2004.10.31.

 

イザヤ書講解説教 第24回

 

――6:9-10によって――

 

 「主は言われた『あなたは行って、この民にこう言いなさい、……』」。

 神はアモツの子イザヤを預言者として召し、預言者たるに相応しく整えるために、罪の赦しを与え、罪からの潔めを与えたもうたのに続いて、「行け」と命令をくだし、語るべき言葉を授けたもう、「あなたはこう言いなさい」。――ちょうど役者が脚本を渡されて、この通りにやれ、と言われたような、直接の命令である。

エゼキエルが預言者としての召しを受けた時のことを思い起こすが、エゼキエル書2章の終わりのところで、神は彼に、災いの言葉の一杯書かれた巻物を与えて、それを食べさせたもうたと記されている。――イザヤの場合、これと似た処置である。預言者というものは、資格を獲得し、権限を託され、自らの裁量によって注釈をつけながら神の言葉を取り次ぐ、あるいは解説する、というのとはいささか違って、語るべき言葉のはしはしまで決まったものを授けられるというのである。

これらの出来事は、預言者が御言葉を如何に忠実に語るべきかを明らかにするために語られたものである。つまり、神が言わんとしておられることがどういうことかを推し量り、その主旨に副って解説をするということとは全く違うのである。

社会の腐敗を見て憤る人、特に宗教的腐敗に警告を発する人が預言者とか、預言者のようだ、と言われることがある。当人も預言者を気取る場合もある。しかし。聖書にある預言者はそういうものではない。今日、危機的状況の中で、預言者の出現を待望する声は次第に高まっているように思われるが、このような時、預言者でない者を預言者と見誤る危険が昂じているから、よくよく注意したいと思う。

 それでは、イザヤの言うべき言葉は何か。――『あなた方は繰り返し聞くがよい。しかし、悟ってはならない。あなた方は繰り返し見るがよい、しかし、分かってはならない』。これはいわば脚本である。アド・リブでやれ、と任されたのではない。あなたが遣わされて行く先で、人々にソックリこう語るべきだと命じたもう。

 言葉としては何ら難しいものではない。けれども、この言葉を何故語らなければならないか。これは難しい問題である。イザヤには分かったのか。恐らく諒解は出来なかった。しかし、彼は疑問を神に突き付け、理解できるまで問うことはしなかった。黙って服従したのである。これが神の御旨であるならば、これに従うほかない。

ところで、難しい点はこういうところである。預言者が召されたのは、御言葉を語るためであって、御言葉を語るのは神の御旨を伝えるためであるはずだ。だから、勿論、語るのは聞いて分かるためである。ところが、実はそうでない。「あなた方は繰り返し聞くがよい。しかし、悟ってはならない。あなた方は繰り返し見るがよい、しかし、分かってはならない」。

次の10節で明らかになるとおり、「聞いても聞いても分からないようにするために語って聞かせよ」と命じられるのである。「聞きたくなければ、聞かなくて宜しい」と言うのではない。聞きたくなくても聞かせなければならない。しかし、そのように聞かせようと悪戦苦闘するうちに、遂に聞かせるに至るであろうとの希望が約束されているというのではない。聞いて聞いて、しかも結局なにも聞かない。

 預言者たちがこれと似た苦境に立たせられる場合は決して珍しいことではない。なるほど、預言者が語れば、堕落の極にいた異邦人であるニネベ人さえ、聞いて悔い改めたという実例はある。しかし、預言という職務は、つねに輝かしい成果を挙げるわけではない。語っても語っても、人に聞かれない、という場合がある。では、語ることは無意味ではないのか。それにも拘らず、神は「語れ」と言われる。

こういう例は非常に多い。イザヤのケースもこれと似ている。ただ、少し違う特色があると言えるかも知れない。すなわち、「聞かれなくても語れ」と命じられるのではなく、「聞いて分からなくさせるためにあなたは語れ」と神は命じたもう。聞いたけれども分からなかった、というのでなく、分からせないようにするという積極的使命がある。

