2002.12.29
イザヤ書講解説教 第4回
――1:10-14によって――

「あなた方ソドムの司たちよ」。………「ソドム」はもうないのではないか。勿論ない。ソドムという名で呼ばれているのは、エルサレムのことだ。それをソドムと呼ぶのは、内実において滅亡前のソドムと同じ堕落の都であり、来たるべき日の滅亡が同じだという意味である。

 「司たちよ」と呼び掛けられるのは、この階級、支配階級が特に悪いという意味か。そうなのだ。確かに、23節には、「あなたの司たちは背いて、盗人の仲間となり、皆まいないを好み、贈り物を追い求め、孤児を正しく守らず、寡婦の訴えは彼らに届かない」と書かれている。支配層が腐敗し、政治も裁判も歪んでしまった。しかし、今日は続いて「ゴモラの民よ」という御言葉を聞かねばならないのであるから、支配者だけが悪いとは言えない。エルサレムの民衆もゴモラの民衆と同じなのだ。支配する者も、支配される者も、神の点検を受けている。

 イスラエルの人々の間では、ソドムとゴモラの堕落とそれ故の審判としての滅亡について、アブラハムの時代から子孫代々に語り伝えられていて、皆よく知っていた。アブラハムは時にヘブロンに近いマムレのテレビンの木の傍らに住んでいたが、御使いを迎えてもてなし、その御使いを見送って、道が下り坂になるところまで行ってソドム、ゴモラの滅亡の計画を聞かせられた。翌日またその地点まで出向いて、この二つの町が天から降ってきた火で滅びて行くのを眺めた。跡は何も残らなかったのである。――前の日、アブラハムはソドムのために執り成しをしたが、必死になって執り成しても、ソドム、ゴモラを滅亡に付すという神の決定を差し戻すことは出来なかった。ただ、神はアブラハムの故に、その甥であるロトの一家だけを滅びの中から救い出したもうた。

 では、10節で「あなた方ソドムの司、あなた方ゴモラの民よ」と呼んでおられるのは、誇張でないとすれば、あなた方は全体としては滅びるが、例外として僅かな者だけは残るという含みを込めて言っておられるのか。

 直ぐ前の9節で「もし万軍の主が我々に少しの生存者を残されなかったなら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう」と聞いたのであるから、10節で「残りの者」のことを忘れずに心に留めるのは当然である。ロトの家族しか残らないことになると覚悟すべきであろうか。

 そう解釈して良い。しかし、この10節を丸ごと聞くならば、滅びだけが眼目ではないと気が付く。ソドム、ゴモラに等しい者らに対して、あなた方は「主の言葉を聞け。我々の神の教えに耳を傾けよ」と呼び掛けられているのである。ソドム、ゴモラの場合は呼び掛けられることもなく、日が昇ると同時に滅びが来て、その滅びの中からの救出があった。今回は、「御言葉を聞け」との呼び掛けがある。結果は同じかも知れないが、神の扱いは違う。神は御自身の民になお呼び掛けたもう。だから、ここで我々も神の言葉に耳を傾けよう。

 今日の世界、今日の日本は、ソドムと同じ、いやもっと酷いと言うべきであろう。そういう中に住んでいる我々が、滅びの中からロトの一家のように辛うじて救い出されることを考えても良かろう。しかし、今、御言葉に沿って思いめぐらす時、滅びが定まっているとしても、我々自身が御言葉を聞くこと、また人にも御言葉を聞くように呼び掛けることをしっかり考えなければならない。御言葉を聞く時を神は残しておられるのである。

 では、何のために御言葉を聞くのか。19節20節に答えが示されている。「もし、あなた方が快く従うなら、地の良き物を食べることが出来る。しかし、あなた方が拒み背くならば、剣で滅ぼされる」。神に従うべく方向転換すること、悔い改めをすることが呼び掛けられる。我々も悔い改めへの呼び掛けとして御言葉を聞くのである。もし、拒むならば剣による滅びを待たねばならない。

 さて、主は言われるのである、「あなた方が献げる多くの犠牲は、私に何の益があるか」。………人々は宗教のことに熱心だったのである。献げ物をなるべく減らそうなどとは考えていない。多くの犠牲を献げている。沢山献げることに充実感を持っている。

 神に多くの献げ物を献げても無駄な消費に過ぎないではないか。それよりは何か残る物を買った方がよいではないかという人が今なら多い。しかし、今でも信心のために出費する人はいる。財産を残すことに興味を示さず、宗教のことに使ってしまって満足するのだ。それも一つの生き方である。これを高貴な生き方だと考える人もいる。

