2006.10.29.


イザヤ書講解説教 第47


――11:4-9によって――

 

 前回、114節の第1行「正義をもって貧しい者を裁き……」というところまで進んだ。今日はそれに続く「公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし」に入るが、これもほぼ同じ意味である。ただし、同じ言葉の反復ではなく、第2の句は第1の句で言ったことの幅を広げ、また意味を明らかにする。
 初めの句では「貧しい者」と言われた。次には「柔和な者」と言う。同じ意味を多少視点を換えて述べたものだということは容易に分かるであろう。「柔和な者」、すなわち力ずくでことを解決しない、争わない、自分を主張をしない、自分の利益に固執しない、そういう人は、この世で次第に落ちぶれて行くのである。これがこの世の現実だということは論じるまでもない。が、そのままではいけないということも、我々には分かっている。
 その人個人の性質は柔和であるが、落ちぶれて行かない人もいる。そういうケースが「柔和」の典型して尊ばれているのではないか。しかし、これは、家柄とか、資産とか、組織によって保護されているからであるということも、我々は知らなければならない。ということは、逆に見るならば、そのような保護の特権を持たない人たちがヒドイ目に遭っているのに、資産などによって保護されている柔和な人はヌクヌクと生活し、優雅な暮らしを楽しんでいるということである。これが本当に感謝すべき祝福の状態であろうか。主イエスが「柔和なる者は幸いなり」と言われたその「柔和」はこういうことだったのであろうか。
 預言者イザヤの予告するメシヤの到来を、理想郷の実現であるとか、天国が地上で始まることだと解釈する人がいるかも知れない。現実は余りに苛酷であるから、理想郷に憧れることで息をつく人がいることは理解出来なくない。救い主が宝船に乗ってやって来る、という神話を持っている民族がある。しかし、救いの真理はキチンと取らねばならない。旧約聖書の中には、人々の求めている理想郷が即ち天国なのだ、と説明しているかのように受け取られる箇所がある。これは人々の理解力の低さに合わせて、分かり易い譬えを用いたということであって、実際のメシヤが「苦難の僕」として来られたことを見れば、真の意味はハッキリするであろう。
 では、メシヤが来てもメシヤ自身苦難を受けるのだから、人類の悲惨は増すばかりだということか。その苦難を忍ぶことが信仰の真髄だというのか。メシヤは、「全て苦しむ者は私に来い。私が休ませてあげる」と言われたではないか。
 ただし、預言者がこの2行目で言わんとするのは、まことの王としてメシヤが来られた時、光り溢れる幸福な世界が実現するというような、理想あるいは憧れを一幅の絵巻物に描き上げたようなものではない。むしろ、これは地に足を踏まえ、現実を見据え、さらに言うならば人々が汗を流して参与して行く具体的努力目標として示されると把握しなければならない。つまり、正義の支配が行なわれるということである。9節に「主を知る知識が地に満ちる」と言われる通り、地上のことがここで捉えられねばならないのであって、天上に思いを馳せて、地上の忌まわしさを忘れるという現実逃避ではないと考えなければならない。
 たしかに、ここに描かれているような王国は、人類の善意の努力で達成され、あるいは達成に近づくものではなく、むしろますます遠のいているというのが今日の実感である。キリストは来られて、「幸いなるかな柔和なる者」と言われた通り、柔和な者の幸福は事実となった。ただし、完成されたという意味ではない。メシヤの来臨によって直ちに地上天国が実現したと夢見てはならない。しかし、キリストが来ても駄目だったというのではない。ここには信仰によって捉えられる確かさがある。キリストが来られたことによって、彼の再臨への希望は確かにされたのである。だから、我々は困難と見える事態の中でも希望をもって励む。
 さて、今日ここで学ぶのは、柔和な者が柔和のゆえに潰されてしまうことなく、穏やかに生きて行けるように、国の内の行政が整えられねばならないということである。先には、裁判が正義の規範に則って行なわれねばならないということを読んだのであるが、ここでは政治あるいは行政のことが語られている。
 支配者がいなくても、銘々が正しいと思うことを行なえば、全体はうまく調和するのではないかと考える人も多い。一見それが正しいように思われる。しかし、「治める」ということを実行する人がいなかったならば、社会は混乱して、荒廃する。
 では、治める者を立てれば、うまく行くか。そうでないということも分かっている。それでも、万事を野放しにして置くよりは、行政を行なう権威を承認し、そこに権力を委ね、多少の不都合が生じることは我慢する、という合意が一応成り立っている。だが、人間の行使する行政の権威が誤りを犯すことは珍しくなく、その誤りにも余りにヒドイ誤りと、さほどひどくないものの開きがある。
 この問題を神を抜きにして考えるならば混乱するばかりである。神は人を造って地を耕させたもうたと聖書は教える。人の働きが組み込まれて所謂「自然」が成り立っている。国というものも、これを穏やかに治める人間の働きが神によって定められている。全ての権威は神によって立てられたと聖書は教える。このことについて、今は詳しく論じないでおくが、今日与えられた聖句を読むためには心得て置くべきことである。そして、このことを考えねばならないため、人は来たるべきメシヤによる完成された支配を待ち望まずにおられない。
 先には「正義をもって貧しい者を裁く」ということを教えられた。貧しい者を裁くとは、貧しい者も罪人であるからキチンと裁かねばならないと取れなくない言葉だが、むしろ「貧しい者のために」と取るべきだと学んだ。裁判は公平でなければならないから、貧しい者に味方するような偏りは不正ではないか、貧しい者にも富める者にも平等に権利を回復しなければならないではないか、それが正義ではないかと思われる。ところが、人間の目に良しとされる平等と、神の宜しとされる平等とは違うのであって、水平面の上に置いたつもりのボールが、実際は水平でないから端の方に転がって行くように、社会にはことさらに不正をしなくても、柔和な者が不利益を蒙るという歪みがある。まして不正な政治が働くと、不正は柔和な者に皺寄せられ、資産を失い、住む所を失ない、健康を損ない、ついには生命を保持する手段も失なう。
