2002.12.29
.イザヤ書講解説教 第3回
――1:5-9によって――

「あなた方は、どうして重ね重ね背いて、なおも打たれようとするのか」……。
 この言葉はイザヤの時代の人々に対してよりも、今の時代の我々に向けられたと見る方が適切だったのではないか、と思う人があろう。確かに、我々の時代の人々は、重ね重ね神に背いて、重ね重ね神から懲らしめのために打たれている。しかも、神から警告されているということが分からないので、なお行ないを改めない。2002年という年を振り返っただけでも、今ここで事件の名を挙げなくても、うち続く禍いが、この日本に、また世界に襲い掛かっていることが分かるだろう。
 それと比べるなら、イザヤの時代はまだ平穏だったのではないだろうか。イザヤはユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて語ったとイザヤ書の冒頭にかかれていた。その時代について記している列王紀上15章以下を読んで見ると、その時期に国の存亡に関わる事件は次々起こってはいたが、後年起こったような、例えば、エルサレムの陥落、民の捕囚というような痛ましい悲劇には至らなかった。
 だが、イザヤを通じて語られた預言が、大袈裟で、人騒がせな誇張であり、適当に割り引いて聞いておけば良かった、と言うことは出来ない。神がその預言者を通じて与えたもうた警告は、真実な言葉で、少しも無駄のない、適切な指示であったのだ。だから、記されたままを受け入れよう。
 ここで一挙に核心部に達するために思い起こすべきは、主イエスのお言葉である。ルカ伝13章に記されているのであるが、ピラトがガリラヤ人を何人か殺し、その血を彼らの献げるいけにえにまじえるという残虐な行為をした。その事件を知らされた時、主イエスは言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難に遭ったからといって、他の全てのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなた方に言うが、そうではない。
 あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。主イエスはさらに続けて言われる、「また、シロアムの塔が倒れたために押し殺されたあの18人は、エルサレムの他の住民以上に罪の負債があったと思うか。あなた方に言うが、そうではない。
 あなた方も悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
 これ以上議論をするには及ばない。この世で起こるいろいろな禍いを、どのように受けとめれば良いかを、主イエスはここで明快に示しておられる。
 ガリラヤからエルサレムに礼拝に来ていた幾人かの巡礼がヘロデによって殺されるという事件があった。とりわけガリラヤから上京して来ている人たちの間では深刻な話題であった。同じガリラヤ人であるというので主イエスにその事件を知らせる人もいた。彼らの日常生活を騒がせるニュースである。
 ガリラヤ人の間では深刻なニュースであったが、エルサレムの人たちは冷静に聞いたのではないかと思われる。同情は出来ても、今日に置き換えて言えば、外国で起こった大地震のニュースのように、自分たちとは関わりないヨソゴトととして聞いたのであろう。そこで、主イエスは御自身を取り巻く人々の中にいるエルサレムの人々に、ヨソゴトとは思わないようにと、注意を促したもう。シロアムの櫓が倒れて18人の犠牲者が出るという事件が先頃あったではないか。それも同じ意味を持つではないか。
 それらは、悔い改めを促すための徴しだったのである。実は、こういう徴しがなくても悔い改めなければならないのであるが、人は頑迷かつ鈍感で、なかなか神の御心を理解できない。そこで、神は鈍い者も気付かざるを得ないように、よく見えて、分からせずに置かない「徴し」を示したもうのが通例である。主イエスはそのような徴しとして手近な所から二つの実例を挙げたもうた。
 ただし、人々はそれらの徴しを見たならば、直ちに悟って悔い改めるのかというと、そうではない。ルカ伝13章の御言葉もそれを示し、イザヤ書で我々が今日学ぶところもそのことを示すのである。
 そこでまた、我々が思い起こす一つの事がある。預言者ヨナがニネベの町を歩き回って、徴しは示さないで、ただ説教で、「40日でこのニネベは滅びる」と告げた時、身分の高下に関係なく、聞いた人みんなが、しかも異邦人であったのに、悔い改めたという物語りがある。これは、徴しがなくても、御言葉の威力によって、御心に従わざるを得なくなるということを示す。それとともに、もう一つ、主御自身がルカ伝11章29節以下でニネベの人々の悔い改めに言及しつつ、「今の世には、ヨナの徴しの他には何の徴しも与えられないであろう」という謎のような御言葉によって示したもうた事情がある。すなわち、海に投げ込まれ、三日三晩魚の腹にいたヨナがそこから出て来たという徴しがニネベの悔い改めに結び付いているのである。すなわち、主御自身が三日の後の甦りをなしたもうということを示したもうたのである。
