2006.01.29.


イザヤ書講解説教 第38回


――9:8-12によって――

 

 イザヤがエルサレムに住んで、おもにエルサレムとユダについて預言者活動をしたことを我々は良く知っている。イザヤ書の冒頭にも「エルサレムとユダについて見た幻」と書かれている。前回聞いた箇所も、ダビデの位に座する王の誕生が預言されるものであった。すなわち、今では弱体化したユダのダビデ王朝の輝きの回復の日が来ると予告される。ところが、今日、8節以下で聞くのは、ユダについての預言ではなく、北王国イスラエルの裁きに関するものである。
 イザヤが自分の住む国のことだけでなく、隣の国のことについてまで預言したことを不思議に思う人はないであろう。預言者は一国に属するのでなく、神に直属する。神が語らせたもう時には、何でも語る。したがって、イザヤが自分の住む国でない国に語るのは、彼に特別な政治的関心があったからだと見てはならない。これは神の関心事なのだ。「主は一ことをヤコブに送り、これをイスラエルに下される」と先ず書かれている。主の言葉が差し向けられた人たちに留意したい。これは裁きの言葉である。
 「ヤコブ」というのと、「イスラエル」というのは同じものを指している。イスラエルという名は初め、神がヤコブに与えたもうた愛称であるが、後にはヤコブ個人ではなく、ヤコブの子孫全民族をさす言葉になっている。
 さらに、9節に「全てこの民、エフライムとサマリヤに住む者とは知るであろう……」と言われるが、これは同じ北王国のことで、その人民がこのことに容易に気付いているであろうという意味であって、北王国の内部のことに関わっている。大地震とその対応についてである。さらに、21節に「マナセはエフライムを、エフライムはマナセを食い、彼らは共にユダを攻める」とあるのは、7章の初めで読んだように、スリヤとエフライムが連合してユダに攻め入った事件を言っているのは明らかである。
 イザヤは先に8章17節で、「主は今ヤコブの家にみ顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる」と信仰を表明したが、そこでヤコブと言われたのは、今日学ぶところにあるヤコブとは違って、ユダをも含んだイスラエルの全てである。9章8節以下に「ヤコブ」と呼び掛けられるのが北王国を指すことについて、これ以上くどく説明をする必要はない。
 預言者エレミヤは、特に「万国の預言者」と指名されたが、こういうのは例外であって、どの預言者も、神の民以外の国々に対して、至る所で言及している。このことについては、論じるまでもない。神は世界の神であり、神の視野は世界に広がっている。イザヤが北王国について預言したのを、不思議に思うべきではない。
 しかし、今回、イザヤの口から語られた神の言葉を学ぼうとする時、神が一般的に全ての国民の支配者であられるということを承知しているだけではいけない。神はここで、イスラエルに対する契約の神として語っておられるのである。
 「ヤコブ」、また「イスラエル」という、同じ意味の呼び掛けが繰り返されるのは、神が懇ろに語っておられることを示すのでなくて何であろうか。「ヤコブ」とはアブラハムの子、イサクの子、12人の息子の父、もともとは個人の呼び名であった。主はまたヤコブがアラムナハライムの長期の寄留生活から生まれ故郷に帰った時、彼にイスラエルという異名を与えたもうた。父アブラハムへの約束がここでもう一度固くされる。その呼び名が今用いられるのである。
 ヤコブの子たちの一団が、12の氏族からなる一つの国家をなすに至ったが、一人の王を頂くという体制は長続きしなかった。すなわち、ソロモンの死後、忽ちに分裂が起こる。ユダ族とベニヤミン族だけがダビデ系の王朝を支持し、他の氏族は別に北王国を建て、エフライム族とマナセ族がその中心になる。この時に武力で国家統一をしようという試みがあったが、神はそれを許したまわなかった。政治の失敗に対する民衆の叛乱を主は是認されたのでないが、背いて行く人民を、失敗した支配者が武力で留めることを宜しとされなかったのである。こうして一民族、一宗教、二国家という形になり、二つの国は友好的とは言えないとしても、相戦うようなことは避けて来た。エフライムがシリヤと連合してユダに攻め込むようなことは、かつてなかった。
 さて、神がイザヤを通じて「ヤコブよ、イスラエルよ」と呼びたもう時、それは今ある北王国のあるがままの姿に立ち返らせたもうだけの呼び掛けではない。今ある北王国については、7章8節に「65年のうちにエフライムは敗れて、国をなさなくなる」と預言されたが、そのような、終わりの見えている国ではなく、神の与えたもうた地に、神の民が建てる国である。一つの民族がその民族の理想を実現しようとして建てた国ではない。神が認めておられる国である。
 イスラエルの民がモーセによって導き入れられて約束の地に定着した時、指導者であるヨシュアは言った。「もしあなた方が主を捨て、異なる神々に仕えるならば、主はあなた方に幸いを下された後にも、翻ってあなた方に禍いを下し、あなた方を滅ぼし尽くされるであろう」。――これはヨシュア記24章20節に記されている忘れてはならない申し渡しである。実際、イスラエルはヨシュアの前でこれを誓った。神が一たび祝福を誓って建てたもうた国であるから万世に亘って安泰である、と思った人は多いが、そういう保証は人々の空想である。事実、イスラエル国は滅びた。
