2006.09.24.


イザヤ書講解説教 第46


――11:3-4によって――

 

 前回、イザヤ書1112節によって、来たるべきまことの王、メシヤ、キリストの持つ徳として、第一に示されたのは、「神を恐れる」心、そういう姿勢、人柄、これが知恵であるということであった。だが、いきなりそう言われても、呆気にとられるばかりかも知れない。だから、箴言は「神を恐れることこそが知恵である」と教える。それは分かり難いことのようであるが、我々はついに納得せずにおられなくされる。
 「神を恐れる知恵」は御霊の賜う賜物の最も重要なものだということも学んだ。そのことを聖書の教える教えとして聞き取って、理解を深めねばならない。
 今日はその次、3節以下に進む。来たるべきメシヤが「王」として、どういう「支配」を行なうかが述べられる。「彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって裁きをなさず、その耳の聞くところによって定めをなさず、正義をもって貧しい者を裁き、その口の鞭をもって国を撃ち、その唇の息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる」。「主を恐れることを楽しみとする」というその「楽しみとする」との訳語については分からないから、いろいろな訳が試みられている。
 王とか、支配と言ったが、自分に縁遠いと感じる人がいるかも知れない。すなわち、自分は支配される側であって、支配することは自分の分ではない。支配される者として、どういう支配者が望ましいかを考えることは出来るとしても、自分には支配の務めは委ねられていない、と思う人が多い。そこで、今日学ぶ御言葉を縁遠いものと感じることがないために、少し面倒であるが、若干のことを論じて置きたい。
 初めに見た「知恵」、これが治める者として特に必要なものであることは言うまでもない。しかし、支配者だけが知恵を持っておれば良いと思うのは安易であり、支配者が知恵を独占するのは危険である。むしろ、まことの支配者が来られた時には、「主を知る知識が地に満ちる」。メシヤの持つ知恵と知識は全ての人に分けられる。支配者だけが帝王学を学ぶというのは昔の情報の発達していなかった時代の遺物である。今では全ての人が帝王学を学んで、自分の職責の領域におけるマスターにならねばならない。
 全て務めが神から来るということは確かである。だから、我々はその務めを神の御こころにかなうように励む。しかし、神から委ねられて実行するとはどういうことか。これを人はいろいろに解釈して来た。時代は変わって行く。昔の解釈をそのまま受け継いでよいかどうか。これは真理の御言葉にしたがって解釈しなおして行かねばならない。
 昔の人は、支配する務めを神から授けられた人、またそういう階層と、支配される階層は別であって、それぞれの地位は親から子に世襲されると解釈していた。この考えで、それなりの秩序が保たれていたことについて、今論じることは省略するが、昔の解釈が現実と合わなくなっている。だから、解釈をし直すのである。
 今では選挙で選ばれた者が支配を行なうが、我々はそこに神の御こころがあると看倣し、この秩序を重んじる。しかし、例えば、エッサイの家の6番目の男の子が王として立てられるとは誰も知らなかったのに、神の定めがあって、それは遂行される。そのように、今でも、神の定めたもうたことが行なわれ、予想出来なかった人物が支配者として選ばれるのである。選ばれた人が神を敬うことを知らず、人々の生活を不幸に陥れることがあっても、それが神の摂理なのである。メシヤが来て支配されるその支配とは非常に違う支配が行なわれる。
 裁判の例を取り上げて見よう。昔、裁判に携わるのは特定の選ばれた者であると考えられた。今では、無作為に抽出された裁判人が、難しい試験に合格した裁判官とともに法廷を開くように変わりつつある。「裁く」ということ自体は変わらずに貫かれているが、その実施の仕方は変わる。なぜ変わるかというと、おもな理由は、最も優秀な人物であるはずの人の行なう裁判が、往々にして間違うという事実が分かって来たからである。こういう制度を採り入れている国は古くからあったが、その制度が理想だとは考えられないとしても、選び抜かれた裁判官の裁判と比べて劣っているとは言えないことが、だんだん明らかになった。
 要するに、こういうことである。裁きは本来神に属し、神の裁きこそが真実の裁きであり、また裁きの本源である。だから、地上における全ての裁きは、裁く者が裁かれることを弁えて、神の裁きのもとに自己検証を行なう謙虚な姿勢を持たねばならない。しかし、神の御こころを弁えない者が裁判のやり直しをしたなら、もっとヒドイことになるかも知れない。むしろ「神の名によって裁く」と言い張るのを避けた方が良い。正義によって裁くという言い分も、自分で正義だと思っているだけの空疎なものであるかも知れない。
 そこで、全ての国の裁判には「上告」の制度があって、一度やった裁判を二度三度見直すことが出来るようにしてある。この制度が良く機能していると言えない場合があるが、それでも、とにかく、一度の裁判で確定してしまわない慎重な制度を、人類の知恵は考え出した。それは信仰に関わる教えではないが、この制度に逆らうことは神に逆らうことになる。
 さて、王としてのメシヤの務めである「治める」こと、「裁く」ことについて、今日は学ぶのであるが、我々はメシヤによって治められる側の人間としてだけ、このことを学ぶのではない。約束のメシヤが来られる時、我々もまた治めることに与る。マタイ伝1928節で主イエスは言われる。「よく聞いておくが良い。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、私に従って来たあなた方もまた、12の位に座してイスラエルの12の部族を裁くであろう」。これはキリストに与ることであり、真に自由な人間となるという意味である。
 真の王でない者がメシヤの真似をしてはいけないと言うのではない。むしろ、みならうべきである。しかし、この世で治める者らが現実に行なうことは、如何にヒドイことであろうか。
