2006.11.26.


イザヤ書講解説教 第48


――11:5-9によって――

 

 真実の支配を実現するために来られるメシヤが、どういう支配者であられるかについて、11章の初めから学んで来た。その締め括りとして、今日は先ず5節で「正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる」というところを学ぶ。そして、それに続いて、彼の支配の成果が何であるかを6節以下で学ぶ。それは、要するに「平和」である。真実の平和である。言葉を換えて言うならば、アダム以来失われたエデンの園の回復である。この平和は6節以下では示されるのだが、5節までのところで見れば、完全なエデンの園の実現ではない。すなわち、正義をもって救済されなければならない貧者がいるし、裁かれ、処罰されねばならない悪しき者もいる。
 したがって、メシヤの到来は、一面、失われたエデンの回復、あるいはアダムがそこから隔離され、近づくことが出来なくなったエデンへの復帰である。が、もう一面として、現実の世界における支配や統治のあるべき姿を示す規範と取らなければならない。つまり、彼方に描かれる理想でなく、この世において努力して追い求めるべき現実である。だから、ここに示され、約束されるメシヤは、ただ希望をもって待つべきお方として捉えるのでなく、見習うべきお方として捉えなければならない。もっと具体的に言えば、ここで示されるこの世の政治や裁判における正義・公平の追及は、我々の努力すべき課題でもある。
 イエス・キリストは「私について来なさい」と言われる。だから我々はついて行く。困難に見えるのであるが、祈りつつ主に随いて行く時、道が開ける。これが主の民の道である。このことについて、我々は雲のように多くの証し人に囲まれているから、十分分かっているはずである。
 さて、正義・公平について、4節で学んだ。それで十分だとは言えないが、先に進むことにする。すなわち、先に進むことによって、これまでの理解がもっと深められるということがある。そこで、「正義を帯とし、忠信を帯とする」ことについて学んで、さらに次に進むことにしよう。
 「帯」というのは「帯を締める」という日常の動作から借りた譬えである。帯をしないで家の中で休んでいても、自分にとって何ら支障はないし、誰にも迷惑は掛けない。しかし、旅に出るとなると帯を締めていなければならない。戦いに出るときもそうである。家の中でも、改まって大掃除しようとする時や、何かの使命に打ち込もうという時には、帯を締める。
 そのように、「帯を締める」というのは、身構えや心掛けに関する譬えであって、教えの実質とか、箇条とか、信仰者の守るべき徳目とかいうものではない。しかし、我々が決して忘れてはならない命令の中に「帯を締める」という表現が何度も出て来る。例えば、ルカ伝1235節、「腰に帯を締め、明かりを灯していなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を叩く時、直ぐ開けてあげようと待っている人のようにしていなさい」。同じことを言うのは、I ペテロ113節である。「心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現われる時に与えられる恵みを、些かも疑わずに持ち望んでいなさい」。これは、このまま実行するほかない。
 メシヤが「正義を腰の帯とする」とは、彼の務めの遂行の全体を締め括れば、「正義」ということになる、あるいは「正義」によって彼の職務のいっさいは発動するという意味である。正義を持っており、正義を実行するのであるが、それをなさるお方の身構えがここに描き出される。
 「忠信」という言葉は11章ではここまでに出なかったものであるが、聖書ではしばしば聞いて来た。「忠実」、「真実」、「信仰」というような意味に訳される。聖書の教えの核心部分である。新共同訳は「真実」と訳している。その人自身の内なる真実とともに、他の者、すなわち、第一に神に対し、第二に人に対しての真実である。神に対する真実とは信仰と言った方が良いかも知れないが、神に対する真実は人に対する真実と決して切り離されないから、両方の意味が表されるように「忠信」と訳されたのだと思う。
 約束されたメシヤはナザレ人イエスとして来られ、約束は成就されたと我々は確認しているが、このイエス・キリストを見ることによって、預言者を通じて約束されていたことの中味を十分に知ることが出来る。
 彼は我々によって信じられ、崇められるお方であって、我々の信頼を裏切ることのない真実なお方であるが、彼自身、天にいます父を信じておられた。「忠信はその身の帯となる」ということの意味はこうして明らかになっている。
 次に「狼は小羊と共にやどる」。――このことについては説明の必要がない。難しく考える余地はない。狼が何かを象徴し、羊が何かを象徴する、と勿体ぶった解釈はむしろ避けなければならない。昔の人にも十分意味が分かっていた。現代人以上に分かっていた。昔の人のうちには、狼を飼い慣らして人間に奉仕させるということもあった。ただし、イザヤが狼と羊について語った時、人間に飼い慣らされて羊の群の番犬にされる狼については考えていなかったようである。聖書に書かれている限りでは、狼は羊を襲うものである。だから、羊飼いが羊を狼から守るのであり、羊と狼とは隔離されなければならない。
 しかし、狼が羊を常食としていたわけではない。棲む領域は区別されていた。狼は森に棲み、羊は草原に棲む。森の中で食物がなくなった時には、狼は森の外に餌を求めて出て行き、羊が襲われる。そのため、「狼は襲うもの、羊は襲われるもの」という関係の観念が出来てしまった。そこで、狼は見つけ次第殺すべきものとされ、我々の住む日本ではとうとう狼は一匹もいなくなった。しかし、それで安全になったわけではない。むしろ、もっと恐ろしい、もっと住みにくい国になったということを我々は知っている。
