2005.11.27.
イザヤ書講解説教 第36回
――8:19-22によって――
イザヤ書8章19節以下の言葉は、ここまでに語られた言葉より、かなり難しいと思う。これまでの言葉も平易とは言えなかった。それでも、語られた言葉には、預言者イザヤが魂を傾けて語る勢いが籠っていて、分かり難くても分からせられるところがあった。また、語られた時のユダの国の状況がどういうふうであったかはかなり分かっている。だから、預言者に与えられた言葉を理解する手がかりは掴めた。預言者の言葉を理解しようとする時、ある時代状況の中にイザヤを立たせて、そこで語った彼の言葉を聞くのだと捉えるならば、かなり分かって来る。
ところが、19節以下、言葉としてはそれほど難しいとは言えないかもしれない。もっとも、聖書の他の訳を見ると、かなり違った翻訳になっている。原文が古い時代に損なわれたのだと考えられているようである。問題はそれだけではない。どういう時代状況で語られた預言なのか。その状況が見えない。イザヤの預言者活動のどの時期なのか。前後の文章との繋がりはどうなのか。――解釈者はいろいろに考えて、めいめい辻褄の合う説明をしてくれる。しかし、その説明で人は必ずしも納得しないであろう。
前の所では、預言者とその子たち、また弟子たちの一団が証しなのだと言われた。そのこととの続きがスッキリしない。何か脱落があるのかも知れないが、それを突き止めることは出来ないであろう。
この預言の語られた時期であるが、前の記事に直接続いて、シリヤとエフライムがユダを攻撃していた時代と考えることは出来る。おそらく、それが最も無理の少ない続き具合であろう。7章2節に、「王の心と民の心とは、風に動かされる林の木のように動揺した」と言われていたように、その不安の極限の時代に、こういうことがあったと考えることは十分出来る。そう取っておくべきであろう。それでも、この部分には時代の特色は何も出ていないから、別の時代に当てはめても、同じように納得出来るではないか。むしろ、シリヤ・エフライム戦争との結び付きは忘れて、人間の恐怖と不安と不信仰の関係を捉えて置くことに意味がある。
迷うことはない。我々は最も素朴に今日与えられた御言葉を聞き取って行くようにしよう。最も素朴に聞くとは、その時の状況を想像することなく、それを我々の時代と結び付けることも省略し、書かれている言葉を現代的な意味のものとして捉えようとする意識も交えないで、ごく単純にという意味になるであろう。
19節から学んで行く。「人々があなた方に向かって、『囀るように、囁くように語る巫女および魔術者に求めよ』と言う時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか」。
今、口語訳で読んでいるが、それと違う訳が幾つもあり、そちらの方が正しいと断定するのも非常に困難である。また、「人々があなた方に言う」と言われる言葉がどこまでであるかも確定し難い。そこで、人々からの語り掛けは、要するに不信仰への誘いであるから、そういう主旨の言葉がその誘いであると見るようにして置く。
時代については詮索しない。それは分からなくても構わない。すなわち、こういうことは、どの時代にもあるからである。平和な時代なら平和な時代なりに、不安や戦争の時代ならそのような時代らしく、「さえずるような、ささやくような声を求めてはどうか」という誘いがあるのだ。すなわち、神の明らかに響き渡る声に聞き従うことを求めないで、まじない、占い、魔法、疑似宗教、オカルト、そのようなものに求めるべきではないか、という誘いかけがある。それは平穏な時代にも、不安な時代にもある。余分な話しをするが、戦争中、軍隊に取られた肉親の身を案じて、口寄せとか、「コックリさん」と呼ばれる占いが秘かに流行し、当局が取り締まりに手を焼いたという事実がある。
現代は危機の時代だと言われる。その通りであるが、危機の時代なら、人々は真剣になって、神を求め、真実と正義を求めるのか。決してそうではない。むしろ、まことの神への関心を失なって、偽りの神を求め、不真実な生き方を求める人の方が多くなっていると言うべきではないか。
「危機の時代である。だから、真剣に生きようではないか!」という訴えが、聞く人の心に強く響くと思っている向きがあるだろう。けれども、そういうケースはあるかも知れないが、むしろ逆に作用する場合の方が多い。危機意識の呼び掛けは、人々を覚醒させるだけでなく、むしろ眠りに陥らせ、無気力にさせ、真実を証ししようとの志を低め、犯罪に走らせ、迷信や偶像礼拝に興味を抱かせる。我々自身についてもそのような傾向が見られるのではないだろうか。
