2004.12.26.


イザヤ書講解説教 第26回


――7:1-4によって――

 

 6章の初めで見たように、イザヤが預言者としての召しを受けたのは、ウジヤ王の死んだ年であった。年代はハッキリ分かっていて、紀元前640年である。その後を継いだのはウジヤの子ヨタムで、16年間世を治めた。そして、その死後、ヨタムの子アハズが王となって16年間国を治めた。その時代に、ユダの隣国であり兄弟であるイスラエルと、さらにその北にあるスリヤの両国が連合してエルサレムに攻め寄せた。これがイザヤ書7章の初めに書かれている戦争である。列王紀下15章と歴代志下28章にも書かれている。
 イザヤが召命を受けた記事の次に、アハズ王の代の戦争のことが出て来るので、預言者として最初の活動がこれであったのではないか、と見る人もいる。それが正しいのかも知れない。だが、召命を受けたのに、16年以上待機していたのであろうか。また、召された時、「主よ、いつまでですか」と深刻な思いで問うていたイザヤが、その後長く沈黙していたと考えることも無理であろう。
 召命の日から預言者活動は始まったのであろう。あの時に、「あなたは行って、この民にこう言いなさい」と命じられた主の言葉を、彼はそれ以来語り続けたと理解するほかない。「あなた方は繰り返し聞くが良い、しかし悟ってはならない。あなた方は繰り返し見るが良い、しかし、分かってはならない」。
 「主よいつまでですか」というイザヤの悲痛な叫びに答えて、主は言われた、「町々は荒れ廃れて、住む者もなく、家には人影もなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れ果てた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている」。
 だとすると主が予告された破滅の日はまだ来ていない。町々はまだ荒れ果てていない。人々はまだ遠くの国に捕らえ移されるに至っていない。むしろ、5章で読んだように、「家に家を建て連ね、田畑に田畑を増し加え」と言われるような繁栄があったのではないか。「彼らは朝早く起きて、濃き酒を追い求め、夜の更けるまで飲み続けて、酒にその身を焼かれている」という贅沢と頽廃、それは一部の人々に限られていたと思われるのであるが、それでも町々に住む者がないという状況とは遥かにかけ隔たっていた。人々は富の増し加わるに連れて、「しかし、彼らは主の御業を顧みず、御手のなされる事に目を留めない」と5章12節に言うような事態になって行った。その中で預言者は叫び続けた。
 そしてアハズの代になって、事態はいよいよ厳しくなって行ったようである。というのは、列王紀下16章、また歴代志下28章はもっと詳しいのであるが、アハズ王が位についたことを述べたのに続いて、「アハズは王となった時20歳で、エルサレムで16年の間世を治めたが、その神、主の目にかなう事を先祖ダビデのようには行なわなかった。彼はイスラエルの王たちの道に歩み、またイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行ないに従って、自分の子を火に焼いて捧げ物とした。かつ彼は高き所、また丘の上、すべての青木の下で犠牲を捧げ、香を焚いた」と書かれているからである。
 自分の子を火に焼いてモロクの神に捧げるということは、平凡な常識でも分かるが、最も忌まわしい宗教的堕落とされていた。エレミヤもこの忌まわしい事件を何度も取り上げるのであるが、以前に行なわれたこの忌まわしいことの結果として国が滅びるのだと言う。イザヤの時代がユダ国にとって恐るべき宗教的頽廃の時代であったことが、このこと一つを取っても分かる。
 その時に、隣の二つの国が連合してエルサレムに攻め寄せた。1節にこう書かれている。「ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが上って来て、エルサレムを攻めたが勝つことが出来なかった」。
 この1節で結末まで書かれているが、二つの国が連合して攻めて来たならば、とても勝つことが出来ないと、ユダ国の中では大騒ぎをしていた。その様子は2節に書かれている。
 「時に『スリヤがエフライムと同盟している』とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは、風に動かされる林の木のように動揺した」。
 「攻めて来たが、勝つことが出来なかった」というのが今1節で読んだ結論であるが、何事もなかったかのように受け取っては実情を見誤ることになろう。イザヤ書には最も大事なことだけしか書かれなかったが、この時の国家的危機を列王紀と歴代志はもっと詳しく書いている。例えば、歴代志下28章には、スリヤ軍がユダの人を多数捕らえてダマスコに引いて行ったし、イスラエル王ペカはユダの勇士を1日で12万人殺し、また男女20万人を捕虜としてサマリヤに連れて行ったこと、しかしサマリヤにはオデデという主の預言者がいて、兄弟であるユダの人を捕らえて奴隷にするならば、主の怒りが激しく我々の上に臨むと警告し、それを国に帰らせたことが書かれている。
