2006.07.30.


イザヤ書講解説教 第44


――10:24-34によって――

 

 アッスリヤによる神の懲らしめの預言が7章以来続いている。それも大詰めに近づいたと言うべきであろうか。というのは、11章から新しい段階、メシヤの来臨の預言になることを我々は知っているからである。
 ただし、禍いの預言が終わって、新しい区切りに入って、メシヤの降誕の喜びになるというふうに取ってはならない。11章の預言も7章以来の一連のものである。前回のところで、20節に「その日に残りの者は帰って来る」との預言を聞いた。これまでにも何度も聞いた御言葉だが、それが現実的に語られる。主がその民を撃ちたもうその日、残りの者は帰って来るという救いの業が始まる。その続きに11章がある。
 11章の10節にある「その日」も、11節にある「その日」も、121節にある「その日」も、1027節にあった「その日」も、1020節にあった「その日」、裁きの真最中の「その日」を受けたものである。確かに、アッスリヤの暴虐が絶頂に達したその日にメシヤが生まれると言っているのではない。しかし、その日に残りの者が帰る。その繋がりで起こるのがメシヤの出来事なのだ。
 そういうわけで、今日先ず聞く24節では、「我が民よ、アッスリヤ人が、エジプト人がしたように、鞭をもってあなたを打ち、杖を上げてあなたを責めても、彼らを恐れてはならない。ただ、しばらくして我が憤りは止み、我が怒りは彼らを滅ぼすからである」と言われるのである。怒りの時は間もなく終わる。けれども、アッスリヤの禍いが済んで、遠のいたと受け取ってはならない。今、大事なのは、その禍いの最中であっても恐れないこと、救いを近くに見ることである。
 アッスリヤによる禍いは、105節で聞いたように、「神の怒りの杖」として捉えなければならない。この怒りの杖によって北王国イスラエルは崩壊するということは7章以来聞いている。南王国ユダはどうか。辛うじて滅亡を免れるが、かつて味わったことのない苦しみに遭う。
 1012節では、主の怒りの杖が役割を果たした後、アッスリヤが刑罰を受けることが語られた。同じ意味のことが25節で言われる。主の怒りは恐れなければならないが、怒りの杖として用いられる道具を恐れる必要はない。
 さて、ユダとイスラエルが神を怒らせた原因は何か。これをシッカリ捉えて置こう。――イザヤはおもにユダとエルサレムについて語る使命を持っていた。であるから、ユダ国の罪が主として論じられたと見てよいであろう。それでも、イスラエル国の罪が関連していて、見落とすことは出来ない。
 8章の初めのところにあったように、アッスリヤの齎らす禍いは、イスラエルの首都サマリヤの略奪に始まり、それから南王国に及ぶ。この略奪の預言が、その頃、イザヤにとって全存在を懸けて語るべきメッセージであった。「略奪は速やかである」という意味の「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」という言葉を徹底させねばならない。イザヤはこの名をその子の一人につけた。――この子の兄が「シャル・ヤシュブ」、「残りの者が帰って来る」という名を持っていたことを我々は記憶に刻んでいる。
 北王国に対する神の怒りは、国内の全ての人と事情に向けて発せられた。914節に「主はイスラエルから頭と尾を一日のうちに断ち切られる」とあった。この一言で十分である。国内は上から下まで全部堕落していた。だから、悪と悪が激突し、互いに食い合って滅びて行く。920節では「おのおのその隣り人の肉を食う」と言われる。アッスリヤの侵入は留めを刺すものであったが、イスラエル自体が内部崩壊をして互いに滅ぼし合うのを、神は見放して、なすままにしておられた。
 北から南へ神の怒りが上って来るというか、降りて来るというか、とにかく速やかに迫って来る様子が、27節後半以下に生々しく描き出される。これはアッスリヤ軍の速やかな進撃を示している。アッというまにエルサレムに向かう山の上に来てしまった。主が枝を切り下ろされる刃はすぐそこに来ている。