さて、人々はあなた方に「さえずるように、ささやくように語る者を求めよ」と言う。これは死人を呼び出して、その口になって語る人が、さえずるように、ささやくように語ることを指しているのである。
「さえずるように」と我々の使う聖書では訳すが、ほかの訳の聖書では別の訳語を充てる。いろいろな訳語が試みられていて、どれが正しいかはスグには決められない。が、小鳥がさえずるように、チュンチュンと、浮き浮きと、軽やかに語る説教者を揶揄したことだと考えるのは正しくない。死人の霊が口寄せに乗り移って語らせる術が行なわれる。そこでは、死人の言葉はハッキリ聞き取れないから、さえずるように、あるいはささやくように聞こえるのだ。
これは今日の世界では、「口寄せ」とか「霊媒」と呼ばれ、昔の日本では「かんなぎ」と呼ばれた人、半ば専門的な民間宗教家、術を使う者、19節にある「巫女」、「魔術者」である。こういう人はイスラエルに以前からいて、律法では多くの箇所にわたって禁止されていたことを我々は知っている。一つだけ上げれば、レビ記19章31節、「あなた方は口寄せ、または占い師のもとに赴いてはならない。彼らに問うて、汚されてはならない。私はあなた方の神、主である」。
神の言葉を聞かず、死人の口を通して物を知ろうとすることがいけないのである。聞くべき言葉は第一に神の言葉であるが、その次に、神は人と人との間の語り合いによって得られる知識も人間にとって必要なものと看倣しておられる。死者や死者の世から聞くことはすべきではない。
神の言葉は神御自身が遣わされた使い、預言者、使徒、御言葉の仕え人によって語られる。死人から聞き取るようなことはあってはならない。神の言葉によって生きるべき民には、こういう聞き方はあってはならない。だから、そういうことをする者は殺されなければならない。そのような口寄せに問う悪弊がこの時代に盛んになったのである。
人々が口寄せにすがる因習がどんなに強いかを知る一つの生々しい例を思い起こす。サムエル記上28章に記録された挿話であるが、ペリシテ人がイスラエルに攻めて来た時、その大軍勢を見て、王であるサウルは震え上がってしまった。それで、かつて自分が口寄せをイスラエルから断ち滅ぼす布告をしたにも拘わらず、エンドルにいて秘かに口寄せの業をしている老女のところに、姿を変えて訪ねて行き、すでに死んでいた預言者サムエルを地の下から呼び出してもらい、そのサムエルにうかがいを立てるのである。サムエル記の記事によれば、実際にサムエルは呼び出されて、サウルに対し、神はすでにサウルを捨てたもうたと答える。
この出来事に興味を持ち過ぎては無益であるが、口寄せを禁ずべきだということが分かっていたサウルも、心細くなると、口寄せをさがして訪れ、術を依頼したほど、人間は信仰的に弱いのである。イザヤの時代にも、心細くて、神に縋るのでなく口寄せに頼る人がいたことは本当であろう。
このような行事について耳にする機会は、我々の間では先ずない。だが、多くの国で、民間にかなり広く流布しているオカルトがある。大昔からあって、今日も昔と何も変わらず続いており、進歩はしていない。組織も、制度も持たない民間の宗教で、教理は持たない。完全に秘密ではないが、どちらかと言えば密儀を行なう。表立った布教活動はせず、求めに応じて術を使う人が出向いて儀式をする。死人を呼び出して、死人に語らせたり、行方不明者の居場所を占わせる。私は興味を持たないから見たいと思わないが、見ることは困難ではない。今日もかなり繁盛しているのではないかと思う。
旧約のイスラエル国家は宗教的に良く整えられた社会であったと見られている。律法は他国と比較にならぬほど整っていた。祭司制度は完璧であった。預言者は制度化されなかったし、預言者養成の教育システムはないが、思想的に高度なものであって、受け継がれていた。それでも、イザヤ書のこういう所に、このように書かれていることから分かるのだが、この種の隠れた宗教は裏では行なわれていたのである。これは表立った儀式はしないから、モロクとかバアルの礼拝とは別である。それらの宗教も根絶し難いものであったが、目に見える祭りをし、大々的な供え物をする。サウルが口寄せ女を訪ねる時、変装し、身分を隠したように、これは大っぴらにならない宗教である。
隠れて行事をするのがこれの特徴と言えるかも知れない。この宗教は表立って宗教活動をしないから、伸びるはずがないと言われるであろうが、宣伝はしないが絶滅はしない。隠れて行なう儀式、明白な言葉でないつぶやきだから、かえってそこに魅力を感じる人がいる。一見今の世にはなくなったように思われるが、なかなかなくならない。軽やかで明るいキリスト教が飽きられて、怪しげなオカルトが流行る時代になっているという事実に我々は気付いている。
