2005.04.24.


イザヤ書講解説教 第29回


――7:10-13によって――

 

 イザヤ書7章の初めに記されているアハズ王の治世のスリヤとエフライムの連合軍の侵入事件、その時のイザヤの預言者活動、これは、イザヤ書37章に記されているヒゼキヤ王の第14年にアッスリヤ王セナケリブの軍隊が、将軍ラブシャケに率いられて、エルサレムの城壁に迫った時、しかし攻撃を加えることなく帰って行った事件とその時のイザヤの預言と似た点がある。勿論、別々の時代の別の出来事であるが、王たちに預言者を通じて与えられる御言葉には似たところがある。
 今日学ぶところと似ているのは、神が積極的に「徴し」を用いて、王に励ましを与えようとされた点である。
 7章10節に入って行こう。前から続いている。「主は再びアハズに告げて言われた、『あなたの神、主に一つの徴しを求めよ。陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ』」。
 再度の託宣があった。先に4節から9節にわたって語られた預言と、主旨は同一であったと思われる。アハズがそれを信じようとしないので、「徴しを見せるから、信ぜよ」と言われる。ただし、徴しを先ず求めなければならない。アハズが求めなくても、丁度モーセが様々の徴しを用いてエジプト王パロを追い詰めたように、イザヤが徴しを伴う預言によって、アハズが信じないではおられないようにすることは出来なかったのか。神には欲したもうことなら何でも出来る。しかし、神は意味のないことはなさらない。イザヤの預言者活動の間に、奇跡を見せて信じさせるという手段が取られたことは殆どない。それはイザヤにその能力がなかったというよりは、神がそれを欲したまわなかったからである。神はイザヤを力ある業を行なう器としてでなく、御言葉を語る器として整えたもうた。
 神は欲したもう時には何でもなし得たもう。しかし、神には何でも出来るとはいえ、まるでその気のない者に徴しを見せて信じさせることはされない。そこで先ず「徴しを求めよ」と命じられる。
 ところが、徴しを見て信じるのは、本当の信仰ではないではないか、と疑問に思う人がいるのではないか。イエス・キリストは「見ずして信ずる者は幸いなり」と教えたもうた。主イエスは病気の息子の癒しを求めてカペナウムからカナに来た人に、厳しく「あなた方は、徴しと奇跡を見ない限り、決して信じないだろう」と言われた。ヨハネ伝4章48節である。この時はそう言いながら、息子の病気をお癒しになったのであるが、やはり見て信じるのではいけないとの教えは含まれている。
 人は約束の言葉だけで信じることが出来、また言葉だけで信じなければならないのである。すなわち、信仰は約束に懸かっているが、その約束はただ言葉だけによって与えられる。目に見える現象という形になってしまえば、信仰がなくても、見るだけで承認せざるを得ない。しかし、承認せざるを得ないから信ずる、と言っても、その信仰は何の意味もないことである。
 信仰への招きは、つねに我々自身の救い、あるいは生きることと結び付いている。救いと関係のない何かの事件を通報されても、それが本当に起こったことと信じるか信じないかで、我々自身の生とその生き方に変わりがないのが通例である。すなわち、ただのお話しというだけのことである。しかし、我々が「信ずる」ということに関わる時、その信仰は私の生きること、滅びないことと結び付いている。先に9節で聞いた通り、「もしあなた方が信じないならば、立つことは出来ない」。我々は信ずることによって立つのである。
 信じないならば、すでに罪のゆえに滅びに渡されているのである。「信じない者はすでに裁かれている」とヨハネ伝3章8節が言う通りである。伝道熱心な人から「救いか滅びか、選択を間違えるな」とけしかけられることがあるが、自分で選ぶ余地があると言うよりは、より適切に言うならば、すでに滅びに落ちていて、その滅びが露わに見えていないだけである。その滅びから救われることだけが残されている。人は滅びが見えないから、まだ生きているつもりであるが、その実、死んでいる。黙示録の3章1節で、初めであり・終わりである方が、サルデスの教会に「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と言われる通りである。だから、このままで、やがて露になる滅びを待つか、それとも翻って信じることによって生きるかしかない。
 アハズは信じようとしなかった。信仰へと飛躍することを拒んだ。そこで神はもう一度イザヤを遣わして、信じさせようとされる。今度は、徴しを求め、徴しを見ることによって信ぜよ、と言われる。
 本来、信仰は徴しを見ないで信じるべきものではなかったか。それなのに、「徴しを求め、その徴しを見よ。そして信ぜよ」と預言者を通じて命令されるとは、神の矛盾ではないのか。また、預言者というものは、見て信じるのでなく、聞いて信じるために、信ずべき言葉を語るために遣わされたのではなかったか。その疑問を解くために、二つのことを考えなければならない。