 不公平を修復するために、一つには裁判がある。裁判は正義に則って行なわれなければならない。だが、訴えが起こらなければ裁判にならない。それは弱い人には簡単に出来ない場合が多い。つまり、訴えを起こしやすくして置くと裁判が悪用されるから、そうならないようにハードルを高く設定してある。
 そういうわけでで、訴えが起こらなくても、訴えるだけの強さを持たない人のために、公平が損なわれることのない行政が必要である。「柔和な者のために定めをなし」というのはそのことである。柔和な者は保護されねばならない者である。保護のためには「定め」が必要である。公的な力をそのことのために用いるべきである。しかし、そのような定めは、必要を感じない者には無駄なことに思われ、そのような無駄を無くするのがむしろ正義ではないかという議論がまかり通るようになる。神はそれを宜しとしておられない。
 それでは、社会主義者の唱えている政策を実施すべきだということか。そのように取ることもあながち間違いではない。しかし、社会主義を実施した国は半世紀も経たぬうちに、行政の執行を行なう特権階級の腐敗によって崩れた。しかも、社会主義政権の崩壊によってより良くなったとは決して言えない。
 公平が現実化するとはどういうことか。その最も単純な形を神は御自身の民の守るべき規定として、最も古くから制定しておられた。それは7日目の安息である。働く者に休みを与えなければならないという社会政策であるだけでなく、御自身の安息に被造物を与らせるという聖なる律法である。人は働きを止めることを忘れると、神が見えなくなり、隣人が見えなくなり、自分に立ち返ることも出来なくなる。
 安息日は神の民の目印になる重要なものだが、彼らだけが安息をエンジョイし、他の者は休ませなくて良いという規定ではない。家のうちの僕・婢、寄留の他国人、それぞれの飼う家畜にまで安息を及ぼさなければならない、と具体的に規定されている。この規定を正しく守ることはなかなか困難なので、この規定の実施をなるべく狭い範囲に限定しようとする。自分たちだけに限定すれは実行しやすい。実行しているという達成感もある。しかし、自分は実行しているが、安息に与ることを許されない人が生み出されても、そこまでは目が届かないので何も問題を感じない。
 安息日律法が主イエスの時代にすでに形骸化していたことは広く知られている。そのため、キリスト教会の中でも、この律法の遵守、またこの律法の意味の掘り下げはどんどん廃れている。主はキリストによる安息日の成就を宣言されたのであるが、そこが分からなくなっているキリスト者が多い。休日でも働かなければならない人が増えて行く不公平の時代に、その日には働かなくて良い権利を保障されている人が礼拝に集まって、自分たちの安寧を祈るだけで良いのか。これは深く考えねばならないことである。
 さて、このようなことは心の中で捉えておれば良いというものではない。国のうちの定めとして行われなければならない。神の定めがあるだけでなく、その定めが自発的に、宗教的に守られるだけでなく、「国のうちの定め」として、国中で実施される政治的措置がなければならないことをここで見て置きたい。
 次に、「その口の鞭をもって国を撃ち、その唇の息をもって悪しき者を殺す」と言われる。国を撃つとは国全体に対する懲らしめである。悪しき者を殺すとは死刑の執行である。王なるメシヤの支配のもとで、悪は罰せられるというのである。
 刑罰を課する必要のある悪人に対して刑の執行が正しくなされるという主旨である。こういうことが地上の国々において行なわれねばならないし、正しく行われない場合が極めて多いことを人は皆承知している。だから、メシヤが来られれば不都合なことはなくなるということも分かる。ここでも裁きがあるが、先に触れた裁判、すなわち訴える人が出て来て成り立つ裁判、民事裁判ではなく、刑事裁判である。王の権威によって犯罪人は裁かれ、処刑される。
 しかし、4節の45行で言われるのは終わりの日の審判を言うのであろうか。それとも、まことの王が来て以後の政治がこうなるというのか。――その両方の意味が含まれていると取るのが良い。終わりの日の裁きは分かるが、メシヤが来られて裁きが行なわれるとは意外だと感じる人がいるかも知れない。しかし、キリストが「私は裁かない」と言われたのは真理であるとともに、「私は裁くために来た」と言われる真理がある。例えば、ヨハネ伝826節に、「あなた方について私の言うべきこと、裁くべきことが沢山ある」と言われたではないか。同じくヨハネ伝939節で、「私がこの世に来たのは、裁くためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言われたではないか。
 ヨハネ伝で言われる裁きは国のうちの司法制度による裁判ではない。キリストが来て裁きをなしたもうたのに、裁かれた人が一向に気付かない、それだけに裁かれる者にとっては肌で感じるよりも一層恐れなければならない裁きである。イエス・キリストは人を殺す言葉は語られなかった。生かす言葉を語られた。しかし、その言葉を命の言葉として聞かない者には、これは裁きの言葉として作用する。
 イザヤが「口の鞭」また「唇の息」と言うのは判決の勢いの強さを表す。したがって、刑は執行されずにおかない。では、メシヤ王国は厳罰主義の恐怖政治の国なのか。そうでないことは、6節以下の平和の実現のところを読めば十二分に明らかである。ここでは、支配が完全に行なわれ、支配者の意に反することは何一つ起こらないという意味が示されたのである。

 

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