2004.11.30.


イザヤ書講解説教 第25回


――6:11-13によって――

 

 「そこで私は言った、『主よ、いつまでですか』」………。
 神はイザヤを召して、預言者の務めを授け、務めを遂行するに必要な前提となる罪の赦しと潔めを与え、次に、語るべき言葉を授けたもうた。それは9節10節で学んだ通りであるが、語るべく託されたものは厳しい言葉であった。聞く者に対し何とかして聞かせようと、心を砕く説諭とか説得という種類のものではなく、対決とか審判をつきつけると言うべき峻烈な言葉である。聞く方も辛いが、語る方も辛い。
 主の命令であれば、辛くても語らなければならない。それはイザヤに分かっている。しかし、主は人間の弱さをよく知っておられるから、こういう峻烈な言葉を語る限度を主は設けて下さるのではないか。――そのようにイザヤは考えたであろうと思う。「主よ、いつまでですか」………。いつまで語れば放免して頂けるのですか。
 「主よ、いつまでですか」という問いであるが、この平明な言葉を解説する余地はないと思う。こういう問いを発せざるを得ない心の苦しみについても、説明の必要はない。普通の読解力を持つ人には分かる。
 しかし、聖書を読んでいる人には、この単純な言葉の含む重さに思い当たる。すなわち、この単純な言葉を聖書の中で聞く機会は割合多いということが先ず思い起こされる。例えば、詩篇13篇の冒頭である。「主よ、いつまでなのですか。とこしえに私をお忘れになるのですか。いつまで御顔を私に隠されるのですか」。いちいちページを開くことは省略するが、詩篇の中に似た言葉は多いのである。そういうことを思い起こせない人は、聖書をもっと深く読むようにしてもらいたい。
 この言葉が詩篇の中に出て来ることを印象づけられている人なら、自分自身もしばしばこの言葉を呟いていることに気付くはずである。例えば、病身の人には多いであろう。神に身を委ねて、神が良き時に、良き解決を与えて下さるとの期待は持っているが、病の苦しみが長引く時、「主よ。いつまでですか」と呻くことは割合ある。
 信仰生活に関していろいろな問題がある。その問題には答えがあって、自分で答えを聖書の中から読み取ることもあり、人から答えを教えてもらう機会もあり、答えを得て一応納得しているのが通例である。ところが、答えは分かっていても、分かっているだけではどうにもならないという場合が時にある。その「どうにもならないもの」が自分であったり、他者であったり、神である場合もあるが、それを乗り切る必要がある。人から出来合いの答えを貰って、それでことが済むというような簡単なことではない。自分で聖書を学んで、自分で祈りに打ち込んで、約束されている解決を自分で引き出して、それで一人前のキリスト者になる。その時、「主よ、いつまでですか」という問いは、解決を開き示すキッカケになっている。
 問いがあれば答えがある。信仰の解説書を開けば、どれにも問いと答えが並べて書いてあると思う。口で語る答えなら、問いに対して立ち所に出て来るものであるが、実際の生活の中では、本当の答えが与えられるまでには往々にして長い時間が掛かる。言葉を換えて言うならば、忍耐の修練のうちで本当の答えが得られる。だから、「主よ、いつまでですか」という呻きを重ねて行かなければならない。それなしに、もう分かったかのように思うのは危険である。
 イザヤは派遣される前に「主よ、いつまでですか」と問うたのであるから、実際の困難、苦悩は味わっていなかったと言えるかも知れないが、これからのことがここで予め示されたと見るのが正しいであろう。預言者エレミヤが、人々の聞きたがらない言葉を繰り返し語らねばならない苦衷を何度も神に訴えているが、イザヤにおいても、「主よ、いつまでですか」と問うことは何度もあったと考えてよいであろう。「いつまでですか」という言葉は時が耐え難く長いという意味を含むのである。
 さらに、「いつまでですか」という問いを聖書の中で読み返す人は、この問いが来たるべき時の啓示を聞き出す言葉であることに思い至るはずである。この問いを発しておれば、来たるべき時代がだんだん見えて来る、ということではない。しかし、「主よ、いつまでですか」と問うとは、生きる姿勢を、来たるべき時に向け、来たりたもうお方に向けて整えるという意味である。
 「主は言われた、『町々は荒れ廃れて、住む者もなく、家には人影もなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れ果てた所が国のうちに多くなる時まで。こうなっている』」。
 「いつまで」との問いに対して「こうこうなる時まで」という答えが返ってくるのであるが、これは「いつまで」という問いに対する答えであるだけでなく、「国はこうなってしまう」。その時になればあなたの務めは終わる、と答えられるのである。つまり、国の滅亡の預言が結び付いている。
