2006.08.27.
イザヤ書講解説教 第45回
――11:1-2によって――
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて、実を結び、その上に主の霊がとどまる」。
イザヤ書の中で最もよく引用される聖句の一つである。これが我々の間でよく引用されるのは、旧約の中にあって新約を語っているからであると思う。
「聖書は私について証しするものである」とイエス・キリストはヨハネ伝5章39節で言われた。そこで言っておられる「聖書」は、キリスト教会で言う旧約聖書である。旧約聖書がキリストなき世界、キリストがまだ来ておられなかった世界、あるいは、せいぜいキリストを待っていた世界を描くものだと理解する人がいる。だが、キリスト御自身は、「そこで証しされているのは私なのだ」と言われる。この言葉をそのままに受け入れるのがキリスト者である。
キリストを語っている旧約聖書の中で、最も明瞭に、かつ直接にキリストを語るのは、今日学ぼうとしているこの箇所ではないかと思う。他の場合と比較して見ると、例えば、イザヤ書53章は、キリストの苦難と復活を証言している。これはキリスト理解について最も重要な箇所だと我々は理解する。けれども、「主の僕」がどういう家系の中で、どこで生まれるお方であるかは、そこには書かれていない。ここを読んでいたエチオピヤの高官は、ピリポに説明されるまでは、これが誰のことを書いたものか、全然読み取れなかった。
ユダヤ教の中には、キリスト、メシヤの来臨の期待が、信仰の一つの要素として脈々と伝えられて、何かにつけて「来たるべきお方」について語られた。この呼び方は定着したのであるが、それを直接に、解釈なしでも分かるように教えているところは他にない。そのことがあるので、イエスがキリストであると信じた人は、キリスト信仰を告白するために、しばしば「ダビデの子よ」と呼び掛けたのである。マルコの福音書に書かれているエリコの町のバルテマイという盲人は「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と呼び掛けた。
バルテマイが「ダビデの子」と言ったのは、ユダヤ人の間で、それはキリストのことだという理解があったからである。学者たちはこの解釈を教えていた。ただし、主イエスに向かって「ダビデの子よ」と呼び掛ける人は殆どいなかった。これは信仰の呼び掛けであって、信仰なしでは言えない。キリストがダビデの子であるというのは、ユダヤ人の間では共通の知識であった。
「ダビデの子」という呼び方のもとになったのは、IIサムエル7章に記される預言である。これは預言者ナタンを通じてダビデに与えられた約束であって、ダビデの子が、ダビデの後を継ぎ、その位は長く固くされる、と約束された。この預言は、ダビデの多くの子らの中から、長子でもないソロモンが王として立てられ、ダビデ王朝が栄え、国が栄える、という意味に取る人もいる。その解釈は必ずしも間違いでないが、ソロモンの代に、王国は繁栄したけれども、繁栄自体の中に矛盾が蓄積されて行き、それが王国の分裂という形で間もなく露わになる。したがって、ダビデの子の王国が、長く・固く建てられると約束したもうたのは、ソロモンの繁栄のことでない、と人々は悟らずにおられない。人々は約束されたダビデの子は、もっと確かな、もっと聡明な王者であり、とこしえの主権者でなければならないと捉え直すのである。
なお、預言者ナタンを通じてこの預言があったのは、その前にダビデがナタンを通じて神の御旨を問い、神の家を建てたいが、よろしいでしょうか、と尋ねたことと関連している。神はダビデの申し出を却下された。それは軍人として人の血を流した者は、神の家を建ててはならないという意味がある。平和という意味の名を持つソロモンにこそ神の家を造営する許可が与えられる。が、もう一つ、ダビデが神の家を建てるのでなく、神がダビデのために家を建てたもうということこそ大事だと示されている。ここれは重要なことであるが、今日はこれ以上には立ち入らないで、ダビデの子の預言ということをシッカリ捉えておく。