 一つは、神が王アハズに何としても信じさせねばならないと決意しておられることである。一般に神が滅び行く者に何度も働き掛けたもう寛容が語られており、我々もその事実を知っている。しかし、ここで見なければならないのは、神の熱心とか寛容と言われることとは別のことである。すなわち、アハズはプライヴェートな人間でなく、一国の王であって、この国に住む神の民の生存が委ねられている。王が信じなければ、彼自身、立つことが出来ないだけでなく、国が立ち行かなくなる。王が不信仰であるゆえに、その国に住む人が、信仰を持っていてもいなくても、滅びなければならないとは、不条理ではないか、と言われる。たしかに不条理なのだ。しかし、地上の安寧が権力の支配のもとに委ねられているとは、そのような不条理を含むことだ。だから、支配者に誤りを犯させないように、我々は祈り、また警告しなければならない。
 現に、我々の住んでいる国で、政治権力を持つ者の不信仰、それに伴う無思慮、判断の誤りによって、非常に多くの人が苦しむようになっているし、不幸はますます昂じて行く。我々はこの不幸を権力者の責任であると批判し、我々自身の責任は問われない、と考え勝ちである。だが、彼が裁かれて滅び行くだけで事が済むと思って良いのか。
 ユダの国民の生命と身体、また彼らの地上的生存の条件はアハズに委ねられていた。国民の霊的生命が王に委ねられたのでないことは確かである。だから、人々の永遠の生命、来たるべき世の命、これは地上の支配者の考えや生き方と無関係である。しかし、王が不信仰の故に判断を過つとき、不信仰でない人も命を落とすような事件が往々にして起こる。
 こういう状況の中で、アハズのとるべき選択は、4節で語られた通り、気をつけること、静かにすること、恐れないこと、つまり、物理的な対抗策は何も取らないで、ただ、精神を高く持って、神に寄り頼むことであった。すなわち、二つの大国が連合して攻め寄せたことは本当だが、彼らは何もしないで引き上げて行くことになっているのを神は知っておられる。これは歴史の示す通りの事実であった。
 結果としてはさほどの大事には至らなかったから、アハズが信じなくても著しい不幸にならなかったと見られるかも知れない。しかし、後で17節に語られるような、もっと大きい禍いが用意させることになったのである。
 王という地位にある者が、他の人よりも人間として大いなる存在であると思う必要は全くない。しかし、彼に負わせられている務めは、地上のことに関する限り、他の人よりもはるかに重い。だから、王は他の人の持たない強制執行をする権限を委ねられている。したがって、王が神を恐れる者であり、清潔であり、真実であり、賢く、堅く立つことは、民衆のためには大事なことなのだ。そこで、神はその民の地上の生活の幸福をも懸念したもうゆえに、王に徴しを見せてでも、何とかして信じさせ、信仰に基づく政治をさせようとされた。
 また、このことに預言者が用いられたという点も、関連して見落とすことが出来ない重要事である。しかし、預言者の職務については、今日はこれ以上は論及しない。今見るところ、イザヤは命じられたことをアハズに伝えただけだからである。
 もう一つ見て置かねばならないのは、「徴し」というものの持つ意味である。徴しと言われるものにいろいろあり、それについて重要なことを網羅して論じる必要はないが、旧約では新約と比較してかなり広く徴しが用いられた。新約では、徴しの使用はずっと限定されている。
 多くの預言者、むしろ全ての預言者と言うべきであろう。彼らが徴しを用いたことを我々は知っている。例えば、エゼキエル書12章に一つの事件が記されている。神は預言者に「人の子よ、捕囚の荷物を整え、彼らの目の前で昼のうちに移れ」と命じたまい、預言者はそれを実行する。人々は彼に向かって、「何をしているのか」と問う。それに対する答えも預言者には示される。「私はあなた方の徴しである。私がした通りに彼らもされる。彼らは虜にされて移される」。この徴しは、今日学んでいる聖句の文脈の徴しとはかなり違う。それでも徴しには違いない。
 預言者エゼキエルはイスラエルのバビロン捕囚を言葉によって預言したが、言葉だけでは人々が信じない。そこで、一つの演劇をする。それがここでは徴しと呼ばれている。徴しというものには、それによって示さるべき事柄が結び付いている。その事柄こそが信じられなければならない。
 その事柄は言葉として伝達される。ところが、人々は言葉を聞いても信じない。そこで、目に見える徴しによって信じさせよと、神は演技を命じたもう。一般に、預言者の象徴的行為と呼ばれているものである。その徴しは信じさせるための謂わば補助手段である。神は寛容であられるから、補助手段を用いてでも信じさせようとされる。例えば、教会に命じられている聖礼典の執行がそうである。御言葉の説き明かしだけで、悔い改めて信ずべきであるのに、悔い改めが徹底しない。そこで、主はパンが裂かれ、それが分かたれる徴しを見せて、キリストの御体がこのように裂かれたのであると宣言したもう。それは頭だけで分かろうとし、本当は分かっていないのに分かったと思っている者の魂を激しく揺さぶるのである。
 神は預言者を遣わして王アハズに託宣を与えたもうたが、その託宣が受け入れられない。そこで、徴しを求めよとの第二の託宣を送りたもうた。第一の託宣と第二のそれとの間にどれだけの時間が経過したかは分からない。続いていたと見ても良いし、預言者が一旦家に帰ってから御言葉を受けたと見ても良い。
