2006.04.30.


イザヤ書講解説教 第41


――10:1-11によって――

 

 「禍いなるかな、不義の判決を下す者、暴虐を書き記す者。彼らは乏しい者の訴えを引き受けず、我が民の内の貧しい者の権利を剥ぎ、寡婦の資産を奪い、孤児の物を掠め取る」。
 イスラエル国に対する裁きが引き続き預言されている。不正な裁判官に対する神の裁きが語られたと見て良いと思うが、3節の終わりには、「どこにあなた方の富を残そうとするのか」と言われるところから考えると、富める者、その富をさらに増し加えるために裁判を利用して貧しい人からさらに絞り取ろうとする者、あるいは裁判を利用できる立場にある者、つまり上流階級、それへの裁きと見て良いと思う。
 預言者のこの言葉は、個々の裁判が曲げられているということとともに、社会の制度が弱い者に苛酷になっている実態を描き出しているように受け取られる。裁判に関わる個々人が悪いのは確かであるが、制度全体、国の構造全体がおかしくなっていることを指摘している。これは今日の問題であるが、それに深入りする必要はない。
 もう一つ重要なのは、政治が悪いから改めよ、という忠告ではなく、裁きの日が来ているという判決申し渡しであるという点である。
 「あなた方は刑罰の日が来たなら、何をしようとするのか。大風が遠くから来る時、何をしようとするのか。あなた方は逃れて行って、誰に助けを求めようとするのか。また、どこにあなた方の富を残そうとするのか。ただ、捕らわれた者の中に屈み、殺された者の中に伏し倒れるのみ」。
 裁きとして語られるのは、アッスリヤの侵入、そしてイスラエル国の滅亡である。5節には、「ああ、アッスリヤは我が怒りの杖、我が憤りの鞭だ」と言われる。さらに我々がここで聞き取って置かねばならないのは、一つの国の姿勢が神によって問われているということではなく、神が国々を見ておられ、国々を用い、その悪を用いて御業を行ないたもうということである。すなわち、アッスリヤは思い通りに侵略したつもりであるが、神の計画のために用いられただけである。預言者はそれを前から見ている。そういうことだから、我々が今いる国の中で何を見、何を語るかだけでなく、遠いところまで見ていなければならない。
 イスラエルという国がどういう歩みをして来たかを見たい。一つの国が立てられるのは、国を立てるだけの利益が期待されるからである。むかし12氏族の連合組織であったイスラエルは、王を頭に据える国造りをせず、それぞれの血族団体である氏族の長が、それぞれの氏族内を取り仕切って、連邦と言うのに近い独自性をそれぞれに持ち、他の氏族との交渉は、氏族代表である長老たちの会議によって行なわれた。
 この緩い結合によっては、イスラエル全体を纏め、安全を確保することがますます難しくなった。すなわち、民族と民族との抗争が激しくなり、強い民族が弱い民族を略奪する時代になった。それで、他民族からの侵略と略奪を受けないだけの強い統一国家を作ろう、そのためには王を立てよう、という願いが盛んになる。こうして、ベニヤミン族の出身、キシの子サウルが初代の王となる。このとき民族全体の精神的指導者であった預言者サムエルは、王を立てることに反対であった。第一の理由は、イスラエルにとっては神こそが王であるから、王は要らない。そして、王を立てたならば、王の権力が神の力を殺ぐことになるだろうという危惧があった。
 もう一つの理由として、王の権力が人民の人権と生活権を侵害することになるであろうという心配があった。この二つの理由は正しかったのであるが、神はサムエルに譲歩を命じたもうた。不思議に思うには及ばない。地上の霊的王国の時期はまだ来ていないから、見える王国と見えない王国を混同しない方が良い。ではあるが、地上の王国においても、出来る限り、神の御心にそった統治が行われねばならないから、王国の中における預言者の働きは王国建設以後いよいよ重大になる。
 地上の王国における預言者の働きについて、聖書の歴史は南王国と北王国の例を並べて掲げる。どちらも主の民イスラエルの立てた国であるが、それを統治する王朝は、南ではダビデの家系であって、その王朝には祝福が約束されていた。一方、北王国は要するにダビデ王朝からの離反を試み、王と名乗ったヤラベアムの立てたものである。そこには王朝への祝福の約束はなかった。王は神から務めを受けたとは思っておらず、世俗的権力国家であろうとする。預言者の警告に対する王の姿勢も南と北では違っているということを我々は知っている。
 さて、王に期待される第一のことは、聖書の歴史のなかでハッキリ読み取られるように、律法を守ることである。政治を上手にすることではない。神は御自身の民に律法を与え、また嗣業の地を与え、彼らが律法を守る限り、永続的平和が与えられると約束される。しかし、この最も重要な点について、王たちも民らも、殆ど熱意を持たなかった。それよりは、イスラエルの全軍を纏めて敵に当たる軍事的統率力が期待された。
