2005.09.25.


イザヤ書講解説教 第34回


――8:11-15によって――

 

 

7章の初めから見て来たように、神はユダの国の政策について預言者に教え、預言者はそれをアハズ王と、官僚たち、また国民全体に語った。それは政治色濃厚なメッセージであったと言える。

 しかも、ここで聞く教えは、同時に、旧約聖書の歴史の中で最も重要な面であり、神信頼、神礼拝、信仰生活の在り方にとって最も特徴的な教えである。「政治的」と言ったが、我々の頭にある世俗的な所謂「政治」、権力の権謀術策のようなものを考えていては、凡そ的外れになってしまう。ここで我々が目を向けなければならない「政治」は、霊的なこと、永遠的なこと、神による神の民の統治である。

 今日、我々は己れの国の政治情勢、また世界の政治情勢を真剣に考え、そして悩まずにはおられない自分自身の実状を思い起こす。これは、この時代の中で、「みこころの天になる如く地にもなさせたまえ」と祈る神の民として生きようとするものにとって、第一義的な要件である。けれども、その要件は我々が新聞の第一面、第二面をシッカリ読み、政治運動に深入りするというようなことと別に関係はない。

 今日学ぶ11節から15節の箇所は、前回、その前からの続きとして読んだところである。今、ユダの国はスリヤとエフライムという二つの国と戦争状態にある。ユダ王朝の戦争政策は、これら二つの国の背後にあるもっと大きい国アッスリヤを味方として引き寄せることであった。

 国としての精神的また政治的独立を半ば捨てて、大国に従属することによって小国ユダの安全を保とうとするのが、アハズの政策であった。神はこの国の真実の主権者として、それに反対するようにと、預言をイザヤに命じて語らせたもう。大きい軍事力を持っている国に寄りそっておれば安全である、という一見もっともらしい政策は、三つの理由によって退けられねばならない。

 第一は、武力を頼りにすることは、すなわち神への信頼を抛棄することである。

 第二に、アッスリヤの助けを引き入れることは、アッスリヤによる禍いを引き入れることになる。

 そして、第三に、アッスリヤの助けを待つまでもなく、スリヤとエフライムは近い内に滅びるのである。

 分かり易さから言えば、第三のものが最も明快なのである。しかし、これに賛成する人は殆どいなかった。スリヤとエフライムの滅びは間もなく見えて来る事実であるが、今は見えていない。人々は見ていないことは信用出来ないと言う。では、見えていることなら確かなのか。………必ずしもそうでないことを賢い人なら知っている。すなわち、見えることよりも見えないことの方が確かな場合がある。それでも、常に見えないことの方が確かだとは言えない。見えない方に賭けて失敗する例が世間に少なくないということを普通の判断力ある人は承知している。

 実物が証拠として示されるのでなければ、信じられないではないかと言われるが、実物が示されてから信じても、それは信じることにはならない。見えることを見えると言うだけである。「目に見える望みは望みでない」とローマ書8章4節は言うが、目に見える信仰は信仰にならない。信ずるとは、見えないことをまこととすることだとヘブル書11章1節は教える。

 それでは、見えないことを信じて、ハラハラしながら緊張感を持って生きること、これが信仰の醍醐味であるか。信じた通りのことは起こらなかったが、緊張を保ちつつ生涯を生き通したなら、それで十分意義があったではないかと言う人はいる。それはこの世の知恵の一種であるかも知れないが、自分を偽って元気付けることである。そこには希望がないではないか。見えないけれども信じたことは、ついには見えるのである。別の言葉で言えば、約束は成就する。我々が信じるのはそれが神の約束の言葉であって、必ず成就するからである。スリヤとエフライムは、預言者イザヤを通じて語られた通り、滅亡したのである。

 信仰の確かさは神の言葉の確かさに懸かっている。我々の知識も。我々の命も、生き方も神の言葉に懸かっている。そのように生きるのが神の民である。その生き方について今日は学ぶ。

 11節、「主は強いみ手をもって、私を捕え、私に語り、この民の道に歩まないように、諭して言われた、『この民が全て陰謀と唱えるものを陰謀と唱えてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。あなた方は、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ。彼を恐れねばならない』」。

 「この民の道に歩まないように……」。「この民」の道とここで神が言われたものは、本来の「この民」の歩むべき道ではなかった。この民は本来の道を逸れて、行くべからざる方向に向かっていた。

 本来の道がどういうものであったかを我々は知っている。それは主の民の歩むべき道である。神は世の多くの民族の中から、アブラハムを選び出し、彼を召し出して、まだ見ぬ国に向けて歩み出させたもうた。そしてアブラハム及びその子孫と契約を立てたもうた。それが神の民の道であって、主の民は右にも左にも曲がらず、この道をひたすら歩まなければならない。