さて、「エッサイの株から芽が出る」という言い方は、「ダビデの子」という意味の詩的な表現である。エッサイというのは、ダビデの父の名である。ただし、ダビデはエッサイの息子のうちの末の子、8人目の子であった。預言者サムエルがエッサイの家を訪ねて、息子たちに接見した時、ダビデはそこに呼ばれもしなかったほど無視されている。通常、長男が父の後を継ぐならわしである。よほどの事がない限り、8人目の子にエッサイの子として立てられる機会は廻ってこない。すなわち、ここには神の特別な手が働いていた。
「エッサイの株から出る芽」という言い方自体、今述べた神の御手という含みを思い起こさせるものであるが、神の御手の働きについて、引き続いて考えて行かねばならない。その次に預言者は「株から出る芽」という表現を用いる。根元から大木が上に伸びている情景を考えてはいけない。大木は切り倒されてしまった。しかし、切り株から新しい芽が出ている。その次にある「根からの若枝」も同様の意味を繰り返し言い表わすものである。
ダビデ王国はすでに切り倒された状態であると示される。預言者イザヤはユダの王アハズの生きている時代にこの預言を語ったのである。まだ王朝は健在であった。イザヤの預言は、これまでの所で聞いたように、裁きが行なわれ、裁きの後の回復の約束に入ったところである。先ず裁きが行なわれ、裁きは大木を切り倒すように実行される。ダビデ王国の発展を夢見る余地は全くない。
しかし、或る意味で継続性はある。それを血統の繋がりというふうに受け取って良いが、そこにある血統という意味を考え過ぎては、主の民の伝えて行くべき信仰が、ユダヤの民族主義に変わってしまう危険がある。キリストがダビデの子であり、約束にしたがって生まれたもうたことは確かであるが、ダビデとの血の繋がりのない者は関係がない、と考えてはならない。
キリストは「まことの人」となられた「真の神」である。これがキリスト教会の確認である。それ故に全人類の救い主である。そして、まことの人であること、すなわち人間としての本性、これは処女マリヤから採りたもうたのである。要するに、我々と同じ人間の本性を持ちたもうということが、第一に重要なのである。
ただし、ダビデの子であることには、もう一つの象徴的意味がある。それは「王」であること。この11章で、10節までに記されることは、全て「王」としてのダビデの子について言われたものである。キリストが他に例のない誠実な人間であったことは確かであるが、人柄のことに深入りすると、キリストの贖いが見えなくなる恐れがある。負っておられる職務としては、王、祭司、預言者であると告白されて来たが、ここでは、王であることだけを取り上げるに留めても許されると思う。
キリストが王、主権者であること、これは簡略に言って「主」というのと同じであるが、信仰の認識の順序として、先ず捉えられねばならない。
言うまでもないが、ダビデが王であったように、ダビデの子も王となる、と単純に、地上における連続として考えてはならない。キリストの姿を描く時、王であることを示すために王冠を書き加えることが、昔から慣例になっているが、こういう描き方にはよほど注意しないと、大事なことが見落とされる。かつて彼がそういう姿を取りたもうたことは一度もない。彼は肉体を纏っておられる日の間、終始「しもべ」の形であられた。彼の栄光の姿は、王冠のような細工物によらなくても、その日には見える。いや、その日が来なくても信仰の目には見える。だから、王冠を被っておられるイメージを思い描くことは、全く意味がない。
つまり、王の徴しがなくても、語られた御言葉を聞くだけで良いのである。それ以上のことを考えたならばマイナスになる。
では、御言葉は何と言うか。「その上に主の霊がとどまる」。――これは王としての務めが、霊によって遂行されることを言う。多くの王は、王であることを広大な敷地、豪華な王宮、あるいは強大な軍隊、その他、目に見える飾りによって示そうとする。しかし、まことの王には飾りという象徴は要らない。王に相応しい実質、王としての務めが果たされておれば良い。それは何か。
「これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と、主を恐れる霊である」。まことの王は「霊」によって王としての実質を持ち、それを発揮したもう。その霊については、霊の働きから説明される。
