2005.07.31.
イザヤ書講解説教 第32回
――8:1-4によって――
「主は私に言われた、『一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい』。そこで私は確かな証人として、祭司ウリヤ、およびエベレキヤの子ゼカリヤを立てた」。
「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」、これが預言者イザヤのここで宣べ伝える預言のテーマである。この続きに示されるように、イザヤは次に生まれる我が子に「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」という名をつけるのである。それは、マヘル・シャラル・ハシ・バズという字を書いた約10ヶ月の後である。
すでに見て来たが、彼はおそらく長男であると思われる子にシャル・ヤシュブという名をつけておいた。それが生まれて、どれ位大きくなったかは分からないのだが、とにかく、このシャル・ヤシュブを連れて、王に会いに行って預言する。その預言の主題と関係あるのがシャル・ヤシュブという言葉である。次に、二番目の子ではないかと思われる子にインマヌエルと名付けた。そして、これから生まれる子にはマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けようとしている。
旧約時代の人の名の付け方がどういう慣例になっていたか、良く分かっていないが、今あげた三つの名前は、聖書歴史の中に一度しか出て来ないもので、イザヤの時代にも聞き慣れた名であったとは思われない。多くの場合、名前は知人や縁故者、先祖などから貰うものであった。このことは、その名の人が神から受けた祝福が知られていて、それを受け継ぎたいとの願いを籠めたという事情である。だが、イザヤの子たちは受け継ぐべき名を貰わなかった。全く独自な名であった。この子たちは、この名を持つことを使命として生きた。
すでに繰り返し触れたことだが、イザヤの息子の名にはそれぞれ意味があって、それはイザヤがその時期に語っていたメッセージである。その預言が、言葉で示されるだけでなく、生きている人間をそのまま徴しとして、言葉で語られる事柄を目で見ることの出来るものとし、一層固くしようとするものである。
父親の使命のために息子が犠牲になって、奇妙な名をつけられて、物笑いにされたのは、人権の損害であると見る人もいるであろう。そうかも知れない。しかし、父が使命に生きた故に、子もまた生まれた時から使命を担って生きるよう定められたということは、余り例のない大きい祝福であったと言うべきであろう。
このような仕方で全ての預言者がつねに正式の預言を語らねばならなかったわけではない。預言の度に一人ずつ子供が生まれねばならないということが原則になることはなかった。これはイザヤ個人について見ても例外的な三つのケースと言う方が良いであろう。
しかし、預言者が、言葉を語るだけでなく、多くの場合、象徴的な何かの目に見える物や行動を伴って預言したことは一般的な原則になっていたことを思い起こすべきであろう。我々は文字として書き残された聖書によって、預言者の語った言葉を聞くのであるから、預言者を「ことばの人」というふうに考える。それは間違った捉え方ではない。もしも我々が預言者の立居振る舞いまで真似しなければならないということになったなら、ちょうど役者がその人に成りきって演技しようと修練を重ねるように、一面では、言葉だけで学ぶ以上の何かが掴み取られるかも知れない。けれども、他面、どういう身振りを預言者がしたかということを詮索して、預言者劇を演じて、それで預言の理解が深まり、預言者の精神が身に付くということはないと見て良いであろう。
それでも、旧約の預言者の語った預言が、多くの場合、具体的な象徴を伴っていたことは忘れてはならない。イザヤは裸の恥を人前に曝して生きた。エレミヤは、軛を首につけて生きた。その真似はしない方が健全であると思われるが、彼らが言葉を語りながら、言葉が陥り勝ちな、不確かさ、忘却あるいは失念、口先だけで全てを処理するという無責任、具体性を欠く抽象、印象の軽さ、などの弊に陥らなかったことは、今日、福音が語られ・聞かれる場合にも思い起こさなければならない。
「福音」という名称は、喜ばしいおとずれとして語られる全ての言葉と事柄に当てはめることが出来るのであるが、我々は福音が、どこからでも見つけ出せるものでなく、イエス・キリストにおいてこそ、真実に、また確実に、確定的に示されたと捉えている。すなわち、肉となりたもうた永遠の言葉においてこそ捉えることが出来るのである。イエス・キリストはお語りになった言葉を世に残したもうたが、そのお言葉が語り継がれて行くだけでなく、「これは私の体である」との御言葉のもとに守られる聖礼典をも残し、「私の記念としてこのように行なえ」と命じたもうたし、また「私の肉を食し、私の血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない」とハッキリ言われたのである。