 列王紀と歴代志は、この時、ユダの王朝がどういう処置を取ったかについても述べており、イザヤ書はそのことには触れていない。すなわち、アハズ王はスリヤの彼方にある大国アッスリヤの朝廷に使いを送って贈り物を差し出して助けを求めた。そして、何の効果もなかった。
 そのような歴史的事情を頭に入れておいて良いであろう。そういう事情が分かれば分かるほど、聖書がよく分かると言う人もいる。一見もっともな主張である。我々もそのような事情を無視しようとは思わない。けれども、そのような事情についてどれだけ調べ上げても、そしてその調べが聖書を調べることであっても、そのやり方で我々の救いの道が見えて来るわけではない。今日は多くのことを学んでそれで現代の我々のなすべきことの参考にするのではない。全く単純な事だけを学ぶのである。
 「時に、『スリヤがエフライムと同盟している』とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは、風に動かされる林の木のように動揺した」。このことについては、説明は何も要らない。彼らの不安、動揺、心細さはよく分かる。我々の生きている現代の事項に当てはめて説明するまでもない。
 「その時、主はイザヤに言われた、『今、あなたと、あなたの子シャル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、彼に言いなさい。<気を付けて、静かにし、恐れてはならない>』」。
 イザヤに出て行くことが命じられた。出て行く先、連れて行く人、会う相手、伝えるべきメッセージ、それが指定される。イザヤが預言者でなく、文筆家や評論家であったなら、このような細かな指示は与えられなかったかも知れない。こういう主旨のことを伝えよ、と言われるだけで足りたかと思う。基本的なことだけ指示されて、あとは適宜、自分の裁量で処理して良い場合はある。細部まで規定される必要のない場合はある。その方が多いのではないか。
 今、細目まで規定されることについて、二つの点を見ておこう。一つは、神の言葉を語る場合、語る人は命じたもう神に徹底的に従順でなければならない、ということである。神からヒントだけを頂いて、後は自分で自由に考えを組み上げて行けば良いというのとは根本的に違う。そこで、神から細目まで規定されないとしても、命令を受けた者は、己れの実行することが神の御旨にかなっているかどうか、細部に至るまで検討しなければならない、という意味がここから読み取られるのである。
 第二に、神はこのように具体的な細かい指示を与えることによって、預言者のなす一挙手一投足まで、ご自身の管理のもとにある業であることを主張したもう。細部には拘らなくて良い、という言い方は納得出来るし、実際、細かいことに拘り過ぎて大事なことを見失う実例は多い。しかし、だからと言って、細部において神の示したもうことが無視されてはならない。それでは結局、神の言葉は聞く人に届かない。今日においても、神の言葉を聞くときには、細目を無視しないという意味を含むのである。
 さて、先ず「あなたとあなたの子シャル・ヤシュブ」と言われる。あなたイザヤが行くのである。勿論、あなた自身でなく、誰かを使いに立てるということはある。しかし、預言者自身がすでに使いの者であるから、使いの者がさらに使いの者を差し向けるという場合は余り考えない方が良いであろう。自分自身が務めを託され・遣わされたものであることの意味を軽くするような考えは避けなければならない。
 神はまた、王を動かすために民衆を動かせとか、有力者を動かせということは命じたまわない。預言者が全ての民に宣言することは当然ある。けれども、大衆を動かして、それから上にある権力を動かすという手順は政治家にはあるとしても、預言者の手段にはない。そのような迂回手段は預言者には馴染まない。神から遣わされて語る人は、自ら相手に伝えるよう命じられたのであるから、自分で出向くのである。
 相手が最高の権力者であって、かつ寛容の徳を持たず、己れの意見に逆らう意見を語る者を殺すような暴君であるとしても、これに直接語るのを避けるのは正しくない。神の言葉を語る者はそのために殺されることを当然覚悟しなければならない。
 さらに、イザヤは息子のシャル・ヤシュブを連れて行くことを命じられた。神から遣わされた人が誰かを伴って行く場合は多い。常にこうでなければならないというわけではないが、重要なことには2人の証人が必要である。
 士師記7章10節にギデオンが神から命じられて、敵陣を偵察に行く時、僕プラを連れて行くように命じられたことが記される。敵軍の陣営に入って行くのは、それだけでも命がけの危険な業であり、そこに直接には役に立たない足手まといの僕を連れて行くのは無謀なことのようであるが、一段と慎重にならないではおられない。神はそういうことを考えたもうたのであろう。イザヤが今アハズに会いに行くのは命がけの冒険かも知れないが、それだけに、子供を連れて行く意味があると考えて良いであろう。
 しかし、ここで考えなければならない最重要なことは「シャル・ヤシュブ」という名そのものである。この名は「残りの者が帰って来る」という言葉なのだ。イザヤ書の1章8節に「シオンの娘は葡萄畑の仮小屋のように、キュウリ畑の番小屋のように、包囲された町のようにただ一人残った」と先ず言われた。真の主の民は自分で主の民と名乗り、真の主の民だと思っている者らではなく、少数の残りの者だけなのだ。多数は打たれて滅びるのである。
