2005.12.25.


イザヤ書講解説教 第37回


――9:1-7によって――

 

預言者イザヤが御言葉を受けて宣教活動をしていた時代状況は、我々の乏しい知識によっては、十分明確にまた的確に把握出来ていない。だから、ハッキリ言って、この9章1節は特に読みの難しいところである。しかし、前回読んだところ、8章の終わり、16節以下で、おおよその事情は分かった。すなわち、人々は国の存亡の危機に周章狼狽しながら、神に立ち返ることをせず、アッスリヤと軍事同盟を結ぶことによって安全を守ろうとした。それに反対する者は陰謀とされ排斥された。預言者もその言葉を守る者らも、陰謀家とされた。その事情が分かれば、代々に伝えられて来たイザヤのメッセージは、今日の私にとって何なのかが見え始める。……初めは朧気にしか見えないが、繰り返し読むほどにハッキリ捉えられるようになる。
 すなわち、今は神が御顔を隠したもう時なのだとイザヤは教えた。人々は神がおられ、ただその御顔を隠しておられるという事情を知らない。神はなくなってしまったのだ。かつては神があり、人々はその神を信じていなければならなかったが、今や神なき世界になった、と思っている。したがって、神はなきものとして生活し、行動し、神がいたもう故に成り立つ正義、公平、憐れみ、真実、隣人との契約をないがしろにしている。それが社会の崩壊であり、人間の崩壊である。宗教も崩壊し、人々は生ける神への服従を失って、死人のことばを、口寄せや巫女、魔術師に求めている。
 しかし、神は御顔を隠しておられ、人々には見えないだけで、神の言葉は預言者によって語られている。神は御言葉において、御自身の生きていることを示しておられる。神の言葉を忠実に聞き、忠実に守ろうとしている主の民にとっては、神の御顔が顕されていることと、隠されていることとは、大きく違うといえば言えるが、本質的には違いがない。神の言葉があり、神の約束がある。だから、信仰も、愛も、希望も、その意味と力を毫も失っていない。
 神は顔を隠しておられると言われるが、ちょうど日食の時、太陽は地上からは見えないけれども、月の向こう側では燦然と輝いているように、神の全能、神の慈しみ、神の真実、そして神が一たび与えたもうた約束は全然変わっていない。そして、太陽がなくなったかのように思われる時があるとしても、再び見えて来るように、神がその御顔を顕したもう日は来る。
 だから、自分が主の民であることを知る者らは、自分たちが少数の残りの者であることを弁えて、残りの者としての使命を持ち続け、忍び耐えるのである。ただし、残念なことと言うべきか、残りの者は僅かしかいないのである。しかし、その少数の残りの者には、使命があり、使命の自覚があり、使命に生きる感謝と喜びがある。その使命とは「シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルの徴し、また前触れ」として生きることである。
 神が顔を隠しておられても、神はおられ、神の民はいるのである。何もないように見えるかも知れないが、神が働きたもうことの「徴し」はある。自分たちこそその「徴し」なのだと確信して、民らは目覚めて雄々しく立ち抜く。こういう事情が聞き取れない人は、預言者のもとを去って行った。今日でも、残りの民の群れの意味が分からぬ人は、御言葉への服従を愚かなことと見て、去って行く。
 さて、今日イザヤ書から学ぶのは、太陽が光りを隠してしまう自然現象になぞらえられる出来事ではない。その暗黒時代は終わったのである。本当に終わったのかというと、また幾らか議論をしなければならないが、それは省略して、今日はその次のことを学ぶのである。
 9章の初めに、「しかし、苦しみにあった地にも。闇がなくなる」と言われる。ここで、我々は最早、闇の時代というものから離れ、それを抜け出た次の時代に立っていると見て良いであろう。――言うまでもないが、暗黒の時代がもう過ぎて、何もかもが光り輝く時代になった、ということが言われているのではない。続いて、「先にはゼブルンの地、ナフタリの地に辱めを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに栄光を与えられる」と言われる変化があった。その変化を一つの面では、現実の回復を指したものと捉えるべきであろう。しかし、ここでは同時に、まだ現実になっていないこと、来たるべきこと、そのことの徴し、すなわち、メシヤの来臨の約束の徴しが与えられているとして捉えなければならない。
 9章1節、これは文語訳と口語訳でこそそうなのだが、新共同訳では同じ聖句が8章23節の中に入れられている。こうなったのは、用いる原典の節番号の打ちかたの違いによるのである。使う原典が違うようになったため、混乱が起こっているようであるが、内容的には違っていない。それでも、この箇所を8章の中に入れて、その後に章の区切りがあると読むように誘導されるか、この節からキリスト預言の章、みどりご誕生の9章が始まっていると取るように誘導されるかは、大した違いでない。したがって、まだキリスト預言に入っていないと思うことにはならないようにしよう。
 ただし、我々の用いる聖書でいう9章1節と、9章2節は、もともと連続した文章でなかったことはほぼ判定出来る。ズッと続いた文章ではないようである。ではあるが、区切って読まなければならないと言ってはならない。
