2005.02.27.


イザヤ書講解説教 第28回


――7:7-9によって――

 

 今日は7節から9節を学ぶのであるが、先ず聞くのはこの言葉である。「主なる神はこう言われる。このことは決して行なわれない、また起こることはない」。――すでに6節で見たように、エフライムとアッスリヤの企ては、ユダを打ち破り、それもこの国を滅亡させるというのではなく、アッスリヤの属国にし、ダビデの血統を絶やすことを考えていた。「アハズでなく、タビエルの子をそこの王にしよう」と彼らは言っていた。
 「それは実現しない」と神は言われる。そして、実際、預言の通りであった。連合軍の侵入の事件について、列王紀下15章37節、また16章5節には簡単に触れただけである。しかし、歴代志下28章5節以下には相当の打撃があったことが書かれている。しかし、とにかく連合軍の計画は実現しなかった。
 だが、実現しなかったとは、どういうことであるか。イザヤが神によって得た洞察が正しく、これを一国の最高責任者である王に助言したのは適切であったということであろうか。こういう洞察を持たないために、アハズ王と民衆は風に動かされる林の木のように揺れ動いたということか。そして今日も、正しい洞察力をもって世界を見る人は動揺しないということか。我々も預言者に倣って、そういう洞察を持ち、それを人々に伝えねばならないということか。
 その程度の教訓として聖書からイザヤの言葉を読み取って、それで納得し、ああ、善い教えだと有り難がり、満足している人があろう。いや、そういう読み方がクリスチャンと呼ばれる人の大多数のものではないかと思われる。
 だが、この読み方は正しくない。「このことは決して行なわれない。また起こることはない」とは、事の成り行きを客観的に予測した言葉ではない。これは、神が「私はそれをさせない」、「そういうことは私の意志、私の計画にはない」と断言しておられるお言葉である。
 アモツの子イザヤが、その時代の人々の中で、ずば抜けて正確に時代を読み通す目を持っていたことは確かであろう。そのような能力に憧れる人が今日もいることは事実である。いや、今日のような只ならぬ危機の時代の中で、イザヤのような預言者の出現を待ち望む声が高まっているのは当然である。しかし、我々が今日聞かなければならない御言葉の核心部は、そういうことではない。
 ここには神の御意志が示されているのである。それを聞き取り、それに従うことが促されているのである。神のみこころを受け入れた者は、神のみこころの揺らぐことがないのを確信しているから、根本的には動揺しない。それと違って、いろいろな成り行きが考えられ得るが、このようになる、と予想したほうが、よりよく納得が行くと考えて、一方の判断を選ぶ人の場合、結果は表面的には同じに見えるかも知れないが、結果が出るまでは一喜一憂、林の木が風に揺れ動くように、たえず揺れ動く。すなわち、人間の判断は見たところに依存するからである。
 イザヤの時代に、スリヤとエフライムが連合して攻めて来たとき、ユダの人々の意見は二つに割れたはずである。一方は、武力に対しては武力で対抗すべきであるという意見、これが大多数のユダの国民の意見であったと見て間違いないのではないか。もう一方、敵はこういう構えを見せているけれども、これが長続きすることはあるまい、と予想する見識者がいたということは、あったかも知れない。少なくとも、そういうことはあり得る。良く考えて、スリヤとエフライムが連合して兵を起こすことの損得を計算して見ると、損の方が大きい、だから止めようということになったかも知れない。それだけの計算の出来る知恵者はユダにいたかも知れない。証拠がないから、いたとか、いなかったとか、議論するのは無駄であるが、そういう人がいたということはあり得る。が、いたとしても、その声は響いて来なかったし、そういう見解があったという事実と、預言者がいたという事実とは全然別のことである。
 勿論、アッスリヤとエフライムが連合してユダに攻め込んだ企ては、邪悪で、愚かで、空しいものであった。だが、それに対抗してユダの側で軍備を増強したことも空しかったのである。この時、ユダの国内に甚大な損害があったのか、なかったのか。これも的確に把握できないのであるが、甚大な被害だったかも知れない。歴代志下28章5-7節が「それ故、その神、主は彼をスリヤ王の手に渡されたので、スリヤ人は彼を撃ち破り、その民を多く捕虜として、ダマスコに引いて行った。彼はまたイスラエル王の手にも渡されたので、イスラエルの王も彼を撃ち破った大いに殺した。すなわち、レマリヤの子ペカはユダで一日のうちに12万人を殺した。皆勇士であった。これは彼らがその先祖の神、主を捨てたためである。その時、エフライムの勇士ジクリという者が王の子マアセヤ、宮内大臣アズリカム、及び王に次ぐ人エルカナを殺した」と言うように、これが偶像礼拝に対する神の刑罰であるならば、こうなるほかなかった。軍備増強という措置をとってもとらなくても、神の刑罰は遂行されたに違いないからである。
