2006.02.26.


イザヤ書講解説教 第39


――9:13-17によって――

 

 98節からの預言は、イスラエルに対する神の審判である。ここで「イスラエル」というのは12氏族全体のことではなく、北王国のことであると解釈するのが自然である。アモツの子イザヤは「ユダとエルサレムについて預言した」という前書きがイザヤ書の冒頭に編集者の手で書かれている。すなわち、南王国である。イザヤがユダとエルサレムについて預言するのが使命であったとはいえ、神が語らせたもうのであるから、北王国に対する裁きの預言をしたことは何の問題でもない。
 イスラエル国は兄弟の関係を無視して、ユダに攻め込むという不義を犯した。スリヤから圧力を受けて、同じ先祖を持つ兄弟の国を攻撃し、苦しみに遭わせるようなことをし、神を怒らせたから、ユダの預言者であるイザヤを通じて裁きを聞かせられることがあっても不思議ではない。しかし、彼がそこへ行ったことはないようだ。これは、エルサレムで語られたのである。
 すでに78節で、「65年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる」と書かれているのを読んだ。イザヤの預言していた項目の一つにエフライムの滅亡があったことは確かである。だから、98節以下も北王国に対する預言であると理解して良い。しかし、101011節に至って、「我が手は偶像に仕える国々に伸びた。その彫った像はエルサレムおよびサマリヤのものに優っていた。私はサマリヤとその偶像に行なったように、エルサレムとその偶像に行なわぬであろうか」と言われるのを聞く時、サマリヤの裁きはむしろ序の口であって、本命はエルサレム、シオンであったということが明らかになる。
 要するに、神の審判について聞くとき、それが他の人たちの裁きであるとしても、我々は決してその裁きをよそごとと考えてはならない。このことについて、常に思い起こさねばならないのは、ルカ伝13章にある主イエスの御言葉である。「ちょうどその時、ある人々が来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことをイエスに知らせた。そこでイエスは答えて言われた、『それらのガリラヤ人が、そのような災難に遭ったからといって、他の全てのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなた方に言うが、そうではない。あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたために押し殺された18人は、エルサレムの他の住民以上に罪の負債があったと思うか。あなた方に言うが、そうではない。あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう』」。
 我々は、遠い他国の古い昔の歴史を見ているのではない。サマリヤの滅びが預言され、その預言が成就したのに続いて、ユダの滅亡が予告され、それも実現したではないか。だから、ヨソゴトではなく、我々自身の裁きのことを慎んで思い、自分自身についての悔い改めを厳粛に考えなければならない。
 さらに、聖書の教えと直接には繋がらないとしても、今日の時代に生きる者としてこの時代のことに思いを致さざるを得ないのであるが、今の世が裁かれているのではないかと感じないではおられない機会が多い。そこで、同じようにして、裁きをよそごとと考えてはならないと気づかせられる。世が裁かれるというよりも、裁きが神の教会から始まるということを思わなければならない。そういうことを思いめぐらしつつ、今日与えられる御言葉を学ぼう。
 前回、12節の後半、「それでも主の怒りは止まず、なおも、その御手を伸ばされる」という言葉が、歌の折り返しであって、17節でも、21節でも、104節でも繰り返されることに触れた。この句は言葉の調子を合わせるためにはめ込まれたものではない、ということも我々にはすでに分かっている。神の怒りの御手を、決して甘く見てはならないということを学ばなければならないのである。裁きを簡単に止めたもうことはない。人々の思いを遥かに越えて厳しい。「残りの者」と言われる者が残るということも軽く考えるべきでないと弁えねばならない。
 こうして、13節、「しかもなお、この民は自分たちを撃った者に帰らず、万軍の主に求めない」というところから、今日の学びは始まる。
 神がイスラエルを撃ちたもうたのは、立ち返らせるためであるということをここで先ず見なければならない。一般に神の罰は報復と言われることもあるので、人が神に対して行なった損害に見合う仕返しを受けるのは当然だと理解している人が多い。しかし、ここではそれは言えない。第一に、神の栄光を汚す罪の大きさは、我々が罰を受けるくらいのことで帳消しに出来るものではないからである。第二に、同じ罪を犯していても、ある人は罰せられず、ある人は罰せられる。神は不公平だということになるのか。この問題は簡単には論じ尽くせないものであるから、今日は深入りを避ける。何よりも、第三の点を見たい。第三に、神の懲らしめは、悔い改めを通じて罪ある者を救う御業の促進のためだということだけを今日は見て置けば良い。「しかもなお、この民は自分たちを撃った者に帰らず、万軍の主を求めない」との13節の預言は、確かにそういうことに我々の目を固着させる。