 このような任務が負わせられたことは、神の言葉を素直に聞こうとする我々をも困惑させる出来事である。というのは、「信仰は聞くことによる」と我々は教えられ、その通りと思っており、したがって、御言葉を与えられたならば、聞き、聞くことによって信仰を与えられ、信ずることによって救いに至る、と承知しているからである。

この道筋が間違っているのではない。我々自身はこの道筋を経て、今、救いの成就に向けて歩んでいる。だがそこで、神の持ちたもう自由また力を見落としてはならない。神には、聞かせることによって信仰に至らせることが出来、聞かせないことによって信仰に至らせないことが出来るとともに、聞かせることによって不信仰に至らせるという自由と力もある。預言者がこのために用いられる場合もある。

 神の力は絶対であるから何でも出来るのであるが、このこと、聞かせることによって不信仰に至らせる自由があるということを重要視し過ぎてはならないであろう。預言者は神の民を悔い改めに導くために遣わされる。すなわち、かつて授けられた律法があるから、それによって神の民は如何にすれば神に正しく仕えることが出来るかを知るはずであり、道を踏み外した時は律法によって悔い改めに立ち返ることが出来るはずである。

 ところが、石の板に書かれた律法が厳然としてあっても、人々がそれを無視することは常時起こる。だから、神は預言者を立て、彼らを通じて生ける御声を繰り返し聞かせたもう。今日もある意味ではそれと同じで、御言葉を語る者を立てて語らせたもう。

そういうときに、御言葉を語る者が自らの怠慢を自己弁護するために、人々の聞かないのは神の御旨の実現なのだと、平気な顔で言って良いわけはない。御言葉を聞かせて、悔い改めを行なわせて、救いに与らせるのが、預言者の本来の務めなのだ。

ただし、預言者の本来の務めが、神の意志によって逆に用いられることはある。逆の場合かどうか分からないことが多いのだから、御言葉を語る務めにある者は、時が良くても悪くても、御言葉を語って、聞かせることのために全力を注ぐ。聞かない人がいても当たり前、と涼しい顔をしていることは許されない。自分に怠慢の責任はないのかと検討することは必要である。

では、全力を挙げて御言葉を語り、それが聞かれないとなると、その業は空しくなったのではないか。そうではない。神の計画は少しも空しくなっていない。ただ、預言者においては、その務めの業が徒労に終わったように人には見えるし、預言者自身にもそう見える。その矛盾の苦悩を預言者は担って、耐えなければならない。

 預言者の務めは光栄あるものだとしばしば言われる。それはその通りである。けれども、もう一つの面があることを、少なくとも預言者自身はよく承知していなければならない。すなわち、人間の目には徒労であったとしか見えない職務に、忍耐して仕えねばならないのである。

 10節に行くが、これはイザヤにだけ聞かせるために神の語られた解説であって、イザヤの覚悟を促す言葉である。「あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めて癒やされる、ことのないためである」。

 彼らが悔い改めて癒やされることのないようになるため。そのために語る。それがイザヤに授けられた使命であると言われる。すでに見て来た通り、これは極めて難解な言葉である。奥義である。だから、分かっても分からなくても従わなければならない。そして恐れと慎みをもって読み解かねばならない。

 語られ、聞かれ、信じられ、悔い改めが起こり、救いに至る。これが本来の救いの道である。本来のこの道筋を我々は飽くまで守る。預言者はこの本来の道のために立てられた。しかし、先に見たことを繰り返すが、神がこの本来の順序を逆に用いたもうことはある。本来の場合であっても、逆の場合であっても、語るべき務めにある者は御言葉を忠実に語るのである。

 自分が今務めに立てられているのは、本来の務めなのか、逆の場合なのかは、イザヤの時のように、知らされることもあるが、知らされないこともある。しかし、忠実に語ることだけが大事であるから、神が知らせたまわない時にも、不満を持つべきではない。

 しかし、どちらになっているのか分からないが、とにかく、どちらにしても忠実にということが結論ではないであろう。悔い改めが主題になっているからである。語るべき言葉は悔い改めへと導く言葉である。