 すでに10節で、御言葉が語られ、それが聞かれ、悔い改めがあって、ついに救いが実現する、ということにならないために、あなたは民の心を鈍くし、頑なにし、聞かせないようにするのだと示されたのだが、救いを拒否する頑なさがどういう帰結に至るかが11節で明らかにされるのである。
 それは国の破滅である。それも、国が破滅して、民衆が残っているという程度の状況でなく、町々に人はいない。国中は荒れ地となる。人々は主によって遠くの地に移される。つまり、これはユダの民のバビロン捕囚の預言である。バビロン捕囚といっても、イザヤに分かっているのは、「人々は主によって遠くへ移される」ということだけである。それで十分である。どこの国が攻めて来て人々を連れて行くか、ではなく、神ご自身が審判を行ないたもうという点が重要である。
 バビロン捕囚については、エレミヤの預言が遥かに詳しく語っている。エレミヤはその事実が差し迫った時に、預言を語り始めたから、預言はかなり具体的であった。イザヤはそれほど具体的には語ることが出来なかった。囚われて行く先がどこであるかも特定できない。神も捕囚の行く先を語らせる必要を認めたまわなかった。破局はイザヤの存命中には起こらなかった。
 国が滅びるということについて少し触れておこう。国が滅びることは決して珍しいことではない。日本の国では、60年前までは、この国は敗けたことがないから、千代に八千代に滅びることはないのだと随分軽薄なことを言っていた。しかし、滅びなかった国はないのである。
 ただし、国は滅びたけれども、民は残った場合は多いのである。我々の経験したところでも、沢山の民衆が戦争で殺された。といっても、戦争で戦って殺されたというよりも、非戦闘員という生活状態のままで、餓死したり、戦災にあったり、船で運ばれている途中で溺死したというような死に方をした方が圧倒的に多いのである。が、それでも、国が滅びた後も、民衆あるいは人民としては生き残ったと言うべきである。その人たちはまた別の国を建てたのである。
 ところが、ユダの国が再び建てられることはなかった。再び建てられることがなかったのは、特別な意味を帯びた事件である。神が建てさせたまわなかったのである。捕囚は解放され、帰国し、神の宮を再建したが、国家再建は出来なかった。国を建てようと言い出す人がいなかった。
 第二次世界大戦の後、それまで長い間、国を持たなかったユダヤ人が、世界の中で国土を持たない民として迫害されることはこれ限りにして欲しいと要求し、それまでユダヤ人迫害をして来たヨーロッパの人が、自分のした残虐行為、あるいは残虐行為を知っていながら見て見ぬ振りをしたことを悔いて、イスラエルという国の建国を助けた。ところが、その際、ユダヤ人が入植する地に前から住んでいたパレスチナ人を無視するような処置をとったのである。これはヨーロッパの人たちがかつて、アジア、アメリカ、アフリカに植民地を開いた時、そこの先住民の人権を無視したのと同じことの繰り返しである。それは神の正義にかなわない措置であった。
 今のイスラエル国が建国された時、これは神がかつてアブラハムに約束された子孫による世界の民の祝福が始まったと言って喜んだ人が、ユダヤ教の中だけでなくキリスト教にもかなりいたが、その人たちは今、自分の判断の甘さを悔いなければならない。神がアブラハムの子孫に国を約束したもうたその約束の国は、むしろキリストの王国と解釈すべきである。すなわち、アブラハムの子孫とはガラテヤ書3章16節の言う通り、キリストと考えなければならない。昔、イザヤの預言したところに従ってユダの国が滅びたのは、世の国々が滅びてはまた新しく建つようにして繰り返されることと似た面がないことはないが、同列ではなかったのだ。
 これは神の審判であった。さらに、見なければならない。ユダの国が預言者エレミヤの時代に滅びたのは、全て過ちを犯す国が滅びるという一般原則による面もあるにはあるが、そうでない面もある。すなわち、この国は、力ある者が立って王朝を起こすという一般原則に従って王国を建てたのではなく、神がダビデの子孫を選んで王国を建てさせたもうたから建ったのである。何のために建てさせたもうたかというと、来たるべきキリストの王国の雛形を示すためであった。だから、キリストの王国の雛形に相応しくないものは、もう建つ必要はなかった。
 そういうわけで、ダビデ王国は失われてよかったのであるが、そこで旧約の歴史が終わって良かったということではない。旧約の歴史はキリストによる再建の雛形という意味をなお失なっていなかったからである。バビロン捕囚は70年の後に帰ることを許された。彼らは国を再建したり、王宮を再建したりすることは許されなかったが、神の宮を再建することは許された。国家という共同体は再建すべきでなかったが、礼拝共同体の再建は出来た。その共同体では以前に増して律法を守ること、これを組織的に教育することを重んじた。以上のことを頭において神の審判を学んで行こう。