 「神に帰る」とは、本来そこに留まっているべきであったのに離れて行った者が、帰るべき所に帰って来ることである。放蕩息子が財産をスッカリ失って父のもとに帰って来る場面、エリコの取税人ザアカイがイエス・キリストを受け入れて悔い改めた場面、カペナウムの取税人レビが悔い改めてイエス・キリストについて行った場面を思い起こせば良い。
 「万軍の主を求めない」という言い方にも留意しておこう。これは神を信ずるとか、神を恐れる、神に依り頼むというのと基本的に同じことではある。だが、神を求めるという言い方の方が適切に思われる場合がある。具体例を挙げる。「神を信じよ」と言うと、「信じていますよ」と平然と答える人がある。「では、神を求めているのか」と問われると、ハタと答えに窮することがあるではないか。預言者は、「神を求めよ」という言い方をよく使ったのである。有名なのはアモス書54節である。「主はイスラエルの家にこう言われる、『あなた方は私を求めよ。そして生きよ』」。同じく6節に言う、「あなた方は主を求めよ。そして生きよ」。
 確かに、信仰者と呼ばれる人はみな、「信じていますか」と問われると、「信じています」と答える。しかし、「神を求めていますか」と問われると、歯切れの悪い答えしか出来ない場合が多いのである。どうして、こういうことになるのか。「信じる」ということには本来、修練するという含みがあった。その時には、神を信ずということと、神を求めるということとの差はなかった。しかし、かなり昔から、信ずるということに含まれる修練の意味に人々は頓着しなくなった。だから、神を求めよと言わないと意味が通じない。そういう事情があったのではないかと思われる。
 さて、イスラエルは神の許可を得て国を建てたが、警察も裁判所も税務署もなかった。初期の制度が整っていなかった時代、人々は自分で良いと思うことを行ない、それで社会は正義と安全を一応保っていた。ところが、人々の心はややもすると神から離れ、戒めを破り、異教の偶像礼拝に走った。その時、神は御手をもって彼らを守ることを止めたもうたので、いろいろな他民族が略奪にやって来た。そこで、イスラエルは神に立ち返って、神の御名を呼び求め、救いを祈った。すると、神は彼らの嘆きを聞いて、彼らを助けるために士師、裁き司を遣わし、この人たちが民を指導し、敵を斥けて、平安を回復する、ということが繰り返された。その歴史が士師記である。
 士師記の時代は単純な繰り返しであって、不信仰、災難、悔い改め、回復という図式が繰り返された。そういう順序がその後も繰り返されていると言えるかと思うが、ずっと複雑になった。すなわち、士師の時代には制度が整っていなかった。必要な時には全国を統一する士師が立てられたが、これは永続する制度ではない。世襲にもならなかった。だから、治まるのも早いが、乱れるのも速やかであったのではないか。しかし、制度が整って来ると、外敵が侵略することはそう屡々ではなくなったようである。が、それに引き替え、制度が却って、人々の人権と生活を締め付けるような抑圧が起こる。それと結び付いているらしく思われるが、人々が危機に際して素朴に神の名を呼び、神に立ち返ることにもならなくなった。
 それが13節に書かれている状況の一面である。一面と言うのは、全てとは言えないという意味があるからである。すなわち、文明が発達し、人間の造る制度が整えば、人々は神に呼ばわる必要をだんだん感じなくなる。むしろ却って宗教や道徳が低下するという一面が見られる。それでは、人間が考え出した制度が常に悪であると言えるかというと、一概にそう決めつけては良くない。確かに、文明が発達すれば、それだけ人間が不幸になって行く、とはおおむね言えそうである。それでも、神の御旨がなければ小鳥の一羽も地に落ちることはないのであって、人間の悪が支配領域を広げて行き、神の領域がそれだけ狭められて行くと考えるのは正しくない。
 とにかく、人々は自分たちを撃ったお方に帰らず、万軍の主を求めなかったのである。自分たちを撃ったのが万軍の主なる神であることを認めようとしなかったのである。士師の時代の人々の純朴さはなくなった。神に立ち返るというようなことは愚かだと思うようになって行ったようである。
 「それ故、主はイスラエルから頭と尾と、棕櫚の枝と葦とを一日のうちに断ち切られる。その頭とは長老と尊き人、その尾とは、偽りを教える預言者である。この民を導く者は、これを迷わせ、彼らに導かれる者は呑み尽くされる」。
 国全体に対する裁きが長老と尊き人、また預言者に先ず現われると言われる。次の18節以下のところに、民衆内部の、そして民衆相互の関係がおかしくなって行くことが書かれているのと対照的に、14節から16節は民のかしらに立つ人がその機能を果たせなくなることが書かれる。