 このことを思い起こす時、我々は次のことも考えなければならない。「主の名によって建てられた故に、キリストの教会は決して滅びない」と空しい空想を抱いてはならないのだ。旧約のイスラエルは、驕り高ぶって神から滅ぼされたが、新約の民は、主イエスの教えを守っている故に、滅びることはないのだ、とクリスチャンの間では当然のこととして言われている。そして油断している。これではいけない。
 現にキリストの名は掲げられているけれども、それは実体のない名、ペンキで書いた看板であって、キリストへの服従もなく、キリストの教えが実践されているわけでもなく、キリストの名のもとでの真剣な悔い改めが行なわれているのでもない。そのような教会が、無気力化し、どんどん崩れているという実情がある。
 これを見て、キリスト教の時代はもう終わったのだと思う人は少なくないであろう。そう思う人と言い争いをすることは考えていないが、地の塩が味を失ったなら、外に捨てられ、人に踏まれるのみ、と言われた主の御言葉はいよいよ真実だと思われるようになっている。――とにかく、今日聞く御言葉は古い時代のものではあるが。今でも聞くべき意味を失ったのではない。
 「エフライムは65年のうちに滅びる」と神は預言者によって前もって宣告を与えたもうたが、その決定は仮のもの、脅かしのためであって、彼らが悔い改めるならその決定は覆しても良い、という但し書きがついているものではない。
 だから、エフライムは滅び、エフライムの歴史は終わった。……そういうことで片付けるのも一つの読み方である。だが、もう一つの読み方がある。それはエフライムが滅び、サマリヤは殆ど異邦人の国のようになったけれども、全てが終わった訳ではなかった。ずっと後のことではあるが、回復がある。例えば、ユダの祭司やレビ人が、行うことの出来なくなっていた神の御心に仕える業を、一サマリヤ人が行うという寓話、これによって、滅びたものの建て直しがあることをキリストは示したもうたからである。
 神の御業を途中まで読んで、矢張り神の絶大な御意志に従わなければ滅びるのだ、と納得して終わるのも一つの読み方である。それなりの意味と教訓のある読み方だから、それだけの読み方しか出来ない人を、侮るべきではない。
 ただ、我々としては、聖書の読み方をもっと豊かに教えられているから、途中で終わるような読み方はしない。キリストの民はキリストの光りのもとで聖書全体を読む。その読み方があることは、福音書にイエス・キリストがサマリヤのスカルに行って伝道したもうたことや、使徒行伝に出て来るサマリヤ伝道、また先にも触れた良きサマリヤ人の寓話から示唆される。いや、旧約の中ですでに、末の末のことまでが語られていることに思い至るのが、聖書の本来の読み方なのだと言うのが正しいと言うべきであろう。二つの点に目を向けよう。
 12節の終わりに、「それでも主の怒りは止まず、なおも、その御手を伸ばされる」と言われる。この句が17節でも、21節でも、10章4節でも反復される。これは「折り返し」という手法を用いた詩である。しかし、ただ調子を揃えるためや気勢を上げるために用いた文章技術というふうには取れない。人間なら、ここで止めて置こうということになるのだが、神は止めたまわず、なおも御手を差し伸べたもう。その先に徹底した御業の遂行がある。我々が神の御業を見る時、そのようなものとして見るべきではないか。「その先がある」。
 もう一点、我々が今日の聖句の続きとして、近いうちに学ぶことになっている10章20節を取り上げなければならない。こういう聖句である。「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者に頼らず、真心をもってイスラエルの聖者、主に頼り、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」。
 「残りの者が帰って来る」という句がイザヤ書の預言で非常に重要であるということに我々はすでに何度も注意を促された。「残りの者」というだけの言い方でも、大きい衝撃を与えられた。1章9節であった。「もし万軍の主が、我々に少しの生存者を残されなかったなら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう」。恵みによって辛うじて残る少数者がいる。これもイザヤから聞き取った大切なメッセージである。イザヤが8章16-18節で言ったのもその意味であると我々は理解している。「私は証しを一つに纏め、教えをわが弟子たちのうちに封じておこう。主は今ヤコブの家に御顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる。見よ、私と、主の私に賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルの徴しであり、前触れである」。――ここに残りの者の現実の生きざまが示されている。我々はその残りの者なのだ、と納得して来た。それも大事だが、それと、「残りの者が帰って来る」というのとは意味がかなり違う。
