2006.06.25.


イザヤ書講解説教 第43


――10:20-23によって――

 

 「その日」という言葉が、今日我々に与えられている言葉のうちのキーワードになっている。「その日」という言葉について説明はいらない。前に書かれていたところを読めば意味は十分分かる。すなわち、17節には「イスラエルの光りは火となり、その聖者は炎となり、その茨とおどろとを一日のうちに焼き滅ぼす」と書かれていた。そのことの実行される日である。すなわち、裁きの日である。
 ここでは裁きの実施される日であるが、「その日」という言葉が聖書に出て来る場合、つねにそうである訳ではない。121節、「その日あなたは言う、『主よ、私はあなたに感謝します。あなたは先に私に向かって怒られたが、その怒りは止んで、私を慰められたからです』」。これは主から慰めの来る日である。
 今は神の怒りと裁きのことが語られているのであるが、神の裁きについては、これまたズッと学んで来た。神はむやみに怒って、気難しく裁きたもうのではない。神は契約を守らない民の違反について怒っておられる。その裁きは当然であるが、当たり前のこととして理解できる、と言って済ませるようなものではない。
 すでに何度も繰り返し聞かなければならなかったように、「それでも、主の怒りは止まず、なおも、その御手を伸ばされる」と預言者は言う。
 神の裁きのすさまじさを、詳しく描くことは省略して良いであろう。今日はそこから救い出されることを教えられれば良い。
 17節に触れていたが、「イスラエルの光り」すなわち主は、光りというよりは「火」となり、「炎」となりたまい、焼き尽くしたもう。それも「茨とおどろ」のような、役に立たない、しかも有害なものの典型の植物だけでなく、18節にあるように、「林と、土肥えた田畑の栄えも、魂も、体も、二つながら滅ぼす」と言われる、そのような破滅の日である。役に立つか立たないかによって分類されたり、手加減されたりするのではない。
 収穫の日が来れば、農夫は良い実を集め、悪い実は処分する。しかし、神の収穫の日には、そのような選り分けが行なわれるのではない。神の前に、価値ある物と、ない物とが区別されるのでなく、ことごとくが滅ぼされる。なぜなら、神の聖なる御前には全てが汚れているからである。
 人間の生活の節目として「収穫の日」というものがあることを人々は知っているであろう。1年に1回という場合が多いようであるが、何十年に1度という収穫もある。それなりの意味を持つ日であるが、神の収穫の日をこれと同じようなものと考えてはならない。主イエスも収穫を譬えに用いて、人々に御言葉を説きたもうたことはあるが、この譬えは、この年の失敗の経験を来る年に生かして、今度は成功するというようなものではない。単純に言えば、人生は一度しかないからである。したがって、神の下したもう裁きは、永遠の一回なのである。
 「その日」という言葉は、「私がどこそこへ行った日」とか、「誰それと会った日」とかいうふうに、どの日にも当てはめて使える。しかし、今日、我々が聞いている「その日」は、永遠の一日である。やりなおしの利かない日、「終末」という意味を帯びた日、「主の日」である。212節に、「これは、万軍の主に一日があって、全て誇る者と高ぶる者、全て己れを高くする者と、得意な者とに臨むからである」と聞いた通りである。
 すでに我々はイザヤの預言の神の裁きを告げる下りをかなり長く学んで来ている。イザヤから聞いたその裁きは、具体的に言うならば、北王国イスラエルの混乱に始まって、イスラエルがシリヤと連合してユダに攻め込むことに現れた。しかし、これはまだ本番ではない。主はイザヤを通して、717節で、アハズに言われた。「エフライムがユダから分かれた時からこの方、臨んだことのないような日を、あなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。その預言がさらに詳しく語られて、ここに至った。5節では「ああ、アッスリヤ王はわが怒りの杖、わが怒りの鞭だ」と言っておられる。その予告が実行される日、それがここで言う「その日」なのである。
 「その日」という言葉は、イザヤ書でこれまでにも何度か聞いた。今、21112節でも聞いた。17節にも20節にも、37節にもある。それは、我々が今日学んでいる預言とは別の文脈にあると思われるが、言葉の意味としては殆ど同じだと言って良い。
 今、聞いている預言と同じ文脈について言えば、このあと1110節、11節、121節、4節に「主の日」という言葉がある。これらが皆、重要な意味を持っていることはすでにお分かりのことと思う。
 さて、今日学ぶ1020節、21節には「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者に頼らず、真心をもってイスラエルの聖者、主に頼り、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る」と記される。その日は前からの続きとしては裁きの日なのであるが、そこでは回復の日、救いの日である。
 言葉が重複して語られているが、要点は「残りの者が帰って来る」である。どういう状況下で彼らが帰って来るか。それは我々の能力を越えていて、十分捉えきれないが、彼らは打ちのめされて、ボロボロになって、辛うじて帰って来る場面を考えれば良いではないか、と思われるかも知れない。しかし、むしろ彼らの回復が語られているのではないか。
 とにかく、「残りの者が帰って来る」。――これこそ、この時のイザヤの活動の中心メッセージであったことを思い起こそう。
 7章の初めからである。アハズ王の時、エフライムとスリヤが同盟してユダを攻撃しようとしていることで、ユダの国内は動揺していた。その時、神の言葉が預言者イザヤに示された。「今、あなたとあなたの子シャル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端で、アハズに会い、彼に言いなさい」………
 この時、イザヤがアハズに伝えた言葉に今は立ち入らないで、先ず、彼がシャル・ヤシュブという息子と共に行ったことをよく見ておこう。