 今、ヨナの預言に関連して指し示されたように、キリストの死と復活からの究極的な光りが照射して来なかったなら、いろいろ見えていても、結局、何も分からないで終わるのである。この世で次々起こる事件は我々に深刻な反省を促してやまないが、キリストの十字架とキリストの復活の光りが見えていないなら、深刻になるだけで、結局、実りはない。ただ、そのことは今日の学びとしては詳しく論じないで、ただ心に深く刻むだけにして、イザヤ書のテキストに戻る。
 「あなた方は、どうして重ね重ね背いて、なおも打たれようとするのか」。彼らが「背いた」という実情については、当時の時代史を詳しく述べれば良く分かるが、今日の説教の中で、イザヤの生きた時代について解説することは要らないと思う。すでに前回、2節で、「私は子を養い育てた。しかし、彼らは私に背いた」という御言葉を聞いたからである。牛がその飼い主を知っていて、そこに帰って行くのが当然であるように、神に選ばれて、子として養われて来たイスラエルの民が、神に帰って行くのは当然のことであるはずなのだ。それをしないのである。
 「帰って行く」とはどういうことか。これは今のところ簡単に語るだけで十分だが、「悔い改め」であることは、我々の間では常識でなければならない。イエス・キリストが「汝ら悔い改めて、福音を信ぜよ」と言われたあの「悔い改め」である。人は強烈に呼び掛けられなければ、帰るべきところに帰らないのである。帰るのが自然だという考えが間違いだとまでは言わないが、この捉え方は神との関係を言うには非常に曖昧なのである。すなわち、宗教のことに全然関心のない人に教えるには、多少は有効かも知れないが、我々の救いの確かさと殆ど結び付かない。
 「その頭はことごとく病み、その心は全く弱り果てている。足の裏から頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ」。
 自分に立ち返る時、第一段階として人々はこのことに気付かなければならない。それまでは、自分が健全だと思っていた。ちょうど、体内が深くガンに蝕まれているのに、自分は健康だと思っている人がいるのと同じである。
 現代の日本がこうである、と我々が言うなら、少し前とは違って、今なら共感をもってそれを聞いてくれる人が多い。実例をわざわざ挙げる必要はない。事業所は次々と閉鎖されて、町には失業者が溢れている。犯罪が頻発している。学校は崩壊してしまった。
 山林は荒廃し、海も川も死んでしまった。野菜も肉も毒で汚染され、食べる物がない。
 世界の至る所で戦争が始まっている。
 しばらく前なら、「足の裏から頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ」と我々が言った時、人々は猛然と反発したものだ。「日本はナンバーワンではないか。止むことを知らない発展を遂げているではないか。何でそのような悲観的なことを言うのか」。そう本気で考えていた人がいる。
 教会の外にそういう人がいたというのではない。教会そのものも自らは健全だと思っていた。日本の教会は日本独自のものを用いて、世界の諸教会から注目されている、という自負が教会の中にあった。しかし、「足の裏から頭まで、完全なところがない」ということはすでに当時適切な診断であった。
 教会の年寄りたちは教会の戦争責任を忘れた。若者たちは教えられなかったことはなかったことだと思い込んで、「あなたの兄弟の血が土の中から私に呼んでいる」と言われる神の声に聞いて、埋もれた証拠品を掘り起こそうとはしなかった。しかし、それは体の中にガンがあるのに隠していたのと同じで、表面は健康そうに見えても内部の破壊はすすんでおり、やがて表面にも無気力感が現われて来たのである。
 さらに我々の注意を引くのはその次の言葉である。自分に立ち返った者が気付く第二段階である。「これを絞り出す者なく、包む者なく、油をもって和らげる者もない」。
 病が高じているというだけでなく、癒してくれる人がいないという事実に気付かざるを得ないのである。では、癒す人とは誰か。
 神に立ち返れば、神が癒したもう、ということを第一に考えなければならないであろう。そして、次に、神が御自身の民を健全に保つために、民の中に癒し手を遣わしたもうのが本来であるということに思い至る。
 正確なところ、こうだと断定出来ないが、神が癒し手を引き揚げてしまわれたということであろうか。確かに、全ては神のよしとされるところで決まるのであるから、癒す人がいないとは、神がそれを与えることを拒否したもうたという意味であろう。だから、なぜ欲したまわなかったかを考えねばならない。であるのに、それを考えて見ようともしないのである。
 さらにまた、真の癒し手の言うことを聞かないという意味かも知れないし、国の癒しが必要な時期であるのに、癒し手を勤める人がいないことを神が指摘しておられるのかも知れない。当時、真の預言者はイザヤの他にいなかったようである。