 次の世紀に実現したバビロン捕囚について、預言者イザヤは詳しくは語っていないから、我々もこれはバビロン捕囚のことだと指摘する以上のことは言わない。国として存続することは出来ず、主権を完全に奪われた捕囚という屈辱的な形でのみ存続したのである。「荒れ果てた所が国の中に多くなる時までだ」と主は言われた。
 続いて言われる。「その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木または樫の木が切り倒される時、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。
 残りの者という言葉に注意を促されたのは1章8節9節であったが、今、もっと強く注意を促される。第一に徹底的な破滅についての預言を聞かなければならない。残ったものも滅んでしまうのである。しかし第二に、それでも、残る者は残るということ、つまり神が残したもうということを学ばなければならない。残るということに二種類あることに注意して置こう。その違いがどうであるかについて説明は必ずしも明快とは言えないが、極めて難解であるとも言えない。
 十分の一の残りの者しか残らなかった。こういうことが起これば、人々は胸の潰れる思いで、「神よ、もう止めて下さい」と言うだろう。しかし、神は止めたまわない。十分の一の貴重な残りも滅ぼして仕舞われるのである。それでは何も残らないのか。そうではない。切り株は残ると書かれている。どういうふうにして残されるかは説明されていない。神が宜しとしたもう者が残されるのは確かである。
 焼き滅ぼされる者はことごとく滅びるが、切り倒される場合は切り株が残る、という違いがある、と言っているのではないと思う。テレビンの木または樫の木なら切り倒されても切り株が残るが、ほかの木では切り株も残らないと言っているのでもない。切り倒されるものは切り倒され、そして焼かれる。何本か切り株が残されるというのでもない。
 しかし、聖なる種族は切り株が残るように残る。――では「聖なる種族」とは何か。種族と訳されている言葉は「種」という言葉であり、これにはまた「子孫」という意味もある。聖なる民が絶滅しないように、神は種を残したもう、という意味がある。切り株というイメージと、種というイメージは我々の頭の中ではうまく合致してくれないのだが、イザヤが11章に「エッサイの切り株」と言う時、これはまた聖なる「種」を語るものであることが分かる。エッサイの切り株から生えて出た若枝、ひこばえ、それになぞらえられるのは、ダビデの裔、イエス・キリストであるということを我々は知っている。
 そのキリストと「残りの者」が同一であると言うのは無理であるが、残りの民の中心にキリストがおられる、あるいはキリストがおられるからこそ残りの民は残りの民として立つことが出来るという意味を読み取ることは困難なしに出来る。このように読み取るならば、この預言の意味はかなりハッキリ見えて来る。
 残りの者が僅かしかいないことは確かだ。その少数者が使命を担って、苦しくても主の御旨を行なって行くのだ。しかし、少数者であるから残りの者であること言うなら、単なる稀少価値を言うだけである。少ないから貴いということは、人々の間でも時には語られる。そこには殆ど確かな意味はない。救いと結び付くものはない。キリストがともにいたもうということが残りの民の確かな意味である。
 「聖なる種族」と言われる。これと同じ言葉ではなく、意味も同じではないが、申命記7章6節に「あなたはあなたの神、主の聖なる民である」という有名な聖句がある。聖なる種族である残りの者、これは少数者という意味をイザヤ書では強く含んでいるが、そのことを別とすれば、主の聖なる民ということばと極めて近い。さらに続けてこう言われる、「あなたの神、主は地の面の全ての民のうちから、あなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなた方を愛し、あなた方を選ばれたのは、あなた方がどの国民よりも数が多かったからではない。あなた方はよろずの民のうち、最も数の少ないものであった。ただ、主があなた方を愛し、またあなた方の先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなた方を導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あなた方を導き出したのである」。
 申命記のこの言葉を重ねて見るならば、聖なる種族、残りの民の意味はいよいよ明瞭になって来る。それは選ばれた民である。すでに、イスラエルという民族が選ばれた民族だと言われていたが、そこでの選びは本当の意味の選びではなく、比喩としての選びであった。だから、御言葉によって呼び掛けられていながら、悔い改めて赦しを得ることもなかった。しかし、キリストにおいて選ばれた者はまことの選びの民である。

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