福音の説教者は「福音を宣べ伝えよ」と命じられているのであるから、託された福音の御言葉を間違いなしに語れば十分である。イエス・キリストを髣髴とさせるような顔かたちや姿にならなくても良い。ではあるが、イエス・キリストの言葉が、ただの言葉として語られれば、それで十分だとしたもうのではない。彼は御言葉が語られるところに、御霊の働きを伴わせたもうではないか。また、み言葉に伴う徴しをしばしば添わせたもうではないか。
だから、「御言葉のみ」という主張は命がけで守らねばならないものではあるが、その口真似に過ぎない、軽々しい、また無責任な言葉にすり替えられ、言い訳の口実に悪用される危険がある。譬えを借りるとすれば、こういうことであろう。人が歩けば、その後に影がついて行く。影がなければ幽霊である。そのように、御言葉が語られるところには、謂わば御言葉の影がついて行く。影がないならば、御言葉らしく見えていても。御言葉を模した幻影に過ぎない。譬えとして、またこうも言えるのではないか。部屋の中で、あるいは野外で歌を歌う。その歌声には必ずエコーが着いている。好いエコーもあるが良くないエコーもある。――その影の役を演じるもの、あるいは御言葉のエコーを響かせるもの、それが御言葉の証し人の全存在、しばしば家族の暮らしをも引き込む生活であると言うことが出来る。
預言者の場合には、言葉のほかのものがいろいろあったが、新約の時代には言葉だけになったと言って良いであろう。しかし、軽々しい意味でそう言ってはならない。軽いものとして語られたならば、言葉は吹き去る風に過ぎないのである。そのようなものによって人が命を得ることはない。
さて、イザヤの子たちの名であるが、シャル・ヤシュブは「残りの者は帰って来る」という言葉である。インマヌエルは「神は我らと共にいます」である。いずれも、この名前だけで福音があると言える。三番目のマヘル・シャラル・ハシ・バズは「速やかな略奪、急な戦利品」の意味である。これは福音とは言いがたいかも知れない。しかし、確かにイザヤの伝えた預言そのものであることは後で見る通りである。
それは先ず大きい札あるいは板に書かれる。どういう物であったかは正確には言えないが、何のためであったかは明らかであるから、その目的から実際の物を推量することが出来る。その通りの物でなくても良い。多くの人に訴えるためである。強い印象をもって呼び掛けるためである。また、その訴えがなされたことの証しが確かなものとして、後の時代まで残るためである。
人々は、すでに前の章で見た通りであるが、エフライムとシリヤの連合軍が攻めて来ていることで、林の木々が風に騒ぐように怖じ恐れている。彼らの見るところでは、攻めて来ている軍隊はユダよりも強い二つの国の連合軍である。どういう成り行きになるかは言うまでもない、と彼らは思っている。だから、ただただ恐れる。
しかし、神は今見えている状況の次の段階を用意しておられる。それはまだ隠されているが、人々には隠されているというだけで、確実なことなのだ。そして、神はその隠されたことを預言者に見せ、預言者はそれを語る。
今、隠されていて、間もなくあらわになること、それはエフライムとシリヤの蒙る略奪である。アッスリヤによる略奪である。エフライムもシリヤも滅亡するほかない。その日は近づいている。
人々は「見えていないことだから、信じられない」と言う。しかし、人が信じようと信じまいと、今見ることの次の段階が神によって準備されている。その今見えないけれども既に備えられているものを、信仰によって把握するのが神の民の使命ではないか。確かに、次に起こることを言い当てるのは我々には無理である。しかし、神がこうであると示されることを「然り、アァメン」と受け止めることは出来る。それこそが今必要なのではないか。
イザヤは主から言われた通りにした。そのことの記録は第三者が書き留めたのでなく、イザヤ自身が書いた。後世への彼自身による報告書である。
一枚の大きな札を取れ、と主は言われた。札と訳されたのは板と言った方が良い。これを羊皮紙と訳したり、巻物と訳している聖書もあるが、言葉の訳としてはそれも考えられなくない、それでも板の方が多分正しいであろう。それが「大きい板」でなければならないのは、多くの人にこの字を読ませる必要があるからであると考えられる。
ハバクク書2章2節に「この幻を書き、これを板の上に明らかに記し、走りながらも、これを讀み得るようにせよ」との御言葉があるが、イザヤの場合も同じではないかと思われる。走りながら読んでも読めるほどハッキリ、大きく書かれねばならない。今なら伝道会の立て看板を出来るだけ大きいものにしたいと考えるようなものである。
多くの人に読ませるのは、多くの人に信じさせるためであると言って良いであろう。しかし、宣伝効果という観点から理解しては間違いになる。すなわち、こうして示されたけれども、殆どの人は信じなかったのである。では、イザヤやハバククのしたことは空しかったのか。
そうではない。人々は「そんな物、私は見ていない」と言うことが出来ないほどハッキリしたもの、また印象的な文字を見させられたのである。しかし、信じなかったのである。
さらに、もう一点考えなければならないことがある。イザヤが二人の証人を呼んだのは何故か。ここで作成した文書が間違いなくアモツの子イザヤによって、間違いなく何年何月何日どこで書かれた文書か、これが正式に作られた文書、証拠となる文書であると証言するのは誰と誰であるか、これらの事項がその文書には記された。
