2006.03.26.


イザヤ書講解説教 第40


――9:18-21によって――

 

 イザヤ書では、98節からズーッと、一貫して、特にイスラエル国に対する神の裁きが語られて来た。また、特にイスラエルが悪いと言われることで、ユダとエルサレムが増長したり安心したりすることがないように、ユダの滅亡もまたハッキリと語られた。これはともに極めて厳しい裁きである。さらに、「それでも、主の怒りは止まず、なおも、その御手を伸ばされる」という折り返しの句が繰り返された。
 「一本調子の審判の告知ではないか」と冷ややかに、神を批判するように論じる人はいないであろう。それどころか、これらの裁きの言葉は、繰り返される毎に、我が身に突き刺さり、痛みが加わり、我々はその言葉をいよいよ身に沁みるように聞くのである。今はまさにそのような時代だからである。人間が壊れて行くのを毎日見せつけられる。社会も国家も崩れて行く。世界の至る所から、悲鳴が聞こえて来るのである。
 だから、イザヤの預言が深い共感をもって聞き取られるのであるが、我々はこの時代の暗さに溺れてしまわないように、信仰に固く立って、御言葉を聞くようにしよう。つまり、聖書を局部に限って読み耽るのでなく、御言葉の全体を聞き取って受け入れねばならない。神が今警告を与えておられるのは確かであるが、我々のために将来を用意しておられるのである。
 今日学ぼうとしている18節以下21節までのところは、主としてイスラエル国内の崩壊を語っていると言って良いと思う。ただし、繰り返し言うが、イスラエルの方がもっと悪いと思って、ユダが安心したり、高ぶったりしてはならない。ユダも悪いのだ。だから、ユダも滅び、人々はバビロンに捕らえ移されることが予告されるのだ。しかし、神はバビロンの囚われの中に70年間留め置かれたユダに、国に帰ってエルサレムを再建する時が来ると約束したもう。しかも、ユダにだけ再建の機会を与えると約束されるのではない。北イスラエルに属していた10氏族も、永久に失われて戻って来ないのではない。イスラエルも回復するのである。
 イザヤ書9章の初めで聞いた「しかし、苦しみに遭った地にも闇がなくなる。先にはゼブルンの地、ナフタリの地に辱めを与えられたが、後には、海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」との預言は、まさに北イスラエルの回復を指し示す。それは遠い遠い彼方の物語りであるかのように聞こえたが、我々はイエス・キリストがガリラヤにおいて「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」と宣言したもうた時にこの約束が成就したことを知っている。
 それでも、イスラエルの滅亡がエルサレムの滅亡より先に来たし、やや荒っぽい捉え方であるが、イスラエルの方がユダよりも堕落がひどかったという現実は知って置いて無益ではない。
 神は真実であられ、イスラエルの先祖たちに一たび与えたもうた約束を忘れることも変更することもなさらない。したがって、失なわれたとしか見えない状況になっても、回復が来る。これは主イエスが「人の子の来たのも、失なわれた者を尋ね出して回復させるためである」と語られた通りである。
 約束と、約束の成就の確かさ。我々はそこから離れてはならない。ただし、確信に留まるとは、油断していても救いが保証されているということではない。確信に満ちている信仰者は、喜ばしく自己修練を重ねて、与えられた知恵と知識をいよいよ深めるのである。例えば、イスラエルの歴史の中に起こった数々の躓きについての知識を、自分自身と周辺の日々の出来事に結び付けて、軌道修正を繰り返すのである。
 ユダの全盛時代であったソロモンの治世に、有能な家来であったヤラベアムは、北イスラエルの人民に対する政府の使役が苛酷であることに反発し、エジプトに亡命した。彼はソロモンの死後ただちに帰国した。彼は預言者アヒヤの支持を受けていたが、北の10氏族を纏めて南のユダ王朝から分離させ、自分が王になった。ヤラベアムに権力欲があったことは否定できない。
 こうして、それまでのダビデ王朝とも、エルサレム神殿とも関係のない国家を建てたことについて、神は寛容であられた。これは列王紀上11章が記録する通りである。
 神がダビデの子孫に与えたもうた王国の約束が空しくなったのではないかと危惧する人もいると思うが、神はこれを叛乱として裁くことはなさらなかった。むしろ、ダビデ王朝の政治的失敗、不公平についての警告と考えるべきであると示したもうた。そして、北王国にも引き続き預言者を送っておられた。では、ダビデ王朝の特権の約束はどうなったのか。それは、来たるべきダビデの子による王国を示したものであって、万世一系のダビデ王朝が約束されたというふうに取ってはならない。
