2006.05.28.


イザヤ書講解説教 第42


――10:12-19によって――

 

アモツの子、預言者イザヤを通じて神の語りたもうた言葉は、簡単に言うと、警告である。あるいは、「神から禍いが来るから、悔い改めて立ち返るように」との命令であった。イザヤを通じての警告は、おもにイザヤ自身の住んでいるユダの国の、王と国民に向けて語られたが、それと切り離すことの出来ない関連にある北王国、イスラエルにも向けられた。さらに、北王国イスラエル、またエフライムとも、サマリヤとも呼ばれるものの方が、南王国よりも先に滅亡することも示された。
 イスラエルもユダも、それ自身の不信仰の故に滅びる。しかし、それは「自滅」、それ自身の悪のゆえに滅びる、と言うよりは、神の怒りによる刑罰として滅びる、と説明するのがもっと適切であろう。神の決定なしに、物事自身が立ち上がったり、滅び失せたりすることはない。
 だが、神は御自身の審判の計画と実行を、具体的に示すことを宜しとし、何が神の怒りの「道具」、「器」として用いられるかを、かなり詳しく、イザヤに語らせたもうた。7章以来それを学んで来た。
 人々には思い付かないことであったが、アッスリヤこそが滅ぼすための器とされていた。人々は北王国とスリヤが連合してユダに攻め入ろうとしている現状を見て、慌てふためいている。しかし、それは小さい禍いであるとイザヤは言う。この禍いは何もしないで、ただ神に信頼することによって過ぎ去らせることが出来る。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」。
 もっと恐れなければならない禍いが次に来る。717節の示す通りである。「主はエフライムがユダから分かれた時からこのかた、臨んだことのない日を、あなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。――では、アッスリヤの齎らす禍いということが、預言者のメッセージの中心になるのか。もしそうであるとすれば、イザヤはその時代の最も優れた洞察を持つ政治思想家ではあったと言えるとしても、それだけでしかなかったであろう。現代の我々には殆ど関わりない過去の人物ではないか。ところが、イザヤの声は現在まで届く。
 神が在し、神が全てを計画し、約束し、実現したもう。それゆえ、神を信じ、神に依り頼み、その約束を確信し、神を待つこと、待ち望むこと、ここに我々の生き方、考え方の基礎また出発点がある。そういう教えがイザヤによって与えられたのである。すなわち、79節で我々は「もし、あなた方が信じないなら、立つことは出来ない」と聞いたのである。この言葉を後々の時代にも鳴り轟かせる役目を、イザヤは神から与えられていたのである。
 今聞いた言葉は最も基礎的なものであるから、それ以上のことは知らなくて良いとも言える。が、また、基礎を知る者に、その次のこと、二次的なことをも示しておくのを神は宜しとされたのである。つまり、「何が道具として用いられるか」である。ユダを打つ道具は目の前に迫っているエフライムとスリヤではなく、ズッと向こうで静かにしている、しかしもっと強大なアッスリヤである。
 この状況の中でユダ王朝の採った政策は「親アッスリヤ政策」である。エフライムとスリヤの連合を、その向こうのアッスリヤの力によって牽制しようという。それなりに考えた政策と言えるかも知れない。だが、失敗した政策であるし、何よりも神の約束を信じないで、人間の考えで解決しようとした。アッスリヤを味方に引き寄せることは、アッスリヤによる滅びを引き寄せることにしかならなかった。では、ユダ王朝は誤算によって滅んだのか。そうでないことは既に見た。
 神がこの道具を用いると決定したもう処置について、異議申し立てをしてはならない。ただし、それは神の御手そのものではなく、御手の用いる道具である。道具というものは、用が済めば破棄される。特に、道具に過ぎない者が、これを用いたもう神を軽んじるならば、単に破棄されるだけでなく、罰のために用いられた道具も罰せられる。それを知っておくことは信仰の知恵である。それを今日は教えられる。
 「主がシオンの山とエルサレムとになそうとすることを、悉くなし遂げられた時、主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとを罰せられる」と12節は言う。――その無礼な言葉と高ぶりは、このあとの節で続いて聞く通りである。
