2005.01.30.
イザヤ書講解説教 第27回
――7:4-6によって――
神は預言者イザヤに、アハズ王のところに行って言うべき言葉を託したもうた。こういう言葉である。「気を付けて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤ、及びレマリヤの子が激しく怒っても、これらの二つの燃え残りの燻っている切り株の故に心を弱くしてはならない」。
先ず「気を付けよ」と言われる。どういうことかと、一瞬迷う人もいるのではないか。しかし、すぐ、マルコ伝13章33節の主イエスのお言葉を思い起こすべきであろう。「気をつけて、目を覚ましていなさい」。
これは、主イエスから示されたもので、終わりの時に臨む信仰者の基本姿勢である。新約聖書的メッセージが最もハッキリ打ち出されている。神がイザヤを通じてアハズに示したもうたのは、それと一致する。つまり、我々はこれを、昔一人の預言者が語った言葉として研究するというのでなく、重大な事態に差し掛かっている今の我々自身の聞き取るべき言葉として受け取らねばならない。
しかし、我々自身にとって非常に重要だということが分かっただけで、言葉の意味、それに従って私が何をなすべきかは、まだ殆ど分かっていない。そこで、さらに踏み込んで学び取らなければならない。
主イエスはしばしば「気を付けよ」という言葉を、「目を覚ませ」という言葉と重ねて使いたもうた。すなわち、この二つの言葉の意味が重なって来ることに注意を向けさせておられる。
主イエス・キリストの指示はさらに具体的である。目を覚ましているならば、夜中に泥棒が来ても、慌てることなく、適切に対処することが出来る。気を付けて、目を覚ましておれば、「キリスト」を名乗って現れる者が続々と出て来ても惑わされることはない。すなわち、終わりの日が来ても、混乱し、取り乱し、自己破産してしまうようなことにはならない。――確かに、今日、この言葉は混乱の時代にいる我々にとって、極めて有益な教えである。
さて、イザヤを通じて神がアハズに語りたもうたことは、今見たように、イエス・キリストの御言葉と全く同じであると受け取って良いであろうが、ここで示された基本的な意味を弁えながら、もう少し考えて見よう。
神は「気を付けて、静かにせよ」と言われた。この御言葉を、「気を付けなさい、そして静かにしなさい」というふうに、一つ一つを同列の命令とした上で、何々と何々というふうに、結び付けたものと考えることも出来るのであるが、「静かにせよ」が主たる命令であって、その「静かにする」仕方を説明するための補助的な言葉であると解釈することも出来るのではないかと思う。「気を付ける」という動詞が用いられているが、この言葉は、「気を付けて何々する」というふうに、副詞として用いられる場合が多い。ここでも「静かにする」に懸かっている。
よくよく注意していないと、慌てて見間違いをし、取り乱して、あるいは恐れて、あるいは取り越し苦労をして、あれもこれも要らないことをやってしまうことがある。余程注意深く、自分を抑制し、自分に打ち勝っていなければ、静かにすることは出来なくなってしまうのである。
「静かにしている」とは、分かり易く言えば、その一面は「何もしないでいる」ことである。そしてもう一面は、真に依り頼むべきものに依り頼んで揺るがないことである。すなわち、依り頼むべき唯一のお方である神に信頼することである。このことについては後で見る。
ところが、何もしないということならば、ボーッとしているだけの場合にもそう言うのであって、怠惰や、不注意と同じになってしまうのではないか。敵が攻めて来る時、ボーッとしておれば滅びるほかないであろう。ボーッとしているから何もしないのではなく、気を付けておればこそ、何もしないでいることが出来るのだ。
人間は生まれつき怠惰で、また注意力散漫である、と言われることがある。その通り、それは真相の一面であるけれども、その半面、何かしていないと悪い気がして、良心が咎めるという落ち着きのなさが本性にこびり付いたものとしてある。アハズが置かれている状態は、この時まさにこれであった。
今日学んでいる主の言葉は、我々全てに共通して重要な言葉だということを先に見たが、ここでは特に、一国の王としてのアハズの態度・心掛けという点に重きを置いて見ることにしたい。我々は王ではなく、権力もなく、王国の公的な務めを負っているわけでもなく、むしろ、地上の王国とは別な、天上の王国、あるいは神の国のことに主たる関心を注ぐ者である。それでも、我々は地上の王国にも属し、これに無責任であることは許されない。だから、地上においても御心が行なわれ、我々の隣人が我々自身と同じように正義と平和のうちに生きることを祈り求めなければならない。そういう意味で、この時のアハズ王の落ち着きのない行動や憂慮を、よそごととしてではなしに理解することは出来るであろう。そして、イザヤがこの時にアハズ王に会いに行って語った言葉の意味を深く捉えることが出来るであろう。