 「残りの者が帰って来る」というのを、我々の見習うべき形として捉えるのは極めて困難である。見える姿としては、これは一旦散り失せてしまっている。時が満ちて帰って来るが、それまでは見えないし、捉えようもない。そして、これもイザヤのメッセージのうちの大事なものであった。それは、彼がアハズ王に預言を伝えに行く時、息子のシャルヤシュブを連れて行った事実からハッキリ示されている。シャルヤシュブとは「残りの者が帰って来る」という言葉そのものである。そのことを、このところでアハズに伝えねばならなかった。
 この時、イザヤには65年以内のエフライムの滅亡が示されていた。しかし、その滅びの彼方に回復があるということもイザヤには見えており、それを語ることが預言者活動の骨子の一部をなしていた。我々もそのことを読み取らねばならない。
 今日学ぶ預言がユダとエルサレムに関してでなく、エフライムに関することで、それが決して曲げてとった解釈でないと論じることに長く時間を取ったが、またそのために、遠い彼方の結末まで見渡すことが出来た。
 「すべてこの民、エフライムとサマリヤに住む者とは知るであろう。彼らは高ぶり、心驕って言う、瓦が崩れても、我々は切石をもって建てよう。桑の木が切り倒されても、我々は香柏をもってこれに代えよう」。
 エフライムとサマリヤに住む人なら誰でも知っていることであると預言者イザヤは言う。これはエフライムに起こった地震の時のことではないかと思われる。他に記録はないが、アモス書には、地震の2年前に預言者アモスがイスラエルについて預言したと初めに書かれている。歴史の目印になる事件であった。またアモスは4章11節で、「神は言われる、『私はあなた方のうちの町を、神がソドムとゴモラを滅ぼされた時のように滅ぼしたので、あなた方は炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたは私に帰らなかった』と主は言われる」と預言した。これは地震があったのは、あなた方に悔い改めさせるためだったのに、悔い改めなかったとの非難であって、イザヤの言わんとしたのと同一の主旨だと思われる。
 この地震についての記録がないので、これ以上は分からない。エルサレムの方にも記録は残っていない。ソドムとゴモラの壊滅に比べられるほどの被害があったようである。首都サマリヤが破壊されたのであろう。瓦が崩れたというが、ここで瓦と訳されているのは煉瓦、恐らく日干し煉瓦のことではないかと思う。
 アモスの預言が指摘している通り、これは北王国の驕り高ぶりに対する神の警告であった。しかし、彼らは衝撃を受けて何とも思わなかった。日干し煉瓦では地震に耐えられなかった。それなら切石で建築しようということで済ませてしまう。
 桑の木というのは庶民の間で最も有り触れた安価な建築材料であった。これは柔らかい材質だから、建物はスグ潰れる。特に貧しい人々の家は壊れ、多くの貧民が被害を受けたということであろう。彼らは何とも思わない。桑の木で駄目ならレバノンから香柏を輸入して建て直せば良いではないか、と言う。では、実際にレバノンから材木を輸入して首都の再建をしたのか。多分しなかったのではないか。
 貧しい人たちの被害の救済をすれば良かった、ということではない。神の前に悔い改めることが必要であった。そしてそれをしなかった。彼らの罪は、高ぶりと驕りであった。そこで神は言われる。ここで我々は慄然としなければならない。近頃頻々と災害が起こる。それは我々に悔い改めが求められているという意味ではないのか。
 「それ故、主は敵を起こして彼らを攻めさせ、その仇を奮い立たせられる。東にスリヤ人あり、西にペリシテ人あり。彼らは大口を開けてイスラエルを食い尽くす。それでも、主の怒りは止まず、なおも、その御手を伸ばされる」。地震の次は戦争である。
 スリヤがイスラエルを呑み尽くしたと言うのは、同盟軍を作ってユダに攻め込むことによって、ユダはまだ滅びなかったがイスラエルは実質的に乗っ取られて滅びるという解釈を指す。イスラエルを滅ぼしたのはアッスリヤであるがすでにスリヤに滅ぼされた。
 ペリシテ人が西からイスラエルを攻めて滅ぼしたという記録を我々は知らない。だが、知らないだけで、その事実がなかったとは言えない。アモス書1章6節に、「ガザの三つの咎、四つの咎のために私はこれを罰して許さない。これは彼らが人々を悉く捕らえて行ってエドムに渡したからである」と言われる。こういう事実は否定出来ないのではないか。ペリシテはユダに対してはダビデ以来友好的であったが、エフライムを脅かすことはあったらしい。
 しかも、そこで主の怒りは終わって、平安が来るかと言えば、そうではない。主の怒りはなお止まず、怒りの御手はさらに伸ばされるのである。驕り高ぶる者は神を無視する。神はさらに厳しい怒りをもって悔い改めを促したもう。しかし、人はますます頑なになる。神はますます怒りたもう。そして、遂に破局が来る。だが、最後に残りの者だけは帰って来る。

 

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