切なのは、我々の良く知る2章の言葉である。「終わりの日に次のことが起こる。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高く聳え、多くの民は来て言う、『さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我々に教えられる、我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国の間に裁きを行ない、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国に向かって剣を上げず、彼らは最早戦いのことを学ばない」。ある日、何かのキッカケで、こういうことが起こるというよりは、ここに書かれていないが、旗が上がって、新しい事態が始まるというふうにことを整理するほうが分かり易い。
 だが、旗が上がったなら、万国民が一斉に真実の神への礼拝に立ち返るのであろうか。――そういうことはない。実際、メシヤが来られても、人々は集まらなかった。しかし、キリスト教会の最も初期の歴史で見るように、異邦人世界における大々的な立ち返りが起こっている。
 もう一つ、これは全然確かでない話しだが、人々が或る意味で「時を待っている」ということが見られるのではないか。丁度、神を信じる人は少ないが、神がおられることを否定できないとの思いに駆られている人は必ずしも少ないのと同じである。人々の心にある宗教心は、芽の出ていない種のようなもので、生命があるかないかも分からない。それと似て、人々は全く分からないながら、「何かが来る」と予感して何かを待っている。「希望」という言葉は余りに広く使われて、お粗末な言葉になっているので、ここでは誤解を避けるためにその言葉は言わないでおくが、何か驚くべきものが来る、という予感を人類は持っており、この動機に駆られて、個人で、あるいは集団で何かを始める。これが他の動物と違う点である。もっとも、その冒険が成功しないことが多い。それでも人は期待を追うことを止めていない。
 だから、「主が来て旗を立てたもう」と呼び掛けられると、何かを感じる人がいる。それが分かっただけでは何にもならない、と言われればその通りであるが、それでも、人は待つことを止めないで、神を待ち続ける。こういう事情を捉えて置こう。
 「その置かれる所に栄光がある」。これはエッサイの根の置かれる所なのか、旗の置かれる所なのか。良く分からないが、ある特定の場所に栄光があると言っているように思われる。それがどこであるかを論じても結論は出ない。ただ、そこに栄光があって、それは具体的に見えるのである。91節に「後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄が与えられる」と言われることは、その地が今言う栄光の地だということではないが、具体的な地が考えられているらしい。
 「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者を贖われる」。――「再び」と言われるのは、かつて一度あったことがまた起こるという意味である。では、先にあったことは何か。神の民がエジプトの奴隷状態から贖い出された事件であることは明らかである。16節後半に「昔イスラエルがエジプトの国から上って来た時にあったように」と書かれている。これは単に奴隷状態からの解放だけを言うのではない。奴隷から解放された民は、礼拝する民として組織され、仕える方式としての律法を与えられ、神と契約を立てる。そして、神は御自身の民として贖われた民族に土地を与え、これを受け継げと命じたもうた。これは勿論、土地を征服して領土とし。他国に侵略されないようにさせ、また先祖が神から頂いた地を勝手に売買するなということではない。これは、終わりの日に神の賜わる神の国、またそれに先立って神の国の徴しとして与えられるキリストの教会を象徴したものであって、これを如何に愛すべきであるかが示された。
 それが贖いの雛形であって、今度はモーセによってでなく、キリストによって解放が行なわれ、罪の奴隷は解放されて、キリストのために生き、隣人のために生きる者とされる新しい契約が立てられる。
 先にはイスラエルの民、つまりヤコブの子孫である民族が奴隷状態から回復された。今度は誰が解放されるのか。それは全人類であると答えられるであろう。それはその通りであるが、ここで我々が学ぶのは「その民の残れる者」である。全人類でなく、その民の全てでもなく、残りの者だけである。したがって、救われる者はイスラエルよりもっと小さい群れになる。これが救いの真理の一面である。
 しかし、もう一面として、先程2章で読んだように、「多くの民が来る」ということが約束されている。どちらが本当なのか。これに答えることは、人間の理解力を越えていると言って逃げるわけには行かぬのであるが、今はその二面を捉えて置こう。
 その日、贖い出されるのは、アッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテ、及び海沿いの国々からである。かつては、エジプトから贖い出されたが、今度は奴隷化された者は広範囲に散らされている。先ず名を上げられるのはアッスリヤである。イザヤの預言では、アッスリヤは最も禍いな敵である。その暴力のもとに押しひしがれている者らが解放される。16節にも「その民の残れる者のためにアッスリヤからの大路がある」と言われる。帰って来る民の大部分はアッスリヤから帰還する。
 しかし、それ以外の国からも帰って来る。エジプト、パテロスすなわち上エジプト、さらにその源流エチオピヤ。これらの強国がイスラエルを拉致した顕著な事件はないが、南の隣国である。人々が浚って行かれたり、その国の大きい富に心惹かれて虜になる人が常時いたと思われる。
 エラム、シナルはアッスリヤよりもっと東方である。ハマテは北方である。海沿いの国々は西方エーゲ海の島々である。どこがどういう悪を神の民に対してなしたかを論じることは不必要である。それよりも、あらゆる国から贖い出されねばならない事情があることを見なければならない。
 「主は国々のために旗を揚げて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる」。ここには先ず、イスラエルとユダが互いに分裂し、そしてそれぞれに散り失せて行くことが預言され、それを散らし・追いやったのは武力をもった強国であるというよりは、それを用いてことをなす神御自身であると言われる。そして、次に神によって散らされたイスラエルの回復が予告される。
 民らは散らされて広大な地域に分布したが、これを発展と見ることは出来ない。散らされて一人になっても、自分は約束を受けた民である、と表明出来る人はいない。自分が自分であるという意識は薄れて行き、自分が何であるかが分からなくなってしまう。散らされるとはそういうことである。そして、集められるとはその逆のことである。キリストの旗のもとに集まることが力だということを我々は知っている。
 13節はイスラエルとユダの兄弟王国が、兄弟として統合されていなければならなかったのに、嫉みによって2王国に分裂し、互いに悩ませ合う関係になり、一旦分裂すると921節に「マナセはエフライムを、エフライムはマナセを食らい」と書かれていたように、共食いが進んで行く。集められるとは交わりの再建である。
 再建された王国、すなわちエッサイの根が立てられたところに成り立つ王国が堅く立つことが次に象徴的に語られる。西に東に襲い掛かって征服するようなことが書かれているが、メシヤ王国は平和の国である。これについては説明を省略して良いであろう。エッサイの子のもとに結集される王国はもう侵略されないのである。かつてイスラエル・ユダを苦しめた周囲の国々、ペリシテ、エドム、モアブ、アンモンは今度はそのようなことをしない。
 15-16節で示されるのは、贖われた民の帰って来る道である。彼らはやっとの思いで帰りつくのではなく、堂々と帰って来る。かつて主はイスラエルの民を解放するために紅海の中に道を開いて民らを渡らせたもうたが、今回はエジプトの海の舌を涸らし、川の上に手を振って熱い風を吹かせ、川は小さくなって干上がり、靴を濡らさずに渡ることが出来る。
 こうして、アッスリヤから贖い出された者は、大路を堂々と歩いて帰って来るのである。それはつまり、贖われた者の進む道が妨げられることはないという意味である。

 

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