ユダよりも強大な二つの国が連合して攻め寄せた。二つの国が同盟してユダに攻めて来たのは、自分たちの同盟に加わって、北から迫っているアッシリアの脅威に対抗しようではないかと誘ったのに、アハズが乗って来なかったから、威嚇したのだという解釈がある。列王紀下16章5節以下に、レヂンとレマリヤの子がエルサレムに攻めて来た時の情勢が書かれているが、アハズは二つの国の連合軍に攻められて困難を覚え、アッスリヤ王テグラトピレセルに貢ぎを送りかつ臣下として服従して、助けてもらおうとしたことが記されているから、その解釈で良いと思うが、今はそのような事情を考えなくても、聖書の主旨を読み取る上で支障はない。
ここには、後で触れるが、単に北隣の2国の言うことを聞かせようというだけでなく、ユダ王家の系列を変更しようという企てまであったらしく思われる。だから、ユダの国の多くの人にとっては大問題であったようである。
「王の心と民の心は、林の木が風に揺れるように揺れた」と2節に記されていた。民の中には茫然自失する者もいたに違いない。高級官僚の中には何も公けの仕事が手につかず、呆然としている人、あるいは自分の生命と財産の安全しか考えられない役人もいたであろう。しかし、王アハズは、有能な王とは決して言えなかったが、国の危機を何もしないで眺めるわけには行かぬということは弁えていた。しかも、自分の家系が絶やされることを非常に恐れた。だから、彼は防備の手薄な箇所を見て廻り、水の備蓄や供給が大丈夫かどうかを確かめに行った。
職務に勤勉な王だと言って良いかも知れない。しかし、国の危機に臨んで、あれこれの処置を考えることが、本当に必要また有効かどうかを吟味する知恵こそが王としては必要であったのだ。さらに、いろいろな脅かしを聞かせられていたが、相手方にそれを実行する意志と力があったかどうかは、結果から見ればかなり疑わしい。それを見抜くことが出来ないで恐れたのは王として失格ではないか。
さて、イザヤが会いに行った時、アハズは恐れの絶頂にいた。そのことは容易に推測できる。王の側近には情報提供者が多くいて、言ってくれることはいろいろあるが、聞けば聞くほど心配の種である。あれもこれも心配で、とりわけ心配な場所を見に来た。そこで彼は神から遣わされた預言者と出会う。そこで聞く言葉は全く別の種類の言葉である。
では、アハズは預言者の言葉を聞いて信仰に立ち返ったのか。そうではなかったらしい。彼は信仰的には依然として優柔不断であった。そしてますます悪くなって行ったようである。しかし、今見なければならないのは、アハズ王が立ち返った事を我々の模範とせよとの教訓ではなく、立ち返らなかったために破滅して見せしめになったという前例でもなく、神がその民の危急の際に、これを見捨てることなく、ご自身の使いである預言者を派遣し、それを通じて御言葉を語らせたもうたという点である。
すでにイザヤの召命のところで読んだ通り、イザヤは語っても語っても人々が聞かないそのような言葉を語るべく任職されて派遣された。人々が聞いて、悔い改めてくれれば、メデタシメデタシであろうが、そうならなくても、失敗ではなかった。人々が聞いても聞いても、頑なに悔い改めない場合であっても、神の言葉は空しく地に落ちたわけではない。大切なことは、人々によって聞かれることよりも、然るべき時期に、然るべき状況において、御言葉が語られるために、預言者が遣わされたという事実である。
したがって、我々は今日の時代の中で、自分がこの御言葉をどのように聞き取るか、という個人的な課題ももちろん重要であるが、それよりも、先ず、公的な問題を考えなければならない。すなわち、今日、この危機の中で、御言葉が語られているのかどうか、さらに言うならば、今も御言葉が語られるべきであるならば、我々の務めはどうなのか、というところに思いを致さなければならない。
どうせ語っても、今の人は聞いてくれないのだから、口をつぐんでいても同じではないか、と考えてはならない。人が聞いてくれないとしても、神の言葉は今語られなければならない。ならば、語る者が今も立てられるのである。だから、それを語る務めも立てられる。「誰が行くであろうか」との声が響いたならば、「私が行きます。私を遣わして下さい」と言う人が出て来る。
「気を付けて、静かにし、恐れてはならない」。この言葉は今日、聞く人がいるかいないかの問題を越えて、語られねばならないということをシッカリ考えて置こう。
「静かにせよ」と言われる。これは何もしないということと良く似た一面を持つが、それだけでなく、確固たる神信頼に立つことでもあると先に見た。
「神は尊ぶべきお方であるから、出来るだけ神に仕えなければならない」と言われると、その通りだと思う人は我々の中に多い。そこで、神のため、また隣人のために、多く働けば働くほど正しいのだという観念が、我々の間では当然の真理のように見られやすい。が、キリスト教がいつでも・どこでも、こういう調子であったというのではない。我々の時代がそうなっているということを弁えて置くべきであって、時代のこのような傾向については冷静に考えていたい。働けば働くほど信仰的であると思わなくて良いのだ。