 思い起こすのは、主イエスがルカ伝18章で語っておられた譬えである。パリサイ人と取税人が同時に宮に上って礼拝を捧げた。取税人は莫大な収入を得ており、神を恐れる生活も知らないが、パリサイ人は清貧に甘んじた敬虔な生活をしていた。パリサイ人は「私は一週に二度断食しており、全収入の十分の一を献げています」と感謝を献げる。この譬えでは、パリサイ人が取税人を見下している点に一つの強調が置かれるのであるが、それでも、パリサイ人の感じている宗教的満足感・充実感の空しさがあらわにされている。イザヤによって指摘された当時のエルサレム神殿における礼拝と似たところがあるのではないか。

 宗教は盛んだったのである。人々はそのような宗教的なお勤めに生き甲斐を覚えているのだ。しかし、神は、「私にとって何の益があるのか」と言われる。人々には益があると感じられていた。すなわち、物質的には満ち足りていない。そちらの満足を追求して行く人々から見れば、宗教だけが盛んなのは滑稽かも知れない。しかし、笑われた方は、自分たちの方が一段上のものを目指していると自負している。

 そうかも知れない。美味しい物を食べ、綺麗な着物を着て、華やかに生きていても、人の命は短いし、その短い一生を生き切らないうちに、表面的な物への執着は失せて行き、自分の生涯は空しかったのではないかと気が付く。それと比べるなら、宗教に熱心であることは堅実である。

 しかし、「私に何の益があるか」との神の一声の前に、これもまた消え失せなければならない。我々もジックリ考えなければならない。我々は充実した礼拝の時を持っている。華やかに遊び暮らしている人たちよりも遥かに堅実な生き方をしている。さらに言うならば、我々は一般にクリスチャンと呼ばれている人たちよりも、ずっと真剣に考えて生きている。それだけに充実感をもって生きている。だが、神にとって何の益があるか。

 「あなた方にとっては益かも知れない」と皮肉を言われているのであろう。少なくとも自分では益だと感じることが出来る益がある。しかし、いっさいの自己充実感も神の前では空しくなる。自分の感じる益という点だけから見るなら、礼拝に行くのも芝居を見に行くのも大して違わない。我々にとって礼拝が大切なのは、これが神のために捧げられているところにある。

 神のためであるから、神はこれを受け入れて下さり、永遠に滅びないものに与らせて下さるのである。

 神は続けて言われる、「私は雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。私は雄牛あるいは小羊、あるいは雄山羊の血を喜ばない。あなた方は私にまみえようとして来るが、誰が私の庭を踏み荒らすことを求めたか」。

 イザヤの時代に、律法の規定に忠実な礼拝が捧げられていたわけでは必ずしもない。先ず、偶像礼拝の排除すら正しく行なわれていなかったという事実があるようである。献げ物の規定も守られていなかったであろう。しかし、神はここで、そのことは問うておられない。偶像礼拝者がほかにいたかも知れないが、今、神が向き合っておられるのは、異教徒でもなく、偶像礼拝者でもなく、神の民であると意識し、神の掟に従って礼拝を守っている人たちである。

 規定に従った献げ物が供えられていたことが示される。昔、カインとアベルが献げ物を携えて来た時、カインは畑の作物を持って来、アベルは群れの初子と肥えたものを持って来た。神はアベルの供え物を顧み、カインのそれは顧みられなかった。この故事があるから、イスラエルの人々は神の御心にかなう物を捧げなければならないと弁えていた。真心が篭っておれば物は何でも良い、という考えが今では広く受け入れられている。

 一見、理に適ったように思われている。しかし、自分で良いと思う物が良い物だという考えは危険である。神が宜しとされる物が良いのである。したがって、何を供え物とすべきかを神が律法によって規定したもうたのには十分に理由がある。

 しかし、律法に適っているから正しいということにはならない。例えば、当歳の小羊でなければならないと規定されているが、それで十分であるとは言えない。その理由を考えて見よう。

 神は物を必要として献げ物を求めたもうのではない。我々が神を支えるのでなく、神が我々を支えてくださることを我々は十分に知っている。供え物は本来祈りと結び付いて必要になる。すなわち、祈りは、声だけでなく全身全霊を神に捧げることであるから、あたかも自分自身を祭壇の上に載せるのと同じであり、そのことを犠牲の獣を献げることによって表わすのである。