 しかし、ここで政治評論や裁判評論になっては、話しがとめどなく広がるし、聖書を学ぶ意味と実質が失われてしまう恐れがある。だから、自らの興味をかなり抑制しなければならない。今、礼拝の中で、神の御顔の前で特に聞くべきことに、出来るだけ的を絞るべきである。
 神はその民を奴隷の境遇から解放し、彼らの守るべき掟を与え、嗣業の地を与えたもうたが、彼らの立てる国の制度は決めておられない。律法があるから、律法にしたがって各自己れを治めれば良かった。ただ、人と人との間に争いが起きる時には、それを裁く人が必要であった。初めはモーセが一人でこれに携わったが、一人ではこなせないので各氏族から長老70人が集められて、これがモーセを支え、その死後も裁く任務を受け継いだ。
 その他にヨシュアの死後、制度ではないが「裁き司」、「士師」が起こされてイスラエルの危機を救ったが、これでは安定した国を立てて行くことが出来ないと見た民衆は、預言者サムエルに願って王を立てる。サムエルは王制の持つさまざまな不具合について説明した上で、神の指示にしたがってサウルを最初の王に立てる。しかし、初めの王サウルが王として失格したため、サムエルはそれに代わる王にダビデを選ぶ。
 しかし、神の民の立てる国にとって王制がふさわしいわけではなかった。我々が知っているように、ダビデの子孫の王国も滅び、二度と建てられることはなかった。神のたもう王国を待ち望む信仰者は、現実の王たちの破綻に躓くことを繰り返しながら、真の王の到来への希望を御言葉から聞き取って行く。
 真の王は真の裁きをするのである。裁きという言葉はここで裁判の意味に限って受け取ってよい。ただし、目の見るところによっては裁かない、という裁判である。目の見るところによる裁き、とは上辺の恰好よさに惑わされることも含むが、それだけの意味に取ってはならないであろう。
 神が預言者サムエルに語りたもうた御言葉を思い起こす。サムエル記上167節であるが、「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。人によっては深いところまで見通すことが出来、人選に失敗しない場合はあるが、絶対に間違いがないとは言えない。今ここで見ている例では、預言者サムエルのような洞察力ある人でも、見損なったケースについて神が語られたのである。人の見る目と神の見る目は違う。それならば、人は結局、本当のものを見ることは出来ないのか。或る意味ではその通りである。しかし、或る意味では人も真理を知る。それは見ることによってでなく、真理の御言葉を聞くことによってである。真理の言葉の内容については、4節でもっと詳しく示されるであろう。
 今、3節の2行目「目の見るところによって裁きをなさず」は来たるべきメシヤについて言われているのであって、地上における裁判を直接に規制するものではないが、一般の裁判も、上辺の見せ掛けや、法律の条文と辻褄合わせをするのでなく、真理に叶って判断しなければならないのは言うまでもない。
 「耳の聞くところによって定めをなさず」という時の「聞く」は真理の言葉を聞くという意味ではない。裁判では原告の訴えと被告の申し開きをよく聞かなければならない。訴えをロクに聞かない裁判官も少なくないが、これは今は論外としておく。「定めをなさず」と訳されている「定め」は決定のことである。
 聞いてはいるけれども、実は理解していない。そういうことが極めて多い。そういう地上の裁判とは甚だ違う。さらに言うならば、訴えがなされる前にすでに聞かれていると考えれば良く分かる。
 「正義をもって貧しい者を裁き、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし」……。これは同じ主旨の言葉を繰り返したものである。
 したがって、正義と公平、貧しい者と柔和な者、これは同義語である。裁判の基準が正義と公平であることは一般に言われている通りである。ただし、なかなか実現しない。それは「貧しい者」という点に注目していないからではないか。
 貧しさと不公平が結び付いていることを神は見ておられる。しかし、人は正義は正義、貧しさは貧しさ、それは別々のことではないか、と言う。それは、一面では真理である。だから、主イエスは「貧しき者は幸いなり」と言われた。すなわち、これは福音の真理であり、キリストによってこの真理が成就した。だが、我々が貧しい人は幸いなのだから、貧しいままにして置いて上げれば良いのであって、助けるのは余計なことだ、と言うとすれば、それは不正である。
 レビ記25章にある「ヨベルの年」を思い起こそう。50年ごとにヨベルの年が巡って来る。そうすると、負債を取り立てることは出来ない。奴隷は解放されねばならない。この規定は不幸にして守られた例が一度もない。だから空想に過ぎない、と言う人がいるが、我々は神の御こころがここに示され、人間の我欲が神の民と呼ばれる者の間でさえ如何にすさまじいかが示される、と受け取っている。
 神の御こころはこうである。人間は平等に造られた。しかし、人間の罪のために不平等が生じ、その格差はどんどん大きくなる。それ故、強制的に、借財を負う者、自分の身を売って奴隷になった者を解放するようにしたもうた。これは実行されなかったとはいえ、この規定は取り消されない。だから、信仰をもって神の言葉を聞き取る者には、この規定が生きており、自分自身に約束されている来たるべき日の解放がここで捉えられることを知るのである。
 「正義」という言葉についてもう一つ大事なことを見なければならない。正義と言って良いのだが、聖書ではしばしば「義」と訳される。ローマ書117節で「神の義はその福音の中に啓示される」と言われるその「義」である。正義をもって裁き、と言われることを正しく受け止めるためには、福音において顕される義を、信仰によって把握しなければならない。
 

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