 これは上層部に先ず裁きが下るということではない、ということに注意したい。上層部が先ず裁かれる場合もある。それは当然ではないかと考える人が多い。確かに、真っ先に罰を受けるのが相応しいと見られる権力者が多いのは事実である。それは彼らが自らに委ねられた権力を誤って用いたからである。だが、今ここでは問題が違うのであるから、上層部が先ず裁かれるのが順序だという考えは差し控えて置こう。
 ここで論じられている上層部に対する裁きは、彼らの地位が失われるということではない。革命が起こって、王が首を斬られるというのとは別のことである。国全体を治めるための秩序が悪用されたことに対する裁きが語られるのではなく、その秩序そのものを用いて裁きが進むのである。
 17節には、「それ故、主はその若き人々を喜ばれず、その孤児と寡婦とを憐れまれない。彼らはみな不信仰であって、悪を行なう者、全ての口は愚かな事を語るからである」と言われる。13節以下の言葉は、首たる者の裁きであるが、上層部を狂わせることによって下層の者を裁くのである。
 若き人とは治められる側の人である。孤児と寡婦はその保護に第一に留意しなければならない人であると言われるのが通例である。しかし、この世の指導者を通して孤児や寡婦を保護することを神は止めたもう、と言うのである。
 神は地上を良き秩序に保つことを宜しとされて、その秩序が良き知性と良き判断力によって治められるようにしておられるのであるが、裁きを下そうとされた時には、治める者から正しい判断力や正しい知性を取り上げてしまわれる。したがって、治める者は判断も知性も欠いた状態に置かれる。そうすると、下々の者は混乱した秩序のもとで苦しまなければならなくなる。その時、民衆が正しい判断力を持っていると、治める者を取り替えて秩序を正常化するのであるが、民衆に判断力がないと、悪しき者に権力を持たせてしまう。それは、民衆自身の禍いであるが、そのような悪しき秩序が行なわれることによって、神の栄光が著しく汚され、民衆に対する神の裁きもいよいよ苛烈になる。
 「頭と尾を一日のうちに断ち切る」と神は言われる。指導者の判断力がだんだん惚けて行くということではない。一人の人間を見ていても、年齢を加えるにつれて能力が落ちて来るということは広く知られる通りである。一つの社会について見ても、世代を重ねるにつれて悪くなることがよくある。すなわち、能力の落ちた者が次の世代を育てるから、次の世代の教育力はもっと低下し、その次の世代になるとさらに低落するということがある。しかし、今示されるのは一日で駄目になることである。
 ダビデ王朝に反旗を翻したヤラベアム以後、イスラエル国には神の民の国であると思われない面が多々あった。しかし、神がこれを異邦人の国とは見たまわなかったのは、王による国家の行政が正統であったからではなく、昔ながらの長老の指導が生きており、また神の遣わしたもうた真の預言者がいたからであると思われる。その指導が一日にして崩れた。
 つまり、奇跡的に頽落が起こる。神が介入しておられるからである。そうなるはずのないと思われていたことが起こったのである。では、イスラエル国の何年何月何日にそれが起こったのか。――それについて、私には答えられないのであるが、神の裁きによってこれが起こったことは確かである。
 我々の生きている時代のことを考えないではおられない。この時代の政治が悪くなったことは神の見ておられるところではあるが、神の介入によって奇跡的におかしくなったのではない。だんだんおかしくなった。しかし、イスラエルの「尾」と神が呼んでおられる預言者に関しては、もっと深い関心をもって見なければならない。
 北王国イスラエルにも預言者はいた。例えばホセア、アモス、ミカである。ユダにおいては祭司と預言者がいたが、北王国には祭司はいない。神が正規の神殿と定めたもうたものはエルサレムにしかなかった。神殿がないから祭司は要らなかったのであろう。北王国のベテルとギルガルにある神殿は子牛の像を祀ったものである。アモスは先にも引いた54節で「ベテルを求めるな。ギルガルに行くな」と民衆に呼び掛けている。
 一日で尾が取り去られるとは、それまで正しい預言を語っていた預言者が一日にして正しい御言葉を語ることが出来なくなったということなのか。それとも、一日にして偽りの預言者がワサワサと出て来るようになったということなのか。この実情も良くは掴めていない。しかし、神の御手の介入があって、一日にして御言葉が聞けなくなるという変化が起こることはあり得る。いや、あったのだ。
 頭は長老と尊き人であるが、預言者は「尾」になぞらえられる。ごく詰まらない人間と見られたということであろう。それは本当の預言者でない偽預言者のことと思われる。真の長老も真の預言者もなくなった悲惨な神の民の姿がここにある。しかも、主の怒りは収まらず、なおも、その御手を伸ばされる。
 もう誰も助からないと思われる。しかし、その時に「残りの者」が残される。

 

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