 北王国に対する裁きの預言よりは、ユダに対する預言はもっと整っていた。7章から始まって、見て来た通りだが、ユダの王アハズの時代に、イスラエル王ペカは、スリヤ王レヂンに強いられたらしいが、連合してユダに攻め入った。その時、エルサレムでは、王を初めとして下々まで、国をあげて恐れおののいた。
 この時のイザヤの預言は、74節の「気を付けて静かにし、恐れてはならない」というものであった。恐れる者に対し、神が慈しみ深くあられるという事実があることを我々は知っている。しかし、だから神の恵みに与るために恐れておれ、弱々しくあれ、ということにはならない。神を信ずる者は恐れてはならない。恐れとは不信仰である。恐れという言葉を好い加減に使ってはならない。
 そこで、預言者は続けてさらに分かり易く、「静かにせよ」と言う。つまり、「神に信頼して、静かにしておれ。何もするな」と言うのである。ところが、アハズ王と宮廷は不安を募らせて、懸命に防衛対策を講じた。その対策は一見賢そうに見えた。すなわち、イスラエルとスリヤの向こう側にあるもっと強大な国アッスリヤを味方に引き込めば、安全の保障が得られるという考えであった。
 しかし、助けを求めてアッスリヤと結んだ繋がりが、禍いの端緒になる。この繋がりを通して、ユダの国に破滅を引き入れることになる。――これと似たようなことは、ユダ国の外交・防衛の政策として繰り返されるし、同じような選択をする国は他にもあって、それは愚かであると判断出来る人は少なくない。だが、我々は今、政治論議をするのではない。神がどう見ておられるか。したがって、神を信ずる者は如何に判断すべきかを見たい。
 79節で、「もし、あなたが信じないならば、立つことは出来ない」との御言葉を聞いた。これはイザヤから直接にはアハズ王に向けられた言葉であるが、当然、全ての信仰者にも通用する。
 信仰者とは、単に神がおられると信じているのでなく、自分が神に属すると信じ、そのように生きる者である。信じているからこそ生きて立つ。信じなければ存立することも出来ない。これが信仰者である。
 神が真実であられ、慈愛に富んでおられると考えている人は必ずしも少なくない。しかし、そう考えることは考えとして納得できるとしても、確信にはなっていない。我々が神を信じているとは、自分が神のものであり、神のもとにあり、聖書特有の言い方によれば、神と「契約」を結んでいることである。信じて恐れないとはそのことである。アハズが神を怒らせたのは、この確かさがなかったからである。
 北王国と比べれば、南王国は政治的、道徳的、そして宗教的にも整っていた。しかし、その宗教は神と契約を結んだ民の在り方そのものではなかった。儀式が整っていただけである。神を信じる、と言う一方で恐れ戦き、さまざまの術策を講じ、国と王室の安全を守ろうとした。神はその不信仰に対して怒りたもう。アッスリヤの侵入はその怒りの現われである。したがって、立ち返りとは真の信頼への立ち返りである。
 さて、「シオンに住む我が民よ」と主は言われる。シオンとはエルサレムのシオンの丘、神の宮の建てられている場所である。ただし、シオンには神がおられ、シオン以外の地には神はおられないという意味ではない。シオンとは象徴であって、目に見えないが、見えるものを越えていて、御自身に仕える道の一切を定めておられるお方の実在の確かさを示すのである。
 「シオンに住む」とは、その神に従って生きようとしている、という意味である。分かり易く言うならば、直ぐ前のところで、「残りの者が帰って来る」と言われた、その帰った者の在り方なのだ。
 だから、「シオンに住む我が民よ」という言葉を聞く時、これを分かり易く捉えたい人は、シオンに帰って来ている残りの民の姿を思い浮かべることが許される。彼らは苦難の日にシオンに集まっている。神に立ち返って礼拝を捧げるためである。我々は今、礼拝の中で「シオンに住む民」を身近に捉えている。
