2005.10.30.
イザヤ書講解説教 第35回
――8:16-18によって――
「私は証しを一つに纏め、教えを我が弟子たちのうちに封じて置こう」。……イザヤがこう言った時、どういう気持ちであったかを察するのは、それほど困難でない。預言者としては御言葉を主の民に伝えなければならない。ところが、殆どの人々は聞こうとしない。使命を果たすことが出来ない無念さを覚えながら、自分の語る御言葉を聞いてくれる僅かな弟子たちを顧みて、この人たちにシッカリ語って置こう、と言っているのではないか。このように想像することは比較的容易である。――人生の苦難を何ほどか嘗めた人なら、そして一生懸命使命に生きる人を尊敬する人なら、イザヤの姿に感動することが出来るであろう。
しかし、これはイザヤ書を文学として読んでいるだけである。イザヤ書は確かに文字で書かれたものだから文学である。書かれているのはノンフィクションである。だが、今、我々は文学鑑賞をしようとしているのではない。神が我々に与えたもうた言葉を今ここで聞こうとしているのである。イザヤが神との間でどんな葛藤を味わったかを偲ぶのではなく、私自身が主から何を聞くかということが眼目でなければならない。
「証しを一つに纏める」とはどういうことか。「証し」とは神が御言葉によって証ししたもうたこと、つまり、イザヤを通して語られた預言である。それが結局聞かれないままに一つの時期が過ぎ行こうとしているが、散り果てることがないように、これまでに語られた言葉を纏めて置こうというのであろう。
語っても、語っても、御言葉は人々の耳を素通りして飛び散って行くではないか。だから、それが散逸しないように括っておこう、と言っているようだ。纏める、あるいは括るとは、比喩として、散り失せないように纏めて置くというだけでなく、紙とか、板とかに書き留めて、それを束ねて縛り、保存しておこうということではないかと考えられる。8章の初めでも「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」という預言が大きい板の上に書かれた。それは何のためか? 今は聞かないけれども、やがて必要とされる時が来る。その日のために、御言葉を保管して置こう、という意味に違いない。この次に書かれている「教えをわが弟子たちのうちに封じて置こう」という言葉と、主旨としては同じことを言ったのである。
しかし、疑問が持ち出されるであろう。今聞かないならば、先で聞きたくなっても、もう聞けないのではないか。御言葉は聞くべき時の過ぎ去らぬ前に聞くべきではないか。近くいたもう時に聞いて置くべきではなかったか。確かにそうである。先日も学んだように、聞こうとしても御言葉の飢饉が始まっていて、どんなに真剣に求めても、命を得させる御言葉はもう聞けない、そういう日が来るのである。
これは確かなことである。が、もう一つ考えて置かねばならないことがある。神の差し出しておられる御言葉を、人々が無視したならば、消えてなくなったのも同然だということは、譬えとしては言える。けれども、本当に無になってしまうのであろうか。これは落ち着いて考えて見なければならない。差し出された御言葉が受けるべき人によって受けとめられなかったなら、風に散る籾殻のように消え去ってしまうのか。
そうではない。少なくとも、御言葉が語られたという事実は消されずに残る。御言葉が語られた歴史は動かせない。御言葉は、それを信仰をもって受け入れる者には永遠に至る命となる。では、聞かなかった者にとってはどうか。何もなかったのと同じか。そうではなく、当人は何もなかったと同じであると思ったとしても、語られたのに聞かれなかった事実の証拠として残るのである。
少なくともそうだということを我々は知るのであるが、それだけの理解に留めてはならないであろう。イザヤ書55章10-11節は、「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、我が口から出る言葉も、むなしく私に帰らない。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを果たす」と記される。御言葉は空しくなることが出来ないのである。
イザヤが「御言葉を纏めて置く」と言ったのは、聞かれないで突き返されたこの反逆の証拠品として、裁きの日まで残して置こう、ということだったのか。それとも、今は聞かれないけれども、丁度日食の時、太陽は顔を隠すが、やがて顔を出すように、人々が恵みの光りに照らされて御言葉を聞く時がくる。だから、その時のために取っておく、ということなのか。
この問題は我々には難し過ぎる。そして、スグに答えられなくても良いのではないか。大事なことは、御言葉が聞く者にとっては一回限りの、運命的とも言えるほどの状況で与えられるものではあるが、御言葉それ自体としては、儚く消え失せるものではなく、動かない実体だということである。