 時代は異なるが、預言者エレミヤの時代にも事情は似たものであった。エレミヤ書6章12節後半から13節に、「預言者から祭司に至るまで、みな偽りをおこなっている。彼らは手軽に私の民の傷を癒し、平安がないのに、『平安、平安』と言っている」と記されるが、本当の癒しを与えず、ただ口先で、「平安、平安」と言うだけだ。それによって、癒しは遠のいて行く。
 さて、次の「あなた方の国は荒れ廃れ、町々は火で焼かれ、田畑のものはあなた方の前で外国人に食われ、滅ぼされたソドムのように荒れ廃れた。シオンの娘は葡萄畑の仮小屋のように、キュウリ畑の番小屋のように、包囲された町のように、ただ一人残った」というのは、目の当たり見ている情景ではないであろう。近い将来こうなるという予告ならばまさにその通りである。
 預言者の言い方は、しばしば将来のことを完了形で言い表わしていることに我々は気付いているであろう。まだ起こっていないことを起こったことのように言うのであるが、これは嘘を言っているということではない。また、おどかしのための誇張だというわけでもない。預言者にはこの情景が幻として示されたのである。その示されたままを語っているのである。
 ほかの人には安定し、繁栄している社会が見えるのであるが、預言者には破滅した、あるいは破滅に瀕した社会が示されるから、示されたことを示されたままに語るのである。しかし、幻として示されたことは真実であるが、こうなるように決まっているという意味に受け取ったなら間違いである。
 7節には「滅ぼされたソドムのように荒れ廃れた」と言われたが、9節では、「もし万軍の主が我々に少しの生存者を残されなかったなら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう」と言われる。ソドムのようには、まだなっていない。ならないかも知れない。もし、万軍の主が我々に少しの生存者を残されなかったなら、ゴモラと同じであるが、少しの生存者を残されたなら、ソドムやゴモラにはならない。
 ということは、「先がどうなるか分からない、だから、どちらに転んでも諦めて、差し出された結論を受け入れる他ない」という意味か。あるいは「ことはあなた方次第だ。
 あなた方が救われることを真剣に求め、救われるに価するだけの実質を示したならば、ソドム、ゴモラにならない。しかし、それを怠るならば、ソドム、ゴモラになるしかない。あなた方が決めるのだ。あなた方の心掛け次第だ」と言うのか。
 どちらでもない。「神のなさることは不確定であって、あなた方が確定する」ということではない。神は「少しの残りの者」を残したもう神なのだ。それは確かなのだ。だが、どうして、そのことが確かなのか。それは、このことこそがイザヤ書において、いや旧約において学ぶ重要な教えだからである。
 「もし万軍の主が、我々に少しの生存者を残されなかったなら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう」。
 これが今日シッカリ聞かねばならない御言葉である。この言葉は「もし、神が少しの残りの者を残されたなら、ソドムのようにはならない。しかし、残りの者を残されなければ、ソドムと同じである。あれであるか、これであるかは未決定である」というふうに受け取ってはならない。そのような不確定な言い方は、人間の知恵の言葉としてはモットモらしく聞こえるかも知れぬが、救いの言葉ではない。
 救いの言葉、すなわち福音は確かである。だから、神の民はソドム、ゴモラにはならない。しかし、神の民と言われている者はみな安泰である、というふうにこれを取るなら甚だ不正確である。そのような夢物語は多くの御利益宗教が教えている。モットモらしく聞こえるとしても、確かさは何もない。信じている、と言っていた人がポロポロ落ちて行くのである。
 ルカ伝13章23節に言う、「ある人がイエスに『主よ、救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々に向かって言われた、『狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだから』」。この御言葉を少しの残りの者が残されるということと同じだと考えては混乱を生む。主旨は同一ではない。ただ、「少数」ということは共通している。それは決勝に勝ち残る者が少ないということではなく、神が残したもう者は少ないという主旨である。
 主なる神は少数の残りの者を残したもう。これはイザヤ書の主要テーマであると先にも言った。したがって、今後、何度も何度も繰り返し学ぶ。一度では掴みきれなくても繰り返し学ぶうちにハッキリ捉えることが出来ると約束されている。だから、今日は「万軍の主は我々に少しの生存者を残したもう」という言葉を頭に叩き込めばよい。
 ただ、その言葉が空を打つように空しく聞こえるという人がいるならば、我々のために少数者も少数者、ただ一人になって十字架を負いつつゴルゴタに向かいたもうたお方が、自分の十字架を負って私に従って来なさいと言われた言葉を思い起こすべきである。