 では、主が為そうとすることを定め、アッスリヤを道具として用いることも定め、そしてアッスリヤがシオンとエルサレムに対してなそうとし、そして悉く為したこと、というのは、どの事件を指すのであろうか。――そのことについて我々は良く捉えていない。
 その前の11節には、「私はサマリヤとその偶像に行なったように、エルサレムとその偶像に行なわぬであろうか」という御言葉が記されている。それならば、サマリヤが滅ぼされたように、エルサレムを滅ぼすと取って良いと思うが、エルサレムを滅ぼしたのはバビロンである。バビロンでもアッスリヤでも同列に扱って良い、と言えるかも知れないが、さらに、少し先、24-25節では、「シオンに住む我が民よ、アッスリヤ人が、エジプト人がしたように、鞭をもってあなたを打ち、杖を上げてあなたを責めても、彼らを恐れてはならない。ただ、暫くして、我が憤りは止み、我が怒りは彼らを滅ぼすからである」と言われる。アッスリヤ人が実際にエルサレムに入って来て、暴虐を働くと言っている。ただし、その期間は短い。
 ここのテキストをキチンと読み取ることは難しいが、神の言葉に安んじて依り頼むことをしない反逆が罰せられるということについては、今議論する必要はない。
 主は、なそうとされたことを為し終えるまでは、道具をお用いになる。それを用いることは主の御旨であるから、その御旨に逆らってはならないし、道具に抵抗するのも無駄であり、無意味である。その道具を尊べということではない。が、今、神がそれを用いたもうことは重んじなくてはならない。そして、神はそれを一定期間、器として用いたもうた上で捨てたもう。
 別の言い方をすれば、その器を通して遂行される禍いが済むまでは、耐えて待たなければならない。禍いは必ず過ぎ行く。
 このような事例は、歴史の中で数多く繰り返された。アッスリヤはそのようにして用いられて、やがて滅びた道具の一例である。エレミヤの時代には、バビロンが神のなさる刑罰の鞭として用いられ、それもやがて滅び失せた。その次に、刑罰のためでなく、囚われ人の解放のためであるから問題は違うが、ペルシャ王クロスが道具として用いられることをイザヤ書40章以下が預言している。
 聖書正典には入れられていないが、キリストの来臨の前の時代に書かれたマカベアの書には、ギリシャ軍の侵入、支配、暴虐が書かれている。この暴虐に対してなされた抵抗について、ユダヤ人の間では、それが信仰の道であったと言われるのであるが、我々の間では余りそのようには語られない。聖書正典と認めていないということが一つの理由であろうが、キリスト教会はイエス・キリストの教えに従って、「悪しき者に手向かうな」という姿勢を取ったことが大きい。
 キリスト教会が打ち建てられた次の時代、使徒行伝の時代の次の時代に、殆どのユダヤ人は結束してローマの支配に反抗し、多くの人が虐殺され、ついにユダヤ人は先祖以来の地から追放されることになる。その時、キリスト者になっていたユダヤ人は、この戦いに関与せず、揃ってエルサレムから退去した。ローマ軍は神の器であると見たのであろうか。
 その次の時代、ローマ帝国によるキリスト教迫害が厳しくなる。それでも、教会は権力に対して従順ではなかったとはいえ、武器を持って抵抗することは決してなかった。権力が神に用いられる道具であると見られていた。その頃、教会が誰かの指導のもとに無抵抗、不服従という方針を確認し、周知徹底をはかったという事実はないのであるが、主イエスの教えが身についていたことは確かである。
 今あげて来た実例が一貫していると見る必要はない。預言者たちは、大国の武力行使を神による刑罰であると教えた。その後の時代に起こった権力による暴虐を、キリスト者たちは必ずしも不信仰に対する刑罰とは受け取っていない。確かに、諸々の禍いの中で、キリスト者が悔い改めへと目を開かれることは重要である。とはいえ、迫害に遭って、行く道を変えるということはない。むしろ、「義人が苦難を負わねばならない」という真理をキリスト者は把握したのである。
 それは、彼らが主なるイエス・キリストの十字架を見ていたからである。それを見ることによって、単にナザレのイエスの苦難に満ちた壮絶な生涯を思い巡らし、それに倣うというだけでなく、旧約にも「義人の苦難」が教えられていることを知ったのだ。例えば、ヨブの苦難。イザヤ書53章の苦難の僕。我々がイザヤ書でこれまでに学んだ所では、817節に、「主は今、ヤコブの家に、御顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる」と言われたところに示された「残りの者の苦難」、これらが十字架の光りに照らされて、一挙に見えて来たのである。