 ここで思い起こすように促されるのは、過去の記憶2点である。一つはエジプト人が鞭をもって主の民を撃っていた日のことである。彼らはエジプト人の奴隷になっていた。モーセの指導のもとに民らは奴隷状態から脱出した。しかし、エジプトは大軍を繰り出し、紅海の手前でイスラエルを取り押さえて、エジプトに連れ戻そうとした。その時、モーセの杖が海に差し伸べられると、海の中に道路が開け、イスラエルはその道を渡りきった。だが、その後を追ったエジプトの騎兵軍団は、海の中の道を通りきらない先に海に沈む結末となった。
 もう一つの出来事はギデオンの指導のもとで、12万人のミデアンの略奪軍が僅か300人のイスラエルに破られ、ミデアンの指揮官2人は殺された事件である。士師記7章に書かれている有名な出来事である。ここで神が思い起こさせようとしておられるのは、ミデアンの手に一時イスラエルを渡されたのは主なる神であるが、イスラエルが神に立ち返って御名を呼んだ時には、神が慈しみを回復したもうた事実である。
 アッスリヤによる禍いも同様と見て良いであろう。民らが立ち返ったなら、恵みが回復する。――ところで、このことでは疑問を抱く人がいるかも知れない。同じことが際限なく繰り返されて良いのか。主がそれを宜しとしておられるのか。
 旧約の士師記を読むと、ヨシュアの死んだ後、強力な指導者はおらず、教育も行われず、イスラエルは神を離れてバアル礼拝に陥り、神との契約を忘れた民となった。そのため、神はイスラエルを見捨てて、バアルを神とする民族の支配に渡したもう。その時、イスラエル人は神との契約を破ったことに気付き、悔い改め、まことの神を呼び求める。そのつど神は「裁き人」、士師を起こして御自身の民を救いたもうた。しかし、裁き人が死ぬと民の状態は以前の状態に戻り、神の言葉を忘れ、他国の奴隷として苦しむ。その繰り返しで良かったのか。
 イスラエルの人々は漸く知恵づいて、自分たちも他国のように王を立てて秩序と権力の維持を図らなければならないと考えるようになる。これは、この世の知恵では国際水準になったかも知れぬが、イスラエルは神が治めたもう民であるから、この国に王はいらないという大事な点を忘れていた。
 とにかく、人々は預言者サムエルに願って、王を立ててもらう。士師の時代よりは大分良くなったと見られなくはない。しかし、秩序と繁栄の時代が少し長く続いただけで、王制が行き詰まり、王国分裂、北王国の滅亡、南王国のバビロン捕囚、王国の永久的消滅、という経過を辿る。それでも、この民の歴史では、神に背いてはまた立ち返えるという反復が続いた。
 こいう繰り返しは我々の生涯の中でも、教会の歴史においても繰り返されているのではないか。或る意味ではそうである。だから、主イエスが教えられたように、我々は繰り返し悔い改めをしなければならないし、繰り返し繰り返し人の罪を赦さなければならない。
 しかし、或る意味ではそうでないということを我々は知っている。罪を繰り返すのが当たり前、と開き直ってはならない。罪に落ちてはまた引き上げられることの繰り返しが止む時、終わりの時が来るではないか。イエス・キリストは「神の国は近づいた。もうそこに来ている」と言われ、神の国を見るためには、人は新しく生まれるのだと言われた。今日の学びの中でこれに全く触れない訳には行かない。
 イザヤが語った「神からの離反」と「立ち返り」、それがその後も繰り返されていることは、イスラエルの歴史と教会の歴史に見られる通りである。しかし、ただ繰り返されるだけでない面が開けたということも今日は聞き取っておかねばならない。10章が11章に繋がっていることを、今日はじめに聞いた。残りの者は帰って来る。
 「エッサイの株から一つの芽が出る」という11章の預言は、新しいものが古くなって、取り替えられ、同じことが繰り返されるという意味ではない。古びないものが始まるというのである。119節で「聖なる山のどこにおいても、損なうことなく、破ることがない」と言われるように、メシヤにおいて窮極の平和の時が来るのである。それは、主を知る知識、福音が地に満ちる時になるからである。
 キリストが一たび来られ、一たび十字架と復活によって御業を全うされることにより、もはや虚しく繰り返されるのでない生まれ変わりが来たと告知されたのである。

 

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