 主なる神はこの民に、「あなたの子孫によって世界の全ての民は祝福される」と約束したもうたが、祝福を受けるとの約束は、同時に主の民の使命という意味を含んでいる。この契約をさらに詳しく規定するために、430年の後、律法が与えられる。主の民は心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛し、また己れを愛するように隣り人を愛すべきである。

 しかし。この民は、警告が繰り返しなされていたのに、本来の道を捨てて、神と契約していない民と同じ道をとってしまう。それに対する警告の使命を持つ預言者は、自らそういう道に歩まず、主の民の道を歩み通さねばならない。

 「この民が陰謀というもの」。――イザヤは人々から「陰謀家」と罵られていたようである。二つの大きい国が連合して攻めて来ても、何もしなくてよい。アッスリヤに貢ぎをもって行くことは止めよ、と言う。多数者がしていることに反対するのはどこの世界でも陰謀と呼ばれるのである。陰謀という言葉は忌むべきものであって、そう呼ばれることも避けたいという感じはある。しかし、人が陰謀と言うから陰謀であると思ってはならない。人々の方が間違っている。

 陰謀という言葉を今言ったような意味に取ったのであるが、別の解釈をする人もいる。これは7章6節に引かれているが、エフライムとスリヤの同盟、「ユダに攻め入り、アハズを王座から追放し、タビエルの子を王にしよう」と言っていた陰謀ではないか、と解釈する人がいる。7章7節に、神が「この事は決して行なわれない」と言っておられるのであるから、陰謀と呼ぶにも値しないという解釈は出来るかもしれない。また、アハズが秘かにアッスリヤと連絡を取っていたことが陰謀と言われるのだという解釈もある。しかし、先に言ったような解釈で良いであろう。

 世の多数者の言うことに逆らうのは容易なことではない。迫害を受ける。民衆が迫害し、権力が迫害する。こうして命を落とさねばならないようなことにもなる。一国の国策であるから、国家は反対者を排除しようと躍起になる。排除されるよりもっと苦しいのは考えを変えさせられることである。神の御旨であると信じていたが、周囲の人間と余りに違いすぎるから、自分の考えを変えなければならないのではないかと思うようになることは決して稀ではない。

 イザヤがこの時置かれていた状況はこのようなものであった。その時、預言者は「主が強いみ手で私を捕えておられる」のを現実に感じる。それは「強い手で」ある。その手で捕えられると身動きも出来ない。先に言っていたのと違うことを言おうとしても言えないようにされているのである。物凄い強制力、しかし他面、それは安定である。

 こういうことは、日常的な経験をもとに理解されるものではない。これは神の計画に関わることであるから、人間の判断の範囲を越えたこととして捉えなければならない。神が決定し、一たび預言者を通じて語らせたもうたことが、預言者の判断で変わるようなことがあってはならない。強い手で捕えられるとは、イザヤの信念の問題ではなく、神の計画実施の問題である。

 「あなた方はただ万軍の主を聖とし……」。ここに主の民の特質がよく表されていると思われる。聖ということは多くの宗教で言われている。聖なる物がいろいろと造られ、飾り立てられ、飾りが沢山あるほど有り難いとされる。しかし、主の民の道においては主のみを聖とせよ、と命じられる。

 なお、ここには「あなた方」と言われる。11節はイザヤ個人が神のみ手に取り押さえられる経験であるが、12節以下で、主の命令される言い方は複数形の動詞である。すなわち、イザヤ一人でなく、イザヤとともに神の命令に従う小集団がいたと考えられる。このことについては次回、16節以下でも学ばなければならないから、今は一こと触れるだけですませる。

 次の御言葉に移る、「主はイスラエルの二つの家には聖所となり、また妨げの石、躓きの岩となり、エルサレムの住民には網となり、罠となる。多くの者はこれに躓き、かつ倒れ、破られ、罠に掛けられ、捕えられる」。

 ここは前の部分よりさらに難しいと言われる。そうかも知れない。しかし、信仰の姿勢がさらに明確に問われる所であるから、信仰の姿勢が何かが捉えられれば、全体はもっとハッキリしてくる。

 「イスラエルの二つの家」には、と言われる。これは7章17節にも触れられたことであるが、本来一つであった12氏族からなるイスラエルの家、これがユダとエフライムの二つの王国に分かれて争っているという事情があり、しかも本来は一つであって、どちらも主が聖所となりたもうべきであるという事情を指摘しておられるものと読まなければならない。ユダの側からは、北王国はもう失われてしまったかのように見られることが多かったようであるが、神はヤコブから出た12氏族の統一を無視したまわないことが読み取られるのである。