したがってまた、イザヤのように御言葉を語る務めに立てられた者は、人々が聞かなかったとしても、悲しみと諦めをもって引き下がり、内に引きこもって、「もう終わった」と言って戦いを止めるのではない。御言葉を纏めて、確かな場所に取って置く。御言葉を語った者は語った事実についての証しを保管して置くのだ。すなわち、御言葉の永続性の証しを地上に残さなければならない。
「教えを我が弟子たちのうちに封じて置こう」。――これは、先の句の同義語反復であると見て良いが、幾分発展したところが見られるのである。「弟子たち」というのは、18節に「主の私に賜わった子たち」と言われるのと似た意味を持つと見て良いのではないかと思う。すなわち、イザヤの子たちには、「シャル・ヤシュブ」とか、「インマヌエル」とか、「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」とか、それぞれその時イザヤが神から託されて語っていた預言がそのまま名前として子供らに与えられたのである。すなわち、人は預言を聞かなかったとしても、預言の言葉は子供たちの名前として残っている。その名を持つ子らは、預言者の家族・肉親というだけでなく、弟子であるし、またイザヤの使命に参画する同志であった。
また一方、子供ではないが、イザヤに随いて行く弟子たちがいる。それは少数の残りの者であった。そして彼らは預言者の同労者でもあった。子供というのと弟子というのは意味が重なり合っている。弟子たちは預言の言葉を自分の名前としたのではないが、聞いた言葉をわがうちに封じ込めている。封じ込めているとは、その言葉によって生きるという意味があるとともに、御言葉が語られたという事実の確かな証しとして保っているということである。
16節で語られた言葉には、「こんなにも重要な御言葉が聞かれていない」という無念さが籠められているように読み取られるが、もう一面、希望があるから、御言葉が聞かれなかったとしても、諦めて、御言葉を語ることを捨ててはならない、という意味が含まれている。預言者が深い悲しみの中でこれを語ったのは事実であるが、ここに希望が残されていたということも事実であり、これこそ重要である。
「主は今、ヤコブの家に御顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる」。イザヤは惨憺たる結果になったように見られるかも知れないが、敗退しようとしているのではない。彼はここで希望を表明している。
神が「顔を隠したもう」という言い方は、旧約聖書、特に預言者たちの表現としてよく聞く比喩である。非常に適切な言葉である。
「神は生きておられる」。これは動かない、そして基本的な事実である。だから、神がいなくなったとか、神が死んだというような言い方は信仰者には出て来ようがない。それでは、絶対者である神と、神の実在に一たび触れた者との間には、つねに生命的な交わりがあるのかというと、そうであるべきだが、しばしばそうでないことがある。これが信仰者なら何度か経験している現実である。
本来、信仰は種が発芽し、成長し、実を結ぶという譬えで示されるように、信仰より信仰へという歩みを辿るべきである。信仰からまた不信仰に逆戻りして、そこからまた信仰に立ち返るのだと自分の体験に照らして論じる人がいるが、信仰が本来そうだと定義することは危険な遊びである。逆戻りしている時に終わりが来たならば、永遠の滅びに留まる他ないではないか。信仰は本来、一直線のものとして捉えるべきである。しかし、現実には紆余曲折することがあっても驚いてはならない。
これは信仰がフラフラしているから、神が分かったり分からなくなったりするということと同じではない。信仰がフラフラしているという事実があることも否定できないのであるが、それを何か意味あることのように尤もらしく論じるのは、ハッキリ言って理論遊びに過ぎない。だから自分にとっても他の人にとっても、何の益もない。そういう遊びは止めなさいと言わなければならない。
全く真剣に神を信じていて、しかも躓くという場合はある。それを聖書は「神が顔を隠された」と譬えによって表現する。神はそこに生きておられるから、神の存在ということなら疑う余地はない。しかし、神がその御顔を隠されると、神があるという点では間違いないのであるが、神との交わりは断たれている。
哲学者が論じる程度に「神は存在する」と言うことであれば、いつでも問題なしにそう言える。しかし、神が私に対して恵みと真実をもって人格的に関わっていてくださるということについては、そのように断言することが非常に難しい不幸な時、躓きの時が事実上ある。
この事情について詳しく論じても弊害はないし、信仰の理解として有益だと思うが、今日与えられている聖書の学びとしては時間を取り過ぎることを私は恐れる。この問題に触れ、深入りする機会はまだあるであろう。だから今はここで止めるが、ただ、最後にこの件で一こと触れて置く方が良いと思うのは、イエス・キリストが十字架の上で、「我が神、我が神、何ぞ我を見捨てたまいし!」と叫ばれた事件である。イザヤに対して神が顔を隠したもうた事件と同じだと言うならば粗雑過ぎて全く問題である。しかし、或る意味では似ている。そしてイエス・キリストが十字架の上で神から捨てられたことを経験したもうたその事実の光りに照らして見るならば、神が御顔を隠したもうという謎めいた悲劇の意味が分かって来る。解決が一挙に来る。
