2004.09.26.
イザヤ書講解説教 第23回
――6:6-9によって――
アモツの子イザヤが神の栄光の輝きを見た時、汚れた者が神を見ることは、己れの破滅にほかならないと感じたという出来事を前回、6章の初め、1節から5節にわたって学んだ。これは彼が預言者として召される第一のステップであった。我々はそれをイザヤという大昔の、遠い国の人の話し。我々自身とは関わりのない歴史物語としては聞かなかった。ここには、私自身と大いに関わりのある出来事が示されていると感じないではおられなかった。我々自身も揺り動かされたのである。
イザヤが神の栄光を見たこと、これが私にとってどういう意味を持つのかということ、それを、今日繰り返し取り上げても、飽きて退屈することはない。これはまだまだ語り尽くせないほど大きい意味の出来事である。だが、先に進んだ方が良いと思うから、反復はしない。が、ここだけで、汲み尽くせない深い意味がこめられているということは、シッカリ心に刻んで置きたい。――そのことと関連して、神の栄光を見るという出来事は、神について考える、あるいは話しに聞く、あるいは書物を通して読むことと、格段に違うのだという点も弁えて置かねばならない。
神について考えるのは無意味だと言う必要はないであろう。それだけでも我々の思想と生活を整えてくれる効能がある。いわば、一軒の家を毎日掃除するのと、しないのとの違い以上の違いがある。しかし、家を掃除して、整った状態に保つことは出来るが、家を建て直すことと比べると全然違う。それ以上に、比較することが出来ぬほどの違いが、神を考えることと、神を見ることとの間にある。一軒の家を壊して、土台を据え直して、建て換えることになぞらえるような大変化が実際に人生の中に起こる。それが生ける神との出会いであり、あるいは栄光の神を見ることである。神を考えているだけでは、人間の本当の変革、悔い改めと再生は起こらない。
ただし、家を建て換えるという譬えを借りたが、神の栄光を見たから、自分は建て直された人間なのだ、と簡単に考えては非常に危険である。神の栄光を見ることによって変わり始めるのは確かであるが、現実の生活は、まだ殆ど何も変わっていない。学びを次の段階に進ませなければならない。
第二のステップは罪の潔めである。そして第三のステップが預言者としての召しであり、この召しには直ちに派遣が結び付く。召されることと遣わされることとは混同しないほうが良いが、切り離すことの出来ない一連の連鎖として捉えなければならない。さらに、派遣された者が何を語るかというさらに重要な事項が、その次に語られるのであるが、今回はそこまで入れないであろう。
さて、イザヤの場合、預言者としての召しであったが、それ以外の務めも神は多種多様に設けたもう。それらの務めに召される人もいる。さまざまな務めがあるが、務めの優劣はない。どれも、神からの召しによっており、召したもうお方のみが尊ばれるべきだからである。今、預言者の召しを見て考えるのであるが、それは、神から召されるということが何であるかを見る典型がここにあり、したがって、預言者以外の務めに召された者にも適用出来ることがここにある。
ただし、預言者の務めと、その他の務めとの違いがないわけではない。預言者の場合には、召し、また派遣に関しての典型的なものがここに見られるのであるが、それ以外の務めを取り上げても、召される・遣わされるということの典型が読み取れるわけではない。務めのための任命ということがあるかどうか、という違いを考えなければならない。ただし、この任命については今回はエレミヤ書1章5節に触れるだけに留める。「あなたを立てて万国の預言者とした」と神はエレミヤに言われた。この任命の宣言はイザヤの場合は記されていないが、任命がなかったということでは決してない。
預言者の務めと他の務めと、どこで違うかと言うと、預言者は、「このように語れ」と命じられ。その言葉を正確に、何も付け足さず、何も差し引かずに、語らなければならない。自分の裁量を交えて語る余地は、原理としては全くない。ところが、他の務めに遣わされた者は、かなり大幅な自分の判断を差し入れて良い。神の栄光のため、また隣人への愛という二つの大枠がはめられているが、その大枠の中で、最も良い方法を自由に選択して行くのである。むしろ、それが命じられていると言うべきであろう。それと比べるならば、預言者のなすべきことは極めて厳格に規定されている。
ここで、現実の教会の中で、この厳格な規定が御言葉を語る者において守られているかどうかを検討することこそ、今日の緊急の課題ではないか、と提案されることがあると思う。その提案は間違っていない。我々がいつも考えていなければならない問題がここにある。しかし、今日はイザヤ書の文脈に沿って少しでも先に進んで置こう。
今日は、第二のステップを学ぶのである。召しを受ける前に罪が潔められたこと、もっと厳密に言うならば、先ず、神の前で自分の罪の深さを悟り、破滅