 神が世界の国々に自分で政治をすることを許しておられるのであるから、それぞれの国の政治がより賢明な政治の道筋を選ばなければならないのは確かである。したがって、我々も政治的に正しい判断を取ることが出来るようにしていなければならない。そういうわけで、「この世は空しいのであるから、空しい成り行きに流されて右往左往するのは致し方ない」と言うべきではない。なぜなら、我々は神に属する民であって、神はご自身の民がそのような空しいことに振り回されているのを許したまわないからである。――しかし、今学んでいるのはそういうことではない。
 「このことが決して行なわれない」ということの説明として続く言葉は、分かり易いとは言えない。「スリヤの首はダマスコ、ダマスコの首はレヂンである。(65年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる。)エフライムの首はサマリヤ、サマリヤの首はレマリヤの子である」。――何を言わんとされたのか。
 語られている言葉は部分部分に分ければ、難しいものではない。「スリヤの国の首都はダマスコである。ダマスコを支配している王はレヂンである」。その通りである。
 次の「65年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる」という言葉も、これだけの言葉としてはそのまま分かる。――本論を外れた話しに踏み込むことになるが、この部分が括弧の中に入れられているのは、後世の加筆であるという解釈によっている。北王国がなくなってから、この文章が書き加えられたと説いている聖書研究者も少なくない。もとから括弧がついていたのではない。しかも、後世の加筆であると解釈して良いのかという疑問は当然ある。
 エフライムが滅びたのはホセアという王の第9年、ユダの王アハズの子ヒゼキヤの第6年、紀元前791年、アッスリヤによってであった。それはユダの王アハズの時から65年どころか、20年もしない時であった。
 この部分が入っていると、文章の繋がり具合がおかしくなってしまうと感じる人は多い。また、この部分は本来9節のエフライムに関して言われる言葉の続きに置かれていたはずであったという主張もある。また、8節の前半と後半の釣り合いが良くないという意見に対して、その一段前から読んで、神の意志が何であるかの続きに、エフライムの滅亡が告げられたのだという解釈も成り立つ。また、7節から9節まで、韻文の形を取っているから、そのような形に整えられたものとして全体を把握し、8節後半と9節後半が釣り合っていることを捉えなければならないという意見もある。
 無造作に、これは後世に、すでにサマリヤが滅んだ後から加筆されたと辻褄合わせのようなことを言わない方が深く読み取れるのである。
 次に、「エフライムの首はサマリヤ、サマリヤの首はレマリヤの子である」。これも、スリヤについて先に言われたのと同じように解釈すれば良いもので、これだけの意味は良く分かる。しかし、全体が何を言おうとされたかはこれだけでは分からない。
 ここだけ読んでは分からないとしても、総合的に読むならば何のことかが分からなければならない。すなわち、「スリヤの首はダマスコ、ダマスコの首はレジン。エフライムの首はサマリヤ、サマリヤの首はレマリヤの子」。そこまで聞いたならば、次は「ユダの首はエルサレム、エルサレムの首は………」となることは当然ではないか。
 それでは、エルサレムの首は誰なのか。ここで解釈者の見解が二つに割れる。「エルサレムの首はアハズ、お前だ」というのと、「エルサレムの首はヤーヴェ、私だ」というのとの二つである。
 神ご自身がエルサレムの首であると主張されるという見解の方がここでは適切だと私も思うのであるが、エルサレムの首はアハズである、という解釈も捨てきれない。これを取るとすれば、「もし、あなたが信じないならば、立つことが出来ない」という結語との結び付きは、より緊密であると言えると思う。
 ところで、この場面で、イザヤがアハズだけを相手にしていることに我々は初めから注意させられて来た。アハズが軍の司令官、あるいは上の池の水道の管理者、あるいは城壁の一番低くなっている区画の責任者を連れて視察に行ったのではないようである。勿論、王としての責任を痛感して見回りに行ったのであるが、戦争をする組織の頂点にいる者として、下々にまで注意の徹底を促すためならば、担当の者を呼んで指示を与えるとか、その者を連れて気になる場所を視察するほうが適当であった。
 アハズが誰も連れずに水道の端に行ったと言い張るつもりはないが、組織人としての懸念ではなく、組織の中の担当者に責任を持たせるだけでは解決しない不安があって、自分で見に行くほかなかったのである。王としての公けの責任を感じたのではあるが、個人的にも深く責任と不安を感じていた。