 また、シオンの山に建つ宮に与えられた数々の祝福の御言葉は、北王朝がこれを無視した時、どうなったのか。――これについても、主イエスのお言葉を思い起こさなければならない。すなわち、ヨハネ伝420節で、サマリヤの女が「私たちの先祖はこの山で礼拝をしたのですが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムにある、と言っています」と尋ねた時のお答えである。「女よ、私の言うことを信じなさい。あなた方が、この山でも、またエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る」。
 ユダヤ教では、今日でもエルサレムに関わる約束に固着すべきだと強調するのが有力意見のようであるが、キリスト教会は主イエスの御言葉に従って、地上的な場所へのこだわりを捨てた。すなわち、霊と真とをもって父を礼拝することだけが大切なのである。
 この根本的解決はシッカリ押さえて置くべきであるが、それと一応別問題として、南王国と北王国を比較するならば、南王国の政治の方が大分マシであったことは確かである。北王国では王はヤラベアムの時以来野心家であった。したがって、権力闘争が繰り返された。王たちは南王国の王よりも残忍であった。
 さらに踏み込んだ考察をすると、北王国では王が自分の権力を保持するためにベテルとダンに神殿を建てた。つまり、王の権力が礼拝を支配した。エルサレムでも礼拝が本当の意味で純粋であったとは言えないが、制度として祭司職が確立していたためであろう、王の権力が民衆の礼拝に介入することは容易でなかった。
 前回、13-16節で、「しかもなお、この民は自分たちを撃った者に帰らず、万軍の主を求めない。それ故、主はイスラエルから頭と尾と、棕櫚の枝と葦とを一日のうちに断ち切られる。その頭とは、長老と尊き人、その尾とは、偽りを教える預言者である。この民を導く者はこれを迷わせ、彼らに導かれる者は、呑み尽くされる」という預言を聞いた。これはイスラエルにだけ限ったものと取らない方が良いと思うが、確かに、イスラエルにおいてはこういうことが顕著であった。
 今引いた御言葉が、その前にある「それでも主の怒りは止まず、なおも、その御手を伸ばされる」に続いていると読み取る方が分かり易いであろう。神の怒りが顕されたのに、何も起こらないならば、何も起こらないかのようであるが、内部崩壊が進んでいるのである。
 言葉を換えて言うならば、神の怒りが顕になる時、それに気づく人がいなければならない。それが頭である。長老である。この人たちが先ず目覚めて、それから他の人に覚醒が広がって行く。しかし、その当時、イスラエル国にはそういう人がいなかったし、起こされることもなかった。
 同じことが今の時代に起こらないように、主の教会は祈らなければならない。今の時代は先にも触れたように、神の怒りの時代なのだ。言うまでもなく、誰か目覚めてくれる人が起こされることをあてにせよという意味ではない。誰かでなく、私が目覚めなければならない。今の時代の中で聖書を読むとは、そこまで立ち入って御言葉に聞くことなのだ。
 さて、18節に、「悪は火のように燃え、茨とおどろとを食い尽くし、茂り合う林を焼き、煙の柱となって卷き上がる」と言われる。
 この火は神の怒りのことであると取って良いであろう。しかし、言い方が込み入っている。神の怒りは義であって、義なる裁きによって悪が焼き尽くされると見るのが普通かも知れない。しかし、ここでは、人間の悪が燃え上がって、それが全てを焼き尽くして行く、と言われる。神の怒りは、人間の悪を用いて現れ出る。
 我々の貧弱な知恵では、ここをうまく説明出来ないのであるが、今の時代、燃えているのは悪を裁く義なる火ではなく、人間の悪そのものである。
 茨とおどろは最も古い時代から、無益な物の代表格であった。「おどろ」というのは植物の名ではなく、無益な植物が乱雑に茂っている有様のことである。人間の知恵は、茨とおどろに火を放って焼き尽くすことを考えついた。こうすれば、無益な茨とおどろの灰も肥料となって役に立つ。ところが、茨とおどろが焼かれる時、それで終わるのでなく、茂った林まで焼き尽くす。燃えるものが燃え尽きたなら火は消えるのではないか。そうではない。天まで焦がすのではないかと思われる火の柱が立ち上がるのだ。そういうスサマジイことが今や始まっているのではないか。我々は議論の及ばない事態が始まったと思わずにおられない。