ここに6つの徳、すなわち、知恵、悟り、深慮、才能、主を知ること、主を恐れることが数えられていると見る人があるが、複雑に考えるだけ無駄である。これらは全て「知恵」という一言で纏めて良い。では、知恵とは何か。昔の知者や哲学者に学ぶということではない。聖書によれば、知恵とは「主を恐れること」である。それをシッカリ掴んで置けば、イザヤの預言はスーッと分かる。
箴言9章10節に、「主を恐れることは知恵のもとである」とあり、同じく箴言15章33節に、「主を恐れることは知恵の教訓である」と書かれている。また、箴言1章7節に、「主を恐れることは知識の初めである」とあるのも、意味としては殆ど同じであることは、説明がなくても分かる。
王ということから、常識的に先ず連想されるのは、力、権力、権力の頂点、ということである。この一般常識を批判しても実りはない。この世の王国では力による支配が必要とされる、というようなことを長々と論じても、この預言の理解には殆ど役立たない。単純に、「力」でなくて「知恵」――勿論この世の知者の知恵でなく、神の知恵のことであるが――そこに目を向ける。
比喩は必要でないと思うが、この世の王は力、権力をいっぱい持っている。他の人には力を与えず、自分が独占しようとする。それと真反対に、まことの王は知恵をいっぱい持っているが、人から取り上げて独占することはなく、どんどん与える、だから、彼を通して「主を知る知識が地に満ちる」のである。その知識は救いと平和に至らせる知識である。
彼にある知恵と知識の霊について、もう少し論じなければならない。力ではなく知恵なのだ、と説明され、なるほどと納得する人が多いであろうが、この世界においても力より知恵を尊ぶ弁えがあって、それはそれなりに大事なことである。だが、それは今の世を治めるのに必要だが、永遠の救いに関わる問題ではない。
言葉で説明すると長くなるから、今日は説明でなく、「主を恐れる」ことが知恵、知恵の元、と呼ばれていることに思いを向けたい。ここで言う「恐れ」が日常生活の中で使われる恐れと違うことは容易に分かると思う。だから、人々は違いを出そうと試み、恐れ敬うとか、あるいは、敬虔と言った方が良いのではないか、と考えたりもする。それでも、意味がスッキリするわけではない。
主を恐れることと、主との交わりが結び付いていることを忘れてならない。しかも、交わりを力説していると、恐れの方が曖昧になるというジレンマがある。言葉を並べるだけの説明ではうまく行かない。
主を恐れるとは、「つねに主から受ける」という一方的な関係、絶対者との関係、謂わば「段差」の関係を言うものである。受けた恵みに対し、我々の側から応答があるが、これは対等の人付き合いの中で行われる「お返し」ではない。神に恵みにお返しして負い目のない状態に戻しておくという考えは、まさに神を恐れないことである。お返しが成り立たない関係にあることを認める、それが「神を恐れる」ことである。
こういう一方的な関係が常に維持されてこそ、丁度、落差があって水がこちらに流れて来るように、源泉である神の知恵は我々に入って来る。それが、「主を恐れることが知恵の初めだ」と言われる理由である。3節の初めに「彼は主を恐れることを楽しみとする」とあるが、恐れと楽しみは人々の常識では相反する。ここでは、そういう常識でない恐れが語られている。
王としてのメシヤは英雄ではない。英雄には英雄の知恵があるが、それは主を知る知識を世界に及ぼすことを行なわない。如何に支配するかを知る知恵に過ぎない。この真の王によって正しい裁判がなされ、正義と公平が実現し、平和が来ることは次回に学ぶことにして、今はキリストの知恵を学ぶことにしよう。
聖書全体としては知恵が強調されるが、新約聖書だけに目を注ぐ人は必ずしもそうではない。キリストの知恵を学ぶことが我々の間でおろそかになっているかも知れない。しかし、Iコリント1:24には「神の知恵たるキリスト」と言われる。この知恵が分からないと、キリストが分からないことになる。幼な子イエスの記事の終わりにルカは「イエスはますます知恵が加わり……」と言う。このキリストに与って生きる者は、知恵においてもますます豊かになるのである。