 「苦しみに遭った地にも闇がなくなる」という言葉は現実化したのか、しなかったのだが断言しているのか。つまり歴史になったか、まだなのかについては、我々には調べ切れない部分がある。7章の初め以来ズッと見て来たのは、スリヤとエフライム連合軍の侵入の事件、その事態の中で預言者は語り続けて来たことだ。これは実際にユダ国にとって深刻な状況であったことを先に見た。さらにその歴史の続きとして、スリヤとエフライムを滅ぼした勢力、アッスリヤがユダに襲来するという、もっと苛酷な事件が予告された。そういう事実が起こったことは良く分かっているが、聖書に書かれているどの言葉がどの事件に結び付くかを特定することはなかなか難しい。
 ゼブルンとナフタリ。すなわち、エフライム族をその代表氏族とする北王国の北の方の氏族の地である。ナフタリの区域は北王国の比較的北にあって、ゼブルンはその西に連なるので、北の方から侵略を受けるのもひどかったが、そのゼブルン、ナフタリの地が回復するということであるのは容易に理解出来る。
 だが「ゼブルン、ナフタリが辱めを受けた」という叙述は何を指すのか。スリヤが先ず北王国に侵入し、北部を占領して、無理矢理に言うことを聞かせて、一緒にユダに攻め入って、その時踏み荒らされたことを指すのか。それとも、その次のアッスリヤの禍いを語るのか。スリヤ・エフライム戦争とアッスリヤ戦争は時代も離れているが、イザヤの預言の中では重なるように書かれている。7章8節後半には、「65年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる」とあるが、これはアッスリヤによる北王国の滅亡の予告である。アッスリヤの禍いについては、特に7章17節に「エフライムがユダから分かれた時からこの方、臨んだことのないような日」と呼ばれるが、スリヤ、エフライムの連合軍の侵入と、それより遥かに厳しい国難であったアッスリヤの侵入とが混同されやすい。9章1節に関係するのは後者のことだと理解する人が多い。我々もその意見に傾いている。
 「海に至る道」、これは言葉通りでは「海の道」であるが、カルメル山より南、地中海に面したドルという町から、ガリラヤ湖、(その頃キンネレテの海と呼んでいたが)そこを通ってダマスコに達する道である。アッスリヤの軍はここを通って南下しエルサレムに達したに違いない。海の道を外れてから、または途中で、ガリラヤ地方を荒廃させたことは容易に推定出来る。
 「ヨルダンの向こうの地」というのは、ヨルダンの東の地域である。ダン、マナセの半ば、ガド、ルベンがここに嗣業の地を得たが、この区域は比較的早くイスラエルから失なわれたようである。
 「異邦人のガリラヤ」とは、アッスリヤ軍が攻め寄せて、このガリラヤを占領したことから「異邦人のガリラヤ」という呼び方が起こったと思われる。この呼び方にはこの土地に対する侮蔑の意味が籠っている。
 総括するならば、失なわれ・荒らされた地の回復である。そこは一口で言うならガリラヤ地方である。しかし、アッスリヤ軍による征服が特に関わっているとすれば、それはイザヤにとってはまだ少し先の話しであり、その荒廃の回復はさらに先のことではないのか。――確かにそうなのだ。だが、先の先であるから、回復の約束は抽象的また象徴的に受け取れば良いということではない。むしろ、ここでは、来たるべき歴史が語られ、それを読み取る訓練が与えられているのだ。来たるべき歴史とは、アッスリヤによるガリラヤ征服だけでなく、その後の回復であり、さらにそれを踏まえて、ずっと先の出来事、「ガリラヤにおける福音宣教のはじまり」という歴史が預言されるのである。
 2節に進む、「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光りを見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光りが照った」。――ここでは地名は全然出て来ない。時代を思わせる言葉もない。それだけに、どこへでももって行って当てはめられる言葉である。
 「暗闇の中で光りが照る」と言われるのを聞くと、その情景を心に描くことの出来る人は多いだろう。一面の暗闇の中に小さく灯火を描くだけで、闇の中における光りの機能は十分発揮されると人は思うであろう。この世界では確かにそれで事足りる。光りが少しだけ向こうに見えれば、方向を間違えることはない。しかし、勘違いしてはいけない。ここで言われるのは「大いなる光り」を見ることである。小さい明かりを考えては意味が違ってしまう。闇の中で迷う他なかった人が、チョットした光りで、もう迷うことなく道を進む、ということではない。大いなる光りを見るのである。したがって、その大いなる光りに包み入れられるのである。
 暗黒から光りへの転換が起こるのである。「暗黒から光りへ」、これは聖書的標語の基本形になるテーマであると言って良い。言葉を換えて言えば、我々は、暗黒と言われるあらゆる現実に、「暗黒から光りへ」という図式を当てはめれば、暗黒への勝利の確信を獲得できる。ヨハネ伝1章5節が「光りは闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」と言う通り、光りは闇を凌駕する。これは確かなことであるから、確かに把握しなければならない。