 今日与えられたテキストから、かなりハミ出したことも言ったが、余分なことではなかったと思う。しかし、今日のテキストに沿って行くように努力しなければならないのは言うまでもない。神は悪しき権力を用いて、御自身の民に刑罰を与えたもうということを学ぼう。
 一般的に言うならば、権力とか、覇権と呼ばれる事、それは多くの場合、悪という他ないのであるが、それを神が「道具」として用いたもうたことがしばしばある。勿論、権力がつねに神の器であったと言っては正しくない。
 大事な点は、神の言葉を知る我々は、神の言葉が基準であると弁えているから、目で見るところにしたがって、権力を掌握する者を見て、「あれは神の器である」と固定的に評価するようなことをしてはならない。それが神の器と言うに相応しいかどうか、つねに吟味されねばならない。
 13-14節を聞こう、「彼は言う、『わが手の力により、また我が知恵によって、私はこれを為した。私は賢いからである。私はもろもろの民の境を除き、その財宝を奪った。また私は雄牛のように、位に座する者を引き降ろした。我が手は巣を取るように、もろもろの民の富を得た。また私は、人々が捨てられた卵を集めるように、全地を取り集めた。あるいは翼を動かし、あるいは口を開き、あるいはペチャクチャ言う者もなかった』」。
 説明の必要なく、これは権力者の傲慢な言葉である。ただし、彼らが成功者と誉められるだけの賢さを発揮したことは認められなくない。野心家が全部成功者になる訳ではない。それでも、彼らがどうして成功したかを考える必要は殆どない。
 ただ、彼らの言葉のうちにある自己主張、自己顕示、自分の能力についての満足、自分でやったのだという誇り、自分が神の大いなる意志によって用いられたに過ぎないということの無視、あるいは自らについての反省の欠如、そういうものを読み取ることは容易である。
 道具ということに関し、我々も己れを神の用いたもう「道具」として差し出し、道具として相応しくあるように修練しなければならない。だから、かつて道具にされ、その後に破棄された者のことを、余所事とは見ないようにしよう。用いたもうお方よりも、用いられる私に重点が行ってしまうことがないかどうかを考えて良い。
 15節からは総括である。「斧は、それを用いて切る者に向かって、自分を誇ることが出来ようか。これは、あたかも、鞭が自分を上げる者を動かし、杖が木でない者を上げようとするのに等しい」。
 聖書によくある比喩である。人間とその用いる道具の関係を比喩とし、用いられる物が、用いる人を牛耳ろうとすることが如何に愚かであるかを示す。
 「それゆえ、主、万軍の主は、その肥えた勇士の中に病気を送って衰えさせ、その栄光の下に火の燃えるような炎を燃やされる」。
 「主、万軍の主」……、これは主なる神の力を示す表現である。神を無視する者よりは神の方が力強い。ここで取り上げられる実例は、神が健康と病を支配したもうこと。
 健康な兵士を数多く揃え、優れた武器を持たせれば強いに決まっている。しかし、昔でも賢い将軍なら、兵士の健康管理が大事だということを知っていた。十分な食糧がないと兵士は戦えないし、食糧が十分あっても疫病がはびこれば、戦争は成り立たない。武器と食糧は用意すれば整う。しかし、昔の知恵では伝染病の予防は出来なかった。神が一たび疫病を送りたもうたなら、処置なしである。
 「栄光の下に炎を燃やされる」とは、918-19節がマナセとエフライムへの裁きを言うのと似た面はあるがやや違って、アッスリヤの裁きを言うのであるが、主の栄光そのものが、信じる者には慕わしい覆いとなるのに、奢る者には焼き滅ぼす禍いとなるという。17節も同様の意味である。「イスラエルの光りは火となり、その聖者は炎となり、その茨とおどろとを一日のうちに焼き滅ぼす」。
 18節と19節も、言葉としては難しいと言えないが、どう続くかを読み解くのは簡単ではない。外へ攻めて行くアッスリヤの国内が荒廃してしまうというのであろうか。それとも、アッスリヤによるユダの荒廃を言うのであろうか。後者ではないか。というのは、ここでも旨く説明出来ないのであるが、19節に「残りのもの」という言葉があり、その言葉が、20節の「残りの者」に繋がると思われるからである。我々は次の20節でこそ、残りの者ということの輝きを教えられるのである。

 

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