このような怪しげな宗教について論じることはここで終わりにするが、こういう宗教に心を引かれる要素を、我々の心の内から断ち切らなければならないのは確かである。そのためにはどうすれば良いか。先ほど見たように、神の言葉を神から聞く、神以外の者から神の言葉でないものを聞いてはならない。これが原理である。「民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか」。
神の民が神から聞くのは当然である。しかも、我々の神は生ける神である。人々が手で作った神は、人によって作られた神である。それは生きることも生かすことも出来ない。だが神は命の基であられる。神は存在するというだけでなく、神は生きておられる。神は命の基であると捉えなければならない。
マタイ伝22章32節に主の言葉が記されているが、「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神である」と言われたのである。神は「生ける者の神」と呼ばれることを求めたもう。そして、御自身は生ける者の神でありたもう故に、その神との関わりにおいて、人もまた生ける者とされる。そして、神の言葉は「命の言葉」として告げ知らされなければならない。
御言葉について論じることは幾らでもあるが、平易な面を見るだけでほぼ十分である。我々の神はささやくような語り方を命じたまわない。宣教は公然と余す所なく、隠すことなく行なわれる。御言葉の説教はあからさまに、大胆に語られなければならない。言わんとすることが何であるか分からない。分からないから有り難いのだ、と思われている宗教が現にある。その方に魅力を感じないのか、と誘惑されることが預言者の弟子にあったかも知れない。
しかし、我々の神は御自身を明らかにし、御自身の救いを明らかにしたもう。隠されているところが有り難いというような思いを禁じたもう。神が明らかにされるとは、啓示され、覆いを取り去られるだけでなく、我々の心、魂、我々の理性にも明らかにして下さるのである。神が明らかにされることは、我々もそれに応じて明らかに知るのである。神を知ることを重んじなければならない。それにはまた、神について人々に明らかに知らせるという課題が伴う。
神が明らかにされることは何であるか。御自身の存在を明らかにしたもうということが大切なのか。そう言って間違いではないであろう。しかし、我々は聖書からさらに適切なことばを教えられている。ヨハネ伝1章4節5節に言われる、「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光りであった。光りは闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」。
「ただ教えと証しとに求めよ」と神は言われる。「教え」と「証し」というのは、神の与えたもう教えまた証しであることは言うまでもない。その教えと証しの意味を詳しく論じることは今は要らないと思う。この節で言う教え、これは掟、律法と読んでも良いし、教理と取っても良い。我々は神からひたすら教えを受けようとするのである。神は荒野で40年に亘って民をマナによって養いたもうたが、それは、人の生きるのはパンによってでなく、神の口から出る全ての言葉によるということを分からせるためであった。教えは要するに救いである。
神はまた「証しを求めよ」と命じたもう。証しは神が御言葉に伴わせて与えたもうものである。神は真実であられるから、その教えは真実であって、必ず実を結ぶ。それが証しである。証しとは要するに確かさである。証しを求めるとは、簡単に言えば信仰の確かさを求めなければならないという意味を籠めている。
口寄せを通して死人の言葉を聞いて、何かが分かったような気がしたとしても、それが信仰の確かさになるであろうか。むしろこういうものは確かさの前では崩壊して行くほかないものではないだろうか。
「まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない」。危機が来ているのに、その危機を切り抜けようとして、ますます神を怒らせるようなことをすれば、ますます解決がなくなる。
「彼らは虐げられ、飢えて国の中を経歩く。その飢える時、怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神を呪い、かつその顔を天に向ける。また、地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみの闇とがあり、彼らは暗黒に追いやられる」。
こうして国は失なわれ、人々は囚われ人になる。彼らの不信仰が彼らを追い詰め、彼らはいよいよ希望のない境域に押しやられて行くのである。それは昔の話しとして聞くのではない。