 預言者イザヤはこの時、神から特別に場所を指定されて、アハズ王に会いに行っている。通常、アモツの子イザヤが王に預言を告げる時には、王宮に行って語ったと思われる。しかし、今回は全く特殊であった。すなわち、預言者は今回、王の内面に語り掛ける必要があった。
 イザヤが息子のシャルヤシュブを連れて王に会いに行こうとしたことも、ここで十分に考え合わせなければならない。シャルヤシュブを連れて行ったということは、このシャルヤシュブ、「残りの者が帰って来る」というメッセージ、これこそが大切であることを、言葉で語る以上の現実的迫力で分からせるためであった。
 「残りの者が帰って来る」とはどういうことなのか。これはイザヤがいろいろな機会に告げた彼の代表的メッセージであったと言って良いのであるが、今の場合、特にどういう意味が籠められていたかを考えて見たい。
 このメッセージは、今の場合、アハズ自身に焦点を置いていると見るのが当然である。つまり「残りの者」とは、他でもない、アハズ自身のことなのだ。立ち返らなければならないのはアハズ自身なのだ。「もしあなたがたが信じないならば、立つことは出来ない」とは、讀み替えて「もしあなたが信じないならば、立つことが出来ない」と言うと良く分かる。そして「あなた」とはアハズ自身のことである。スリヤのレヂンも、イスラエルのペカも、よって立つべき基礎を持たないから、立つことが出来ないままに、彼らの国は間もなく滅びるのであるが、あなた自身も立ち返らなければ、立つことは出来ないし、あなたが首となるべき国も、また都も、あなた自身も、立つことが出来ないままに滅びてしまう、と言われるのである。
 今が国家の大事な時であるから、今こそ立ち返らねばならないという意味を読み取るべきことは当然であるけれども、それだけではいけないと思う。ここでは、神の民の王は、立ち返ること、信じることによってこそ立つ、そういう原則によって国造りをしなければならないという意味がある。
 イエス・キリストは、特別な危機の時代だから悔い改めよ、立ち返れ、と言われたのではない。時が満ち、神の国が来ているから、立ち返って神の国に入って行けと言われたのである。
 確かに、アハズ王という人は、ダビデ王統の中で最低とは言わないが、凡庸な王であり、主の民の王、その首としての職務を遂行することは出来なかった。
 さて、そのように読んで、多くのことを読み取ってきたので、「ユダの首はエルサレム、エルサレムの首は主、ヤーヴェである」と読む解釈はもう持ち出す必要もない、として片付けてしまうべきではないであろう。他の国では人間が首であるが、主の民の建てる国においては、主なる神こそが国の首でありたもう。これは最も基本的原則である。
 イザヤ書2章22節で、我々は「あなた方は鼻から息の出入りする人に頼ることを止めよ。このような者は何の価値があろうか」という言葉を聞いた。鼻から息の出入りする人間に頼る人は多い。と言うよりは、鼻から息の出入りする人に頼るか、それとも神に頼るか、ここで人間は二つに分類されると聞き取って良いであろう。
 イザヤはこのように語る少し前のところで、人々が拝むために自ら造った白銀の偶像と黄金の偶像とを、モグラモチとコウモリに投げ与えると言ったが、人によって造られた物はいよいよ頼りにならない。ただ、万物を造りたもうた生ける神だけに信頼すべきである。
 このことを歴史の中の信仰の決断として説いた最も有名な聖句は、イザヤ書31章の初めの数節である。「助けを得るためにエジプトに下り、馬に頼る者は災いだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵が甚だ強いので、これに信頼する。しかし、イスラエルの聖者を仰がず、また主に諮ることをしない。それにも拘わらず、主もまた賢くいらせられ、必ず禍いを下し、その言葉を取り消すことなく、立って、悪をなす者の家を攻め、また不義を行なう者を助ける者を攻められる。かのエジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主が御手を伸ばされる時、助ける者は躓き、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる」。
 この31章の聖句はそのまま7章に当て嵌めることが出来る。鼻から息の出入りする人間によって国が立つとしているような国は消え行く国である。
 「もしあなたがたが信じないならば、立つことは出来ない」。――これが今日の学びの結びである。この言葉が我々の内面で繰り返しこだまするのである。
 

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