御言葉を宣教する務めにある者は、こういう事情を心得ていなければならない。これを心得ていないならば、労が空しくなるように見える時、耐え切れなくなり、語ることに失望し、励みを失い、御言葉を曲げて、人の聞きたがる言葉を語るようになるであろう。

 他方、預言者ではないが、神を信じている人々はどうであろうか。その人たちにはこういう命令が直接には与えられていないし、そういう心得が義務付けられてもいないと見てよいであろう。しかし、事実について考えるならば、預言者イザヤは完全に孤独ではなかった。少数の者が預言者とともにいたことを知っている方が聖書理解は深まるであろう。

 間もなく、次の7章に入って、スリヤとエフライムの連合軍がエルサレムに攻めて来ようとし、ユダ全国が動揺した時のことが述べられる。イザヤは息子の一人シャル・ヤシュブを伴ってアハズ王に会いに行き、御言葉を伝える。つねにこのようにして誰かを連れて行ったわけではないが、シャル・ヤシュブはこの場合、預言者の協力者であった。このことの意味は追ってその箇所で学ぶが、預言者が一人でないことは明らかである。

 さらに、7章16節、「私は証しを一つに纏め、教えをわが弟子たちのうちに封じて置こう」とイザヤは言う。これは、大部分の人々がイザヤの預言を聞かないので、教えを弟子たちのうちに封じ込めて置こうという意味であるが、この弟子の一団、(それにはイザヤの子たちも含まれているのであるが)、この少数者のひと群れが、全イスラエルに対する証しになっている、とその後に続いて語られるように、一団となって一人の預言者の務めを支えたのである。この少数の一団は、当然、預言者の苦衷を共に担う者であった。

 イザヤとそれを取り巻く一団、これを見て思い浮かぶのは主イエスとそれを囲む12弟子の一団である。この弟子団に関して、我々は彼らの腑甲斐ない面ばかりを見て来ていると思うが、主イエスはルカ伝22章28節で、「あなた方は私の試練の間、私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」と彼らに言われた。過分の評価ではあるが、この一団の持つ意味を明らかにしている点で、注目すべき御言葉である。イザヤを取り巻く一団もそうであったことに思い至る必要がある。

さらに、今日、御言葉が聞かれなくなっている世界の中で、いや、キリスト教世界の中でさえそうなっている時、残りの者として歩み抜こうとする小さき群れにおいても同じ事情である。イザヤの群れが一団となって預言者の務めを果したように、今日においても、残りの民の一団が、一団となって、生ける御言葉を証しする。

さて、この10節が新約聖書の中に、イエス-キリストの口から語られた言葉として何度も出て来ることを我々は知っている。馴染みある言葉とは言えないが、我々が馴染もうとしないだけで、旧約よりも新約により多く出て来る御言葉なのだ。

例えば、マルコ伝4章の有名な種まきの譬の解き明かしを弟子たちに語るところで、主イエスは「あなた方には神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには全てが譬で語られる。それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めて赦されることがない』ためである」と語っておられる。

主イエスの教えの中でも、イザヤを通じてかつて語られたこの御言葉は重要である。と言うよりは、イザヤを通じて語られた御言葉の真の解き明かしが、主イエスによってなされたのである。

キリストの福音は燎原の火が燃え広がるように広がって行くという一面があるし、その逆の面もある。これは逆境と順境というような時代の風潮の違いとして分けるべきものではないと思う。この二面がいわばせめぎ合う。その中で御言葉を語るための戦いが遂行される。

主がイザヤの預言を引きたもうたのは、種まきの譬の続きであった。同じ時に同じ農夫によって蒔かれた種が、空しくなったり、芽は出しても実りがなかったり、豊かな実を結んだり、三通りの結果になった。

そのこととイザヤの預言との関連に我々は目を向けさせられている。悔い改めて救いに至ることがないようにされてはならない。悔い改めへの招きが今なされている。

 

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