 しかし、このことは残される少数者に希望を繋ぐことが出来るという意味に読むべきである。今引いた次の9節には、「もし、万軍の主が我々に少しの生存者を残されなかったなら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう」と言われた。ここにイザヤの預言の中核的なものがあることに我々は留意して来た。
 シャル・ヤシュブがイザヤの何人目の子であるかは分からないが、残りの者の預言をしていた時に生まれた子であったと考えて良い。それは1章8-9節の預言をした時か、6章13節で「その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木または樫の木が切り倒される時、その切り株が残るように。聖なる種族はその切り株である」との預言を賜った時かも知れない。
 あるいはまた、10章20節以下、「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者に頼らず、真心をもってイスラエルの聖者、主に頼り、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」という預言をしていた時か。そのほかにも、この種の預言が語られた機会は多い。
 イザヤは自分の語っている預言をそのまま子の名前にした。それは語るその言葉に生き抜くという意味、そして、たといこの預言を語っている道半ばで倒されることがあっても、預言は残るという意味である。
 預言を子の名前にするのはシャル・ヤシュブの時だけではなかった。7章14節にはインマヌエルという名があるが、これもイザヤの子の名前である。8章1節には、マヘル・シャラル・ハシ・バズという名がある。これも預言をそのまま子供の名にしたものであった。そして、8章16節-18節にこのことをする意味が語られている。「私は証しを一つに纏め、教えを我が弟子たちのうちに封じて置こう。主は今、ヤコブの家に、御顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる。見よ、私と、主の私に賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルの徴しであり、前触れである」。
 イザヤがその召命の日に聞いたように、彼の語る言葉は人々から受け入れられない。語っても語っても、反発と迫害を招くのみではないか。いや、そうではない。私と主が私に賜わった子ら、すなわちシャル・ヤシュブ、インマヌエル、マヘル・シャラル・ハシ・バズはイスラエルの徴しとして立っているのだ。
 シャル・ヤシュブを連れて行く意味はそこにある。預言は単に言葉として語られただけでなく、碑が建てられるように、一つの実物となる。例えば20章にあるが、イザヤは3年間裸、裸足で町を歩いて、エチオピヤの敗北の徴しとなることを命じられる。人々はアッスリヤから迫る圧力に抗するため、エジプト、エチオピヤと結ぼうとする。そのことの危険を示すために、自らの恥を曝して、あなた方の頼りとするエチオピヤはこのようになる、と身をもって徴しとした。これは多くの預言者に実例を見る象徴的行為である。彼らは人々に言葉を語るだけでなく、しばしば苦痛を伴う徴しを示した。イザヤの場合は子たちも預言者の負わせられる苦痛に巻き込まれた。このようにして御言葉の真実は証しされたのである。
 さて、イザヤが行くように命じられたのは、布晒しの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端であった。神はアハズが今いる場所を把握しておられる。これがどういう場所であるか正確には分からない。上の池というのは下の池と対になって呼ばれる高い方の貯水池である。エルサレムでは泉から集めた水を貯水池に貯めていた。アハズがここに行ったのは、エルサレムが篭城した時、水の確保が心配であったからであろう。
 もう一つ考えられるのは、この同じ場所がイザヤ書にもう一度出て来るからである。36章にヒゼキヤ王の第14年にアッスリヤの軍隊がエルサレムを責め囲んだ時、アッスリヤ軍の大将ラブシャケが、布晒しの野へ行く大路に沿う上の池の水道の傍らまで来て大声で呼び掛けることがあった。
 想像すれば、ここはエルサレムの一番高いところ、したがって城壁が最も低くなっている地点で、城壁外から呼び掛け易いところであった。だから、防備が一番弱いところ、したがって一番心配な箇所であったと考えられる。新しい工事の様子を見に来たのかも知れない。
 アハズにとって心配でならない所であった。そこへ行って、「気を付けて、静かにし、恐れてはならない」と語らせることが神の御旨であった。これは驚くべく単純な指示である。単純過ぎてこれでは説教にならないと言う人がいるであろう。しかし、複雑な問題にさらに複雑な解決策を当てるのが人間の知恵であっても、その知恵の破綻を知る我々は最も単純なところに立ち返るのである。

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