 我々ヘブル語に馴染みのない者には、この名前を聞いただけではピンと来ないが、シャル・ヤシュブとは「残りの者が帰って来る」という意味の言葉なのだ。我々は、イザヤ書7章を読んで、イザヤが子供を連れて王に会いに行く場面を考える。その場合、我々の想像力は貧困であって、せいぜい、一人の父親が息子を連れて出掛ける場面しか考えないのではないか。――つまり、この子が、謂わば音を発する機械のように、「シャルヤ・シュブ」、「シャル・ヤシュブ」、「残りの者が帰って来る」、「残りの者が帰って来る」と言い続けていた。
 すでに、この子は生まれて、その名を持っていた。神が「この子を連れてアハズに会いに行け」と命じたもうたのは、アハズもこの子の名を知っていたからであると見るほかない。アハズはイザヤが会いに来るのを見たなら、その子の名を思い起こしたと思われる。
 ところが、アハズに会った時のイザヤのメッセージは「残りの者は帰って来る」というのではなくて、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」ではなかったか。その疑問はもっともである。この時、イザヤは「残りの者が帰って来る」と、言葉としてはひとことも言わなかった。
 だが、神はなぜこの子を連れて行くことを命じたもうたのか。神のご意図を聞き取ることは大事ではないか。確かに、神はこの場で「残りの者が帰って来る」と告げておられるのである。人々は聞いていなかったかも知れないが、シャル・ヤシュブはそこにいた。
 この子に関して、イザヤはかつて言った、「見よ、私と、主が私に賜わった子たちとは、シオンの山に在ます万軍の主から与えられたイスラエルの徴しであり、前触れである」。818節である。この子以外にも「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」とか、「インマヌエル」とか、恐らく全ての子の名前が預言者が全存在を賭けて語っていたメッセージそのものであったと思われる。だが、この時イザヤがこの子を連れてアハズ王に会いに行ったのは、この子の徴しを携えて行くことであった。
 かつて、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会った時から、「残りの者が帰って来る」と告げられた。それが今やハッキリと告げられる。ただし、それは、アッスリヤ王が襲い掛かった時なのである。
 「残りの者が帰って来る」とは以前から語られていた預言である。これは、これだけでも意味を持つ。すなわち、イスラエルの全てが帰って来るのでなく、残りの者しか帰って来ない。つまり、22節が言う通りである。これは、選ばれた者だけが救いに与るというのとおなじである。選びの原理は救いの原理の不可欠な一点である。しかし、今言われるのは、原理ではなく、現実、事実はどうなのかである。残りの者が帰るのは、その日に起こる。
 救われる者の数が満ちるまで、救いの御業は弛みなく続けられ、少しずつ救いに加えられて行く、ということもあろう。しかし、今言われているのは「その日」にこれが起こるということではないかと思われる。つまり、その日に救いが一斉に起こると預言者は言っている。その日は救いの日なのだ。
 アッスリヤによる禍いは、かつて経験したこともない厳しいものである、という意味の言葉も聞いた。だから、その試練の中で人々はドンドン失われて行くが、残りの者は結局生き残る、ということなのかも知れない。「残りの者」という言い方には、そう理解できる面はある。しかし、「帰って来る」と言われるではないか。回復なのだ
 「その日、イスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分を撃った者に頼らず、……」。多くのイスラエルは自分を撃つ者、それは力強き者であるから、救いとか安全に関しては強き者に頼らなければならない、と考える。しかし、残りの者は誰に頼るべきかを知っている。頼るべきでない者に頼ってはならない。「頼る者は主に頼れ」。
 しかも、ここでは「頼る」という言葉だけでなく「帰って来る」という言葉が当てはめられる。すなわち、この言葉は一面では、本来いるべき所、つまり神の国に帰って来るという意味を含む。そして、もう一面では悔い改めを含んだ意味の言葉である。
 どうして、本来の所に帰ることが悔い改めなのか。まして、試練の中で生き残ることが悔い改めなのか。
 その疑問に答えるためには、イエス・キリストが神の国への招き入れを、「時は来た。神の国は近づいた。悔い改めよ。福音を信ぜよ」との御言葉で語られたことを思い起こせば良いであろう。
 キリストのことがいきなり出て来て、納得はするとしても唐突な感じを持つ人はあるかも知れない。しかし、預言者イザヤがここでアッスリヤの禍いについて語っているのは、究極的にはキリスト預言である、とキリスト教会は読み取って来たではないか。それは、11章に入るなら直ちに明白になる。
 「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と、主を恐れる霊である」。
 イエス・キリストを救い主として受け入れないままで旧約聖書を読んでいるユダヤ人も、この11章に示されるのが、来たるべきお方、メシヤであると認めないわけには行かない。
 しかも、もう一つ我々の注目すべきことがある。21節の「残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る」は何を指すか。大能の神とは、要するに神のことではないか。
 そうも言える。しかし、すでにイザヤ書9章ではメシヤ預言を聞いた。「一人のみどりごが我々のために生まれた。一人の男の子が我々に与えられた」。その名であるが「霊妙な議士、大能の神、とこしえの父、平和の君と唱えられる」。ここでは、「大能の神」はメシヤの呼び名の一つに入れられている。
 そのことだけで、21節がキリストに立ち返ることを言うと取るのは、合理性から見れば無理がある。しかし、我々はすでにイエス・キリストが聖書は私について証しするものだと言われた言葉を受け入れている。キリストへの立ち返りを捉えることによって、イザヤの語ったことが隅々まで見えて来るのである。

 

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