 「誰もその兄弟を憐れむ者がない」と19節に書かれているが、こういうことはユダでも似たりよったりであったとはいえ、北王国において甚だしかった。
 「兄弟」という言葉がここでは特徴あるものであるが、三つの面からこの言葉の意味を読み取ることが出来る。
 一つはユダ国とイスラエル国との兄弟関係である。北王国が離反した時、ユダの王、ソロモンの子レハベアムは、国を取り戻すために18万の軍勢を出陣させようとした。その時、神はシマヤという預言者に御言葉を授けたもうた。「主はこう仰せられる。あなた方は上って行ってはならない。あなた方の兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならない」。列王紀上1224節に記される。
 こういう事情があるにも拘わらず、列王紀で屡々読むように、ユダの王とイスラエルの王との間に、一生涯を通じて戦いがあったという記録が沢山ある。それらは、さほど大きい戦いにはならなかったらしい。けれども、イザヤ書7章で見たように、イスラエル王ペカは、ユダの国に攻め込んだのである。これは、21節の3行目で読むところであるが、兄弟が共食いをした挙句、共にユダに攻め入るのである。悲惨という言葉をもっても言い表せない。
 第二に、北王国の中心になる地域を占める氏族は、エフライムとマナセであったが、これがヨセフの子であって、兄弟であったことを思い起こして置こう。この二人はヤコブの子ではなく、ヤコブの孫であって、ヤコブが死ぬ前に二人の孫を祝福し、それぞれが彼らにとって伯父であるヤコブの息子たちと並んで族長となり、二つの氏族を立て上げた。当然、エフライム族とマナセ族との間には親しい関係があった。
 エフライム族は、北王国を南王国から分離させたヤラベアムの属する氏族で、国の中では最も有力であった。マナセ族も有力な氏族で、ヨルダン川の両岸に亘って嗣業の地を与えられた。その氏族の大きさについては、民数記の中に2回の人口調査の記録があるが、その数字は北王国の中でのマナセ族の勢力を判定する根拠にはならない。士師記の中のギデオンはマナセ族であった。中央部にいる氏族であったことは確かである。
 ところが、21節で「マナセはエフライムを、エフライムはマナセを食い」とある。そのように、兄弟同士が食い合うようになった。どういう事件を指しているのかは分からない。内乱があったのかも知れない。イスラエル国では王位争奪のための戦いは珍しいものでなかった。
 第三に、最も一般的な意味での兄弟の関係が壊れてしまったことも見て置こう。律法の規定では、イスラエルは皆兄弟であり、氏族が別であっても、助け合わなければならない。これはイエス・キリストの教会の中ではもっと強調されなければならないのであるが、イスラエルが崩れて行った時、「誰もその兄弟を憐れむ者がない」と言われる事態になった。すなわち、「万軍の主の怒りによって地は焼け、その民は火の燃えくさのようになり」、人は兄弟のことを構っておられなくなったのである。
 それどころか、「おのおのその隣り人の肉を食う」という実情であった。こういう酷いことが時に行われるのを知っている人もあろう。ただし、余りに酷いことであるから、そういう事実があっても、隠してしまう。記録にはなかなか残らない。それでも、事実であるから洩れて来る。
 こういう事件がイスラエルの中心部で、エフライム族とマナセ族の間で行われると21節は語っている。どのような事実があったかを調べ上げるには、我々の神経は耐えられないから、これ以上は論じることが出来ない。しかし、こういう事件が現実味を帯びて来る破滅の時は近いのではないか。そのように感じる人は少なくないのではないか。
 「それでも、主の怒りは止まず、なおも、その御手を伸ばされる」。こんなに酷いことが起こっても、主の怒りはまだ終わらない、と申し渡されるのである。
 神は真実であって、憐れみ深くあられるから、主の怒りの火の中で、敬虔な人々は守られるのだと信じることは出来る。しかし、このことを安易に語ってはならない。むしろ、敬虔な生涯を送って来た者も、悪が火のように燃えさかる中で、苦しまなければならない時が来つつあることを弁えよう。そういう時について、主イエスはマルコ伝13章で教えておられる。我々は試練に勝利したもうたお方を知っている。このお方に与って、その試練に耐え抜くことが出来るように、祈ろう。

 

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