 南のユダから見ると、北王国はエルサレムにおける礼拝を無視し、エルサレムに礼拝に行くものは少数しかいない。宗教的堕落は進んでいるように見られていた。だから早く滅亡したのである。しかし、イザヤ自身の感覚がどうであったかは別問題として、神は北王国も御自身の民のうちに置いておられる。

 「二つの家には聖所となる」と言われるが、今言ったように、北王国ではエルサレムの聖所を尊ぶ人は、全然いなかったのではないが、少なかった。それでも、神は二つの家を同列に扱っておられる。

 また、「二つの家には聖所」と言われる時、「聖所」となるべきところだが、現実は、「妨げの石」になってしまったという頽落を強調するものと読むべきであろう。

 聖所は、主なる神が「私の名を置く所」と言われる所である。つまり、神は全地を満たしておられるが、神の現臨を明らかにするため、「神ここにいます」と宣言されているというのと同じ意味の所である。ユダとエフライムにとっては。二つに分裂していてもなお常に「神ともにいます」という現実が神御自身の故に言われるべきであった。

 しかし、実際はその逆になっている。信仰をもって受くべき約束を、約束として相応しく受けいれていない不信仰者にとっては、約束は空しい。いや、それがゼロになるというのでなく、マイナスに算定される。滅びなのである。

 妨げの石とは信仰の観点から言うものであって、信仰を増し進めるのでなく、妨げて、留めるのである。本来、信仰は、「信仰より信仰へ」という聖句があるように、歩んで行くものである。不信仰から信仰へという方向があることは我々も良く知っている。もともと信仰のない所から出発する。恵みによって無信仰から信仰への転換が起こる。しかし、一たび信仰に生き始めたならば、信仰を起動力として信仰に進むのである。ところが、妨げの石があると、止まってしまう。止まるとは、それ以上進歩がないということとは違う。歩むことが生きることである信仰にとっては、止まることは飛行機の失速と同じで、墜落なのである。妨げの石にブチ当たったなら破滅である。

 「躓きの岩、妨げの石」というような同じ意味の言葉が連なっているが、旧約においてはこれらの言葉は全てマイナスの意味しか持たない。新約においては違う。新約においては、「躓きの石」という言葉がマイナスの意味を持ちつつ、プラスに逆転しているのである。

 今、ここで詳細に論じることは時間的に無理であるから、深入りしないが、キリスト教会の初期、使徒たちが懸命に聖書を読んで次々と新しい発見をしていたことは、使徒行伝の学びを通じて知っている。「躓きの石」の新しい読み方もそのようにして発見されたのであろうと思われる。

 ローマ書9章33節にイザヤ書からの引用がこういう言葉で読まれる。「見よ、私はシオンに、躓きの石、妨げの岩を置く。それに寄り頼む者は、失望に終わることがない」。この引用のもとの文章、それはイザヤ書28章16節であるが、こう言う。「見よ、私はシオンに一つの石を据えて基とした。これは試みを経た石、固く据えた尊い隅の石である。信ずる者は慌てることがない」。
 ローマ書に引用されたイザヤ書の旧約の言葉には「躓きの石、妨げの岩」という言葉はない。「試みを経た石、固く据えた尊い隅の石」という言葉なので。これが入れ替わって「躓きの石」が入って来た。すなわち、キリスト者たちは、イザヤ書28章16節をキリストの預言またキリスト証言と読み取ったのである。そこで、キリスト証言の主旨をよりよく生かすために、躓きの石、妨げの岩という言葉を当てはめたのである。
 シオンに置かれた躓きの石、それは人々が躓いたキリストである。しかし、躓いた人たちが殺したキリストは、復活されて、躓きに勝利された。それ故、躓きの石はもはやマイナスのものでなくプラスに転換した。

 我々は使徒行伝の学びにおいて、4章11節で、「このイエスこそはあなた方、家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石なのである」と使徒が言うのを聞いた。家造りうんぬんの言葉は詩篇118篇から引いたもので、この詩篇も初代教会において良く用いられたことは有名である。

 捨てられた石、それこそが最も重要な石であったことが明らかになったのと良く似た経過で、「躓きの石」が「寄り頼むべき石」となったことが分かる。そこから、イザヤ書8章に戻る。「多くの者はこれに躓き、かつ倒れる」と言われるのであるが、ここにキリストの光りを当てるならば、躓きを越えて信仰に立ち上がる道が見えて来る。

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