 祈りはヤコブが一晩神の使いと相撲をとったことに象徴されるような、何としてでも勝ち取ろうという熱意を必要とするものではあるが、神に宜しとされた者が捧げなければ無意味であり、無効である。神が受け入れたまわない汚れた人間が、ただ熱心に食い下がるだけでは空しいし、祭壇から離れたところに引き下がって。祈りだけを神の耳に届かせようとしても空しい。勿論、神が宜しとしたもう程の全き聖潔に達することは人間には不可能であるから、最後まで中間に立って執り成しをする仲保者が必要である。だから、我々はイエス・キリストから、「私の名によって祈れ」と言われている。

 しかし、仲保者がおられるから、こちらがどういう姿勢であっても、祈りは聞かれるというのか。そうではない。仲保者キリストの名によって祈るならば、必ず聞かれるとの約束は確かであるが、「その名によって」とは、偉い人の名をチラリと出すようなこととは全然違って、その方に私の全存在を預けて、という意味なのだ。その名によって祈るお方のもとに生きているのでなければ意味はない。完全でなければならないという意味ではないが、生まれ変わった者として、完全の方向を向いており、その方向に進んでいる必要がある。

 今イザヤ書1章で、神が供え物に目を背けたもうと聞くのは、献げ物を供えている人間の生き方、向かう方向が、神に祈りを聞いて頂こうとする方向とまるで逆向きだからである。どういうことかと言えば、15節以下で詳しく読むことであるが、祈りが捧げられているが、祈る人が差し伸べる手は血まみれである。

 「手が血まみれ」とは、人殺しをしているという意味である。その人殺しとは、所謂殺人事件を起こしたということでは必ずしもない。人は気付いていないかも知れない。本人も気付いていないかも知れない。しかし、神は見ておられる。そのような殺人がある。17節には、「善を行なうことを習い、公平を求め、虐げる者を戒め、孤児を正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」と命じられる。すなわち、公平が求められず、みなしごが保護されることなく放置され、寡婦の訴える裁判は決して勝てないようになっているということは、殺人事件に匹敵すると主は言われる。

 さらに、ここで預言者エゼキエルの聞いた御言葉を思い起こさなければならないであろう。3章17節以下に言われる。「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたは私の口から言葉を聞くたびに、私に代わって彼らを戒めなさい。

 私が悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言う時、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかし、その血を私はあなたの手から求める」。神は預言者が語るべき警告を語らず、ために悪人が滅びたなら、その血の責任をあなたに求めると言われた。ここでは預言者が人を殺した罪に問われるのである。

 神がユダの人々の宗教行事をこのように厳しく見ておられたことを聞いた以上、我々は今日、安閑としてはおられないのではないか。現今、社会的不正義が堂々とまかり通っている。社会的弱者がポロポロと脱落して、生きられなくされて行く。その責任が我々に求められることはないのか。

 我々は預言者エゼキエルのような使命を授けられていない。だから、悪人が悪人の侭で滅びて行っても自分には責任がない、と言えるかも知れないが、確信をもってそう断言出来る人はいないのではないか。少なくとも神の民であるはずの者が、不正の横行する現実を何も言わずに見逃し、殺されて行く人々を見殺しにしていることが、神の御旨にかなうかどうか、考えて見るべきであろう。

 我々の全部が社会革命の使命を持っているのではない。そういう人が我々の中に幾らかいても良いが、「キリスト者は皆、社会を変革するために立ち上がれ」と言わなければならないと見ることは多分要らない。しかし、敬虔に生きていると思って差し伸べている祈りの手が実は血塗られているということでないかどうかを検討しなければならない。祭壇に立派な献げ物が供えられているが、献げている私が献げるに相応しい生き方をしているかどうかを考えなければならない。

 主イエスはマタイ伝5章23節以下でこう言っておられる。「祭壇に供え物を捧げようとする場合、兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残して置き、先ず行ってその兄弟と和解し、それから帰って来て、供え物を捧げることにしなさい」。祭壇に供え物を捧げるとはそれだけの重要な意義を持つことであって、軽々しく済ませる行事ではない。

 「あなた方は私にまみえようとして来るが、誰が私の庭を踏み荒らすことを求めたか。

 あなた方はもはや、空しい供え物を携えて来てはならない。薫香は私の忌み嫌うものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること―― 私は不義と聖会とに耐えられない。

 あなた方の新月と定めの祭りとは、わが魂の憎むもの、それは私の重荷となり、私はそれを負うのに疲れた」。

 神は、不真実な礼拝に付き合うのを厭って、「お前たち勝手にやっておれ」と言い捨てて、どこかへ姿を隠したもうのか。そういうことがあるかも知れない。神はなすに任せられることもある。だが、ここではそうではない。「こういう礼拝は止めろ」と命じたもう。こういう礼拝は神を愚弄することなのだ。そこには救いはないのである。

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