主イエスが十字架上で最後の苦闘をしておられた時、昼頃から3時まで、太陽が光りを消したと福音書に書かれている。これは皆既日食が起こったのと同じである。ただし、あの日、皆既日食が起こったのでないことは確かめられている。では何が起こったのか。神が顔を隠したもうことが起こったのである。神が顔を隠されたとは、いわば日食のようなものであることに我々は思い至るであろう。太陽はあっても光りは届かなかったのである。
しかし、日食の時間は間もなく終わる。神の御顔は再び輝くのである。イザヤとその子ら、その弟子らは、光りの見えない長い長いトンネルに入って行ったのではなく、間もなく光りのもとに出た。ただし、日は再び輝いたとはいえ、苦しみの時が1-2分で終わったように簡単に考えてはならないであろう。
御言葉を語っても語っても人は聞かない。それでも語らねばならなかった。とうとう一生掛かった。これは6章で読んだ通り、預言者としての使命を担った日から、イザヤに負わせられた課題であった。思い起こして置こう。
「私はまた主の言われる声を聞いた、『私は誰を遣わそうか。誰が我々のために行くだろうか』。その時、私は言った、『ここに私がおります。私をお遣わし下さい』。主は言われた、『あなたは行って、この民にこう言いなさい、「あなた方は繰り返し聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなた方は繰り返し見るが良い。しかし、分かってはならない」と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえ難くし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めて癒されることのないためである』。
そこで私は言った、『主よ、いつまでですか』。主は言われた、『町々は荒れ廃れて、住む者もなく、家には人影もなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れ果てた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる』」。
預言者としての使命が始まったその日にこのように申し渡されたのであるから、「主よ、いつまでですか」という問い掛けは繰り返される。それでも、希望が与えられているのであるから、待つことは出来る。「主は今、ヤコブの家に御顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる」。
「ヤコブの家に御顔を隠したもう」。神はイザヤに対して御顔を隠したもうただけではない。ヤコブの家に対し、すなわちイスラエル全家に、顔を隠しておられる。ということは、やがてイスラエル全体に恵みの回復の時を来たらせたもう、という含みがここに籠められているのであろうか。それにしても、イスラエルの全家は来たるべき輝かしい日の到来の預言を聞いても受け付けない。だから、神は顔を隠したもうたままで時は空しく過ぎる。
預言者も民衆もひとしく待たなければならない。しかし同一の条件に置かれているのではない。預言者は光りがないけれども光りがあるのと同じだと知っているので、光りがあるように待つ。民衆は預言者に聞く限りは、光りが来るのを捉えるのであるが、預言を聞いていないから、希望において光りを捉えることはない。
預言者と民衆のほかに、預言者の子らと預言者の弟子が立つ。彼らは預言者と共に立つ人々である。「見よ、私と、主の私に賜わった子たちとは、シオンの山に在ます万軍の主から与えられたイスラエルの徴しであり、前触れである」。
預言者もその子と弟子はイスラエルの徴しであると言われる。ところで、今回学ぶ箇所と次回の箇所は、私自身にとって本文そのものがかなり難解である。いろいろなことに触れながら意味を解き明かして行かねばならない。とても時間が掛かる。だから、解き明かしとしては略式であるが、簡単に言える言葉だけをもって語ることにする。
ここではイザヤとその子たち、また弟子たちもこれに含まれると取りたいのであるが、それらの人間、生身の人間、これが御言葉に添えられる「徴し」なのである。8章の初めで見たのは、「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」と書かれた大きい板が徴しであったが、今や人間が徴しになっている。
これは我々に大きい示唆を与えているのではないか。今、人々はますます御言葉に耳を背けるようになっている。イザヤの言葉が疎んじられたのと、我々の語る御言葉が今疎んじられていることとが、重なり合う。その時、ハタと思い当たるのはイザヤから御言葉を聞いて受け入れる人たちが、イスラエルに対する徴しなのだと言われることである。我々が徴しとしてこの時代に生きていること、これは希望があるということの徴しなのだ。