 聖書から離れたことを語っているかのようであるが、そうではない。先に学んだところでは、メシヤが来られた時、「その口の息をもって悪しき者を殺す」と言われた。だが、メシヤが来て狼を殺すとは言われていない。悪人は裁かれて殺されるが、狼が裁かれて殺されるのではない。このことを深く考えないならば、メシヤの来臨について我々は飛んでもない間違った理解をするかも知れない。
 今は狼と羊が棲み分けることによって平和を保っているが、かの日にはそうでなくなる。今は、有害な獣が人間によって撲滅されることによって羊の平安が来るが、その日には、狼と小羊は共存するのである。預言者はそう言った。それがどのようにして実現するか、と問われるなら、我々には答えられない。7節には「牝牛と熊とは食い物を共にし、獅子は牛のように藁を食う」とあるから、動物界にも大変化が起こるのは確かである。が、その説明は我々の能力を越えている。
 我々に分かること、分かっていなければならぬことは、メシヤの支配の領域が人間の社会だけでなく、まして人の心のうちの刷新だけでなく、所謂「自然界」にまで及ぶということである。さらに言えば、人間の社会よりも自然界の方が、メシヤの支配をもっと素直に受け入れるということを預言者は暗示しているのではないかと思われる。
 キリストの福音と関わりない無駄話ではないか、と思われるかも知れないが、決してそうではない。今日、人々は政治社会の崩壊、国際関係の崩壊、人類の崩壊、人間共同体の崩壊、人間自体の崩壊だけでなく、自然界の崩壊が進んでいることを感じないではすまない。だから、自分一身のことだけを祈るのでなく、祈るべきことの領域がどんどん広がって行くことを感じないではおられない。今になって我々はこのことに気付いたのだが、御言葉は昔から祈るべき広い領域を示していた。
 次の「豹は小山羊と共に伏し」については説明を加えなくても十分分かる。その次の「子牛、若獅子、肥えたる家畜は共にいて、小さい童に導かれ」というところについては、すでに説かれたことと同じ事の重複とともに、新しく目を開くべき点がある。「小さい童に導かれる」という点である。すなわち、人間の関与である。
 羊と狼の関係について見たように、人間はここに暴力的に関与して両者を引き離す。狼が襲って来るなら人はこれを暴力的に殺す。したがって、狼に立ち向かうだけの腕力、武力のある人、つまり大人でなければ、羊を守ることは出来ない。しかし、メシヤ王国においては小さい童がおれば良い。人間の関与は必要であるが、暴力的関与は要らない。平和に関与すれば、そこで共存がある。
 「牝牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、獅子は牛のように藁を食う」とは、先にも触れたが、我々には説明の出来ない奇跡的な変化が動物界の中で起こることを示すと取って満足しよう。猛獣が穏やかに生きる動物を襲撃するこの獰猛な性質が奇跡的に変えられると解釈する人もいるが、獰猛という性格づけは人間が自分の都合上したものに過ぎない。しかし、とにかく、自然界に変化が起こり、平和共存ということが実現する。
 それは人間の世界征服ということとは全く別である。人間は意見の異なる者らを征服すれば平和が来るという考えで世界征服をし、その考えは悉く失敗した。それでも、いまだにこの考えを訂正しようとしない。神がメシヤによって実現しようとされる平和がどういうものであるかを我々はもっと深く学ばなければならない。
 「乳飲み子は毒蛇の洞に戯れ、乳離れの子は手を蝮の穴に入れる」。――ここには二つのことが示されているのではないかと思う。一つは、ここまでに語られたことの結論として、自然界で何一つ損なわれることがなくなり、平和な共存が実現するということである。一般に「悪しき動物」と看做されるものが取り上げられて来たが、そのうち最も忌み嫌われた毒性ある動物が最後にあげられるヘビである。
 ここから、我々は容易に第二の点に進むことが出来る。創世記3章に書かれているように、蛇は神の造りたもうた物のなかで最も賢かった。そこで蛇はエバを誘惑し、エバはアダムを誘惑し、こうして人類は罪に堕ちた。これが罪の起源として象徴的に語られる物語りである。この8節は罪に対する勝利を十分に語ったとはとても言えない。イエス・キリストの十字架と、死人の中からの復活が語られなければならない。しかし、創世記315節に、「女の裔が蛇の裔の首を踏み砕く」と言われていることは、そのことを指していると我々は知る。
 「彼らは我が聖なる山のどこにおいても、損なうことなく、破ることがない」。――「聖なる山」とはシオンの山である。神が足を置きたもう所と言われる場所である。全地は神の支配のもとにあるが、神を知り、神を恐れ、神を礼拝する人々の集まって来る所、そこでは、神の栄光が満ち満つるのであるが、それゆえ、そこには神の平和が特に充満する。では、世界の一画、シオンにしか平和はなく、それ以外の地では争いが満ちているというのか。そうでないことは、この9節の後半からも明らかである。「主を知る知識は全地に満ちる」。それ故に全地に正義と平和が満ちる。水が海を覆い、海の中には水のない区域がありえないように、主を知る知識は地に充満し、それゆえ、正義と平和は全地に満ちるのである。
 そのように、全地に正義と平和が満ちるのであるが、それは世界の一画から始まって、全地に拡がる。イザヤ書2章で我々は聞いた。「終わりの日に次のことが起こる。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高く聳え、全ての国はこれに流れて来、多くの民は来て言う、『さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我々に教えられる、我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである」。
 神の言葉は全地に及ぶ。しかし、全ての地に一斉に降り注ぐのではない。地の上のある一点から始まる。これが神の採用される方式であることを我々は知っている。これはすでに始まったのである。

目次