 これは「一つの徴し」と言われる。どんな徴しでも良いから見るようにしてほしいという要求でなく、特定の一つの徴しを求めよと指定されるのである。「陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」と言われる。深遠なシルシ、空に現われるシルシかも知れない。
 徴しを求めた実例は、旧約聖書では至る所にある。士師記6章に記されていることであるが、ギデオンは士師として召された時、その召しの確かさを知ろうとして、徴しを求めた。それもギデオンが考え出したものである。すなわち、羊の毛一頭分を、夜、打ち場に置いておくから、もし、あなたが私によってイスラエルを救おうとされるのであれば、露が羊の毛にだけあって、地面は乾いたままであるようにして下さいと求める。そうすると、朝、羊の毛は鉢一杯の水を含んでいた。
 ギデオンはもう一度徴しを求める。今度は逆に、羊の毛の一塊だけが乾いていて、地面一面が露で濡れているという徴しを願う。神はその要求も受け入れたもうたので、ギデオンは確信をもってミデアン人との戦いに赴く。ギデオンはこのようなことを神に問うのは恐れ多いことと承知していたと見られるが、とにかく、徴しを求め、徴しを得て確信を固めた。
 神がアハズ王に求めよと命じたもうた徴しは、「陰府のように深い所に」、あるいは「天のように高い所に」現われる徴しであって、ギデオンの場合のような身近な徴しとは違うように思われる。今日は初めに、ヒゼキヤの時代のアッスリヤ軍の侵入の事件に少しだけ触れたが、37章30節にはその時の徴しが書かれている。すなわち、今年は落ち穂から生えた物を食べる。つまり、侵入軍が畑の収穫を持ち去るから、落ち穂から生えた物しか食べられない。来年もその状態が続く。しかし、3年目になれば回復するという徴しである。しかし、それで足りないということはないという意味であろう。これは分かり易いものである。地の深い所、天の高い所に現われる神秘な徴しではない。
 ところで、陰府の深い所、あるいは天の高い所に求められる徴しとは、どういうものか。アッスリヤ戦争に引き続き起こったらしいが、病気になったヒゼキヤ王に与えられた徴しがその種のものであったと思われる。すなわち、一旦死にかけたヒゼキヤが癒されて、なお15年生きると約束された時に与えられた徴しである。それは日影が10度退くという奇跡であった。――これは正確に言うと、日時計の上の日影が10度退いたということであって、太陽が逆に動いたと言われたわけではない。人々は日時計の盤面だけを見詰めていたのである。しかし、太陽が逆に動いたのか、日時計の上の陰が退いたかは別に大事な問題ではない。
 12-13節に移って行く。「しかし、アハズは言った『私はそれを求めて、主を試みることを致しません』。そこでイザヤは言った。『ダビデの家よ、聞け。あなた方は人を煩わすことを小さい事とし、また、我が神をも煩わせようとするのか』」。
 アハズの答えは筋が通っているではないか。徴しを求めることは神を試みることではないか。神を試みることは、出エジプト17章1-7節、また申命記6章16節で禁じられている。出エジプトの民は荒野で水がなくなった時、メルバまたはマッサと呼ばれる地で、モーセに対して叛乱を起こした。これは神を試みることであり、これによってモーセは岩を打って水を得たのであるが、神を怒らせることであり、叛乱を起こした当事者だけでなく、モーセも責任を神から問われるほどの、歴史に残る深刻な事件であるが、イスラエルにおいては決して繰り返されてはならない罪として語り伝えられて来た。
 主イエスも荒野の試みの中で、神を試みてはならないとの一言でサタンを却けたもうた。人が神を試み、合格したならば信じようという基本姿勢がありありと見られるではないか。
 だからアハズが慎み深くしたことは正しいのではないか。しかし、主を試みないとは、全く信頼しているという意味のはずではないか。アハズは信頼していないのである。今回はイザヤを通して神が勧めておられることであるから、神に御心に反して神を試みることではない。これは単に信ずることへの躊躇、不信仰でい続けようとするしぶとい居座りである。それは裁かれずには済まない、
 「ダビデの家よ聞け」。これはアハズ個人ではなく、ダビデ王朝という機関を指すものである。先ほど語ったように一私人アハズの行状だけでなく、一国の責任を担っている機関の問題である。その一国というのも、世界中に人々が夫々のやり方で起こした国とは違って、神がダビデを選び、これを立てて王とし、メシヤ王国の謂わば雛形としようとされた機関である。したがって、間違いを犯した者が罰を受けるということで収拾がつくようなことではない。
 「それゆえ、主は自ら一つの徴しをあなた方に与えられる」という14節の初めの言葉は、アハズの失敗が呼び起こしたものと言える面はあるが、アハズの言葉に対する反応というよりは遥かに深い、また大いなることを指している。これはメシヤ預言であり、終わりの日に関する預言である。
 

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