 まだ王が立てられていなかった時も、必要に応じて、どこかの誰かが神の命令を受けて「裁き司」となり、特別な賜物を与えられて、軍事的指導者として全イスラエルから兵を集めて戦うようになっていた。しかし、これは制度ではなかった。神の律法以外には規定はなかった。人々は自分の判断にしたがって出処進退を決めていた。士師記に書かれている士師、裁き司は、その呼び名にも示される通り、特別な力を得て裁きを行なう人であって、氏族の長老ではなかった。
 制度として王が立てられるようになると、軍隊の制度が立てられ、また司法制度も作られた。以前は、町の長老が町の門に座っていて、訴えのある人はそこへ行って裁判を開いてもらったのだが、その仕組みが変わった。町の門に長老が座っていて、必要ならいつでも裁判が開かれる仕来たりは続いたようであるが、それまでなかった司法官という役人が生み出されるようになる。民の中の長老が、イスラエルの中での長年の人生の修練を経て培って来た知恵によって民と民との間を裁き、したがって人と人との間の平和を育成するというのとは違った気風が生まれたのではないかと思う。
 王が立てられるようになると、王の名による裁判権が長老の裁判よりも強くなる。角度を変えて言えば、神に由来する裁判という考えは稀薄になって行く。そして、王は常時裁きの座に座って訴え出る者を待つこともしなくなり、家来である官僚を立てて王の身代わりとしての裁判官にした。
 今述べた推移は、聖書にハッキリ書かれている訳ではないが、北王国の裁判制度がこういうものであったと考えれば、預言者がここで言っていることは良く読み取れると思う。南王国と違って、北王国では、王は覇権を取った者である。王に宗教的意味は殆どなかった。人間としての気品もない場合が多い。預言者エリヤが対決したアハブはその典型であろう。王が神によって立てられるべきだとは、本人も国民も考えていない。神がその覇権を一時的に是認しておられただけである。「神の名による正式の王統」という名義を掲げて覇権争いを起こす者が出て、国中が苦しむよりは、覇権のもとで一応収まっている方が良いと看倣したもうたからであった。
 今述べて来た政治と裁判は、南王国でも程度の違いが多少あるだけで、同一傾向を辿って頽落して行った。だから、北王国の悪い例だけを論じることには余り意味がない。また、昔の悪い実例を見ているだけでは意味がない。
 裁判とは、本来神に属することである。神の裁きのみが真実であり、人の裁きは間違う。これが聖書から学ぶ裁判の第一義である。ところが、神を信じておらず、神と言っても通じない人ばかりになった。だから、自分で尤もらしいと思う理屈をつければ、正しい裁判だと思ってしまうようになっている。あるいは、絶対者として信じ崇めるお方がないから、何を規範として考えて良いか分からなくなり、おかしい裁判だと感じても、何も言わない。だから、今日、悪しき裁判が横行し、目に余るようになった。
 しかし、やむを得ないと言って投げ出す訳には行かない。御心が天になる如く、地にもなるようにと祈るなら、そうしなければならない。神の作りたもうた世界の中で、神の御心を無にするような判決や制度が行われてはならないのである。
 神を信じていない人にはそのことも分からないのではないか、と言う人があるかも知れないが、そうではない。神は人間に判断力や理性や良心を与えておられると考えたほうが良い。例えば、自分の考えたことを考え直す能力が、人間には与えられている。人の振りを見て自分の振りを正そうと思い付く知恵が人間には与えられている。そういう知恵が啓発されて、人類がどんどん良くなったとは残念ながら言えない。むしろ、人間はその能力を良く用いることを怠って、そのため、だんだん悪くなっているのではないかとさえ思われるようになった。だから、簡単に論じない方が良いが、造り主の意向に少しでも適う方向に世界が向くように努めなければならない。
 裁判は公平でなければならないと人々は理解している。そのことは誰もが知っている。しかし、知っていることになっているが、なかなか実行されない。それではいけないのだということも分かる。そこで、不正な裁判が出来ないように、法律の条文が詳しくなる。それで不正な裁判が未然に防げるかというと、やはり防げない。法の網を潜るという譬えがあるが、人間の頭で考え出した法は、人間の頭が考え出す策略によって潜り抜けられる。さらに、人間の感覚が麻痺して、悪いことが横行していても、悪いとなかなか思えない場合がしばしばある。
 どうすれば良いのか。――人々はいろいろに考える。裁判官の質を向上させることを考える人もある。それも良いことであろう。裁判制度に関わっている人なら、努力して良いシステムを作らなければならない。我々の住んでいる社会では、裁判と全く無関係だと思っていた人も、社会の一員として、審く務めにつかねばならないことがあるという制度になった。これを社会の進歩と評価することが出来るかどうか、分からない。むしろ、人間の裁判は間違いを犯すのが当然だということに気が付いて、経験を重ねた専門職だから間違うことがない、という自己過信やそういう人に任せっきりにする危険にようやく気づいたというだけのことである。