イザヤが証人として呼んだのは祭司ウリヤと、エベレキヤの子ゼカリヤであった。ウリヤについては列王紀下の16章で知られた人である。その10節に言う、「アハズ王はアッスリヤの王テグラテピレセルに会おうとダマスコへ行ったが、ダマスコにある祭壇を見たので、アハズ王はその祭壇の作りにしたがって、その詳しい図面と、雛形とを作って、祭司ウリヤに送った」。それに続いて祭司ウリヤが行なった神殿内の模様替えについても記録されている。
ウリヤは大祭司ではなかったらしい。しかし、神殿の大事なことを取り仕切る地位にあったと見られる。彼はアハズ王から指図された時、全てその通りにした。ウリヤについて論ずべきことがいろいろあるが、信仰的な祭司であったかどうか疑わしい。祭壇に関することを王が指示して良いか。王としての越権行為である。それを受け入れる祭司は主に対して忠実な祭司ではない。さらに、アハズがダマスコに行ったのはアッスリヤ王に助けを求めるためであり、助けを求める代償として主の宮と王の家の金と銀を贈り物にした。これは、イザヤ書7章17節でも触れられたユダの大いなる禍いの始まりになっている。アハズがダマスコの祭壇の真似をしたのは、ダマスコの祭壇が最近アッスリヤ式に替わったという事情があったからではないか。
しかし、今列王紀下から引いた事件よりも先に、ウリヤは証人に立てられている。イザヤとはかなり親しい間柄であったようだが、信仰的な同志の関係ではなかった。信仰の同志が結束して、エフライムとシリヤを恐れる国策に反対したとは思われない。この文書が正式に作られた文書であることの証人であるだけで良かった。エベレキヤの子ゼカリヤについては分からない。
かつて大きい禍いがあったことを書き残す、あるいは記念碑を建てるということは珍しくはない。それは歴史を心に刻むために、あらわな形にすることだ。人は通常、過去のことを記念碑にする。しかし、まだ起こっていない事柄について、記念碑の逆になる碑を建てることは出来ないことではない。もっとも、来たるべきことについて碑を建てるのは、約束されたことを待ち望んでいるという証しであろう。他の国において行なわれる略奪について、前もって碑を建てるということはない。しかし、過ぎ去ったことが心に刻まれるのと同じく、来たるべきことを心に刻まねばならない場合があろう。例えば、死んだ人の墓を建てる時、我々はその人の来たるべき日の甦りを先取りして記念する。
マヘル・シャラル・ハシ・バズは記念碑とは違うが、この後に起こるべきことの徴しである。エフライムとシリヤが略奪されることがどういう意味を持つのか。積極的な意味はないかも知れない。今ユダを脅かしている国が滅ぼされて報復を喜ぶというようなことは取り上げるに価しない。ただ、アッスリヤに攻撃されて一たまりもなく崩れてしまうような国に攻められて、その時に「恐れてはならない。静かにせよ」との御言葉が聞けなくなった不信仰の事実は歴史に残る。
3節、4節がまだ残っている、「私が預言者の妻に近づくと、彼女は身籠って男の子を産んだ。その時、主は私に言われた『その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。それは、この子がまだ、「お父さん、お母さん」と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤの分捕り品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである』」。
言葉としては、もう解き明かしの必要は殆どない。イザヤはこの預言を語り終えてから妻に近づき、妻は孕んだ。
一つ気になるのは「身籠って男の子を産む」という言葉が、7章14節にもあることである。インマヌエルと名付けられる男の子の場合と、マヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けられる男の子の場合が良く似ていることである。その誕生が徴しとなると言われている預言も、アッスリヤによるエフライムとシリヤの滅亡を言っている。
二つの誕生物語りは事件としては一つであったが、そこから二つの預言が作られたのだと言う人もいるが、これは無理な解釈だと思う。やはり、二つの別々の出産があったと見るほかない。だが、ほぼ同じ時期にイザヤの子が二度生まれたというのもおかしい。いろいろのことが考えられるのだが、益のある結論は見出しにくい。
この子がまだ「お父さん、お母さん」と呼ぶことも知らないうち」、――それは僅々数年のうちのことである。首都ダマスコは滅んで、シリヤの国は潰れ、首都サマリヤは荒廃して、北イスラエルは滅亡する。そのことが預言される。その預言が心に刻み置かれねばならない。
「彼女が身籠って男の子を産む」。これがイエス・キリストの福音の伏線となっていることはマタイの福音書で読む通りである。国々の滅亡とキリストの来臨が一緒に見えて来るのである。
今日も我々はこの世の王国が続々と崩れて行くのを見る。しかし、キリストが来ておられることも見えるのである。