 しかし、「闇より光りへ」という図式を安易に振り回して喜んでいて良いとは言えない。得意になって「闇より光りへ」と口ずさんでいても、その人の裏面の現実として、「光りから闇への回帰」という一面があるのに、それがないかのように隠しているウソがあるからである。闇が光りに勝てないという事実こそ証しとして確立しなければならない。「闇から光りへ」はキリストによる転換、死から命への転換に当てはめてこそ捉えられる真理である。
 光りが現われて闇が消え行くのは、毎朝、自然の中で繰り返される。そのことも、神の恵みを日々新たに確認させる喜ばしい出来事ではあるが、夜が来れば光りは闇に転じる。朝の光りが射すという出来事は「キリスト死人のうちより甦りて、また死にたまわず」という真理とは比べものにならない。クリスマスを祝って信仰の心が高鳴るが、翌年の12月にはメーターがゼロに戻っているような喜びでは、大いなる光りを見ていない喜びなのである。
 「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光りを見た」という言葉は単に人々を活気づける言葉として味わうものではない。一人の嬰児が我々のために生まれた、という告知と結び付いた時、これは生きた言葉として響き渡る。
 それとともに、イザヤがこの9章で語った時には、この地上の現実の中で、いわば闇の中を歩くのに等しかった現実が、逆転して大いなる光りを見るような現実が起こった。このことも読み取って置こう。それは一人のみどりごの誕生であるが、では、イザヤが指さすのはどういう出来事であるか。どこに生まれた子であるか。そこが良く分からない。
 7章14節に「見よ、おとめが身籠って男の子を生む。その名はインマヌエルと唱えられる」という預言があった。預言があり、それと結び付いて子供の誕生と、命名が行なわれることが続く。
 第一は、既に生まれて或る程度大きくなっていたようであるが、7章3節に記されているシャルヤシュブ。第二に、先に挙げた7章14節のインマヌエル。三番目に、8章3節にあるマヘル・シャラル・ハシ・バズ。第四に、8章6節、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」である。
 二番目のインマヌエルはイザヤ自身の子であるか、もしくはアハズ王の子であるか、どちらかである。おそらく、イザヤ自身に名前をつける権限があるようだから、イザヤの子であろう。
 9章6節のみどりごは、どこのみどりごであるか。よく分からない。イザヤがこんなに次々と男の子を生むことがあったかと不思議に思うのは、世俗的考えであり過ぎるかも知れない。また、この名前の長さも驚きである。だが、マヘル・シャラル・ハシ・バズの長い名前の前例があるから、長い名前があり得ないと言ってはならない。「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」という名は、名前であると見て差し支えないが、名前がこれだということにこだわるよりは、この子の資質、特性を強調したものである。それはメシヤであることを表わす。
 これは「ダビデの位に座する」と7節で言われるのであるから、ダビデ王朝の衰退の時期、これを復興させるために王家に子が生まれて来たという意味であろう。したがって、アハズの子として生まれるということであろう。
 ところが、そのような子がこの時アハズの家に生まれたか、分からない。王の位についたか。それはユダの国の歴史に照らして見ると、そういう王はいない。それならば、こういう子が生まれるという預言はどうなったのか。預言者の空想から出た期待に過ぎなかったのであろうか。
 我々がこの言葉を、空想でなくて、預言であると確認するのは、その頃の歴史から該当する人物を拾い出して特定することによってではなく、来たるべき時から読み取ったことを、新約聖書の助けによって遡って預言に至るように読むからである。今、5節に入ってしまったが、5節のことは次回にもう一度詳しく取り上げなければならない。
 3節に進む、「あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは借り入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ」。
 「あなたが国民を増し、その喜びを大きくされた」と言われたのは、先に少数者でしかなかった神の民を大きく増やしたもうたということなのか。これも一つの解釈であるが、イスラエルの残りの者とイスラエルは別ではないか。残りの者はイスラエルのための特別な使命を帯びて徴しとなる、とイザヤは言っているように思われる。
 では、こういう時に残りの者はどうなったか。苦しい時代に良く頑張った褒美を受けるのか。そうではない。大いなる光りの現われたところでは、特別な使命に生きるという在り方はなくなるのである。大いなる喜びの中では忍苦のための少数者の使命は終わるのである。
 さて、今日はユックリ学んでいたために、課せられたテキストの半分も進まなかったが、イエス・キリストが世に来たりたもうたことによって、大いなる光りを見、大いなる喜びの中に入れられたことをすでに学び、シッカリ捉えたのである。
 

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