 我々はこれまで何度も、裁判の公正について聖書から警告を聞いた。聞けば分かる。警告が繰り返されれば身について、忘れなくなると我々は思う。しかし、神はなおも繰り返して、正しい裁きをせよと命じたもう。貧しい人のための裁判をせよ。それで、やっと、この警告が我々自身にとって必要なのだということが分かったのではないだろうか。我々に必要だから、他の人にも必要なのだと分かる。貧しい人が訴えていても、第三者の耳にはなかなか届かないのである。
 イエス・キリストは貧しい寡婦が不義な裁判官のもとに足繁く通って訴える、という譬えを用いて、我々が義なる父に訴えるべきであり、父は直ちに聞いて下さることを悟らせたもうた。この譬えは熱心に祈ることの勧めであるが、窮地にある人の訴えが、繰り返される時には、鈍感な人にも分かるという意味もある。
 一たびそのことが分かったならば、窮地にある人の訴えがよく聞こえるように備えをしていなければならない。今の時代は、貧しい人々の訴えが、特別に注意深く耳をそばたてなくても、聞こえて来る時代であると言われるが、そういう常識が広められただけで、貧しい者がますます貧しくされる苦しみがみんなに分かるようになったのではない。
 ここで注意すべきは、2節には「我が民のうちの貧しい者の権利を剥ぎ」と言われる言葉である。この民を、神は「我が民」と呼びたもう。何故「我が民」なのか。全ては神のものだからか。イスラエルだから神に属するものとして扱わねばならないのか。それは言えなくない。しかし、それだけでは余り意味がないことだ。
 これが意味のあることとして悟らせられるのは、イエス・キリストの一言である。彼が「これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」と言われたのを聞くまでは分からなかったのではないか。主イエスのこの言葉を聞いていなければ、神が「我が民」と言っておられるのが心に突き刺さらなかった。
 さて、5節以下で、イスラエルに対する裁きとして、アッスリヤによる滅亡がハッキリ語られる。3節以下の予告もアッスリヤの侵入のことであるのは既に触れた。「大風が遠くから来る」と言うのも、スリヤの向こうのアッスリヤを暗示したものであることは十分分かるであろう。
 アッスリヤの齎らす禍いについては、7章から8章にかけて聞いた。そこではユダにとっての禍いであるという意味で聞いていた。717節でイザヤはアハズ王に告げている、「主はエフライムがユダから分かれた時からこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。アッスリヤの侵入はイスラエルには滅亡であったが、ユダにとっても甚大な衝撃である。そのことには今は触れないで、神がアッスリヤをご自分の器として用いたもうという点に注意を向けたい。
 神はアッスリヤを「怒りの杖」、「憤りの鞭」として用いたもう。ただし、アッスリヤは自分が神の器として用いられていることについて全く気付こうとしない。7節で神は言われる「しかし、彼はそのようには思わず、その心もそのようには考えず、却ってその心は滅ぼすことを思い、あまたの国々を倒そうとする」。滅ぼすことの快感を貪っているだけだ。
 アッスリヤは覇権主義を達成したつもりなのである。しかし、実際は神の御手のうちで用いられている。アッスリヤ王は得意の絶頂にいる。「わが諸侯はみな王ではないか」。王に匹敵する者らを私は家来にしている、という意味である。つまり、私は王ではなく、もっと上の者、王の王、「皇帝」だと言う。この奢った王はティグラトピレセル三世のようである。忌まわしいほどの思い上がりである。しかし、神がこれを用いたもう。
 「カルノはカルケミシのようではないか」。――これ以下、二つの地名が対になって出て来る。カルノはカルネとも呼ばれたようである。アッスリヤの領地としてはカルケミシとともに北西の端に近い。どちらの町も易々と占領したではないか、と言う。
 「ハマテはアルパデのようではないか」。アルパデもハマテも、スリヤ北西部の町であって、同じように易々と取れたと言う。
 「サマリヤはダマスコのようではないか」。――スリヤの首都ダマスコを簡単に陥落させたように、エフライムの首都サマリヤも簡単に落ちる、と言う。
 その次には、サマリヤとエルサレムが対になって出て来る。どちらも偶像の町であると見ているのは、アッスリヤ王の無知によるのであろうか。それとも、偶像の町という意味では、サマリヤもエルサレムも似たものではないか、と預言者は語るのではないか。
 この時はサマリヤが滅亡して、エルサレムは滅亡を免れた。そのことにはそれなりの意味がある。けれども、次はエルサレムの滅亡だとの警告がここで聞き取れるのである。では、その次に何という地名がくるのか。

 

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