勿論、信仰を強調して怠惰に居座り、不注意を図太く自己肯定し、ぞんざいに振る舞い、また無神経になるのが当然なのだと開き直るべきではない。しかし、何かをしているのは何もしていないより正しいと思い込みやすいその思い込みには、注意深く、批判的にならねばならない。この注意深さが今日学ぶ大事な点である。すなわち、注意深くしていないと、正しくないことを正しいと思い込んでしまうからである。
何かしなければいけないのではないか。ジッとしていてはいけないのではないか。そういう焦りが募って来るのが今の時代である。その焦りがいけないという議論をしようとしているのではない。が、この不安の時代の中で落ち着いていることが信仰者たる我々にとって大事である。
次に「恐れてはならない」と命じられる。恐れるといっても特定の何かを恐れる場合と、特定のものがなくても恐れる場合がある。アハズはこの場合レヂンとスリヤ、およびレマリヤの子とエフライムとを恐れた。その武力をおそれた。しかし、何々を恐れるというのと、ただ恐れるというのと、区別することは結局意味がない。恐れる人には存在しないものでも恐ろしいのである。
「レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りの燻っている切り株の故に心を弱くしてはならない」。
この二つの国とその王たちが怒りに燃えて攻め寄せても、燃え残った切り株がくすぶっているようなものであって、何も恐れることはない。その詳しい具体的説明は7節以下で学ぶことになっているから、今は恐るるに足らずと言われるだけで十分として置こう。恐るべきものと見えるということと、真に恐るべきであることとは全く別なのだ。
したがって、何かを恐れるなというのと、ただ単純に恐れるなというのとは同じであって、何々を恐れるな、と特に言わず、ただ「恐れるな」とひとこと言うだけで十分である。聖書には、「恐れるな」というだけの励ましの言葉が至る所に語られることを信仰者らは知っている。恐れないで静かにしていることが信仰者の目印だと言って良い。
真に恐るべきものは何か。これを我々に的確に教えるのはイエス・キリストの御言葉である。こう言われる、「体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者を者どもを恐れるな。むしろ、体も魂も地獄で殺すことの出来るお方を恐れなさい」。マタイ10章28節である。
5節6節に学びを進めて置く、「スリヤはエフライムおよびレマリヤの子とともに、あなたに向かって悪い事を企てて言う、『我々はユダに攻め上って、これを脅かし、我々のためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王としよう』」。
神はアハズの不安と懊悩をことごとく知っておられ、彼の聞かせられている脅かしの言葉はこれではないか、と見抜いておられるように思われる。
この「タビエルの子」という人物が誰かは分からない。スリヤとエフライムの王の言うことを聞く者を、アハズの代わりにユダの王に据えようという考えであることは確かであるが、ユダ王族のうち比較的縁遠い者を連れて来るということでなく、この際一挙にダビデ王朝を廃止し、非ダビデ系の王朝を立てようとしていたのではないかと推測することが出来る。すなわち、タビエルという名前はダビデ一族はもとより、イスラエルの諸族にもなかったのである。これはシリヤ人の名である。ユダ王国は滅ぼさないが、ダビデの家系が王になることはなくそうと企んでいたのは確かだと思われる。だから、国は残すが、ダビデの血筋に属する者は全部絶やすことになっていたと思われる。
13節でイザヤはアハズに「ダビデの家よ」と呼び掛けるが、ダビデ系の王であることを強調しているのではないかと思われる。王がダビデの家系であるかどうかは、重要なことでないという意見もあると思うが、イザヤ書においては、ダビデの子孫からメシヤが出るとの預言が重要であることを我々は知っている。
これはスリヤとエフライムの災いからの救済ということを必ずしも言っていない。ただ、ダビデの家は、それ自身として祝福を受くべきものではないとしても、ダビデの子が世界の祝福を担っていることは確言されるのである。
そこから目を転じて、現代の問題である。今、世界が壊れて行く。日本が壊れて行く。キリスト教が崩壊する。そういう危機感を我々は日夜抱いている。その危機の中でも我々は神の真実と慈愛に依り縋って立とうとしているのは言うまでもないが、単に恵み深い神の助けを期待するのではなく、ダビデの子として来たりたもう神の子。その到来の約束の確かさこそが、現代の底知れぬ破滅への沈下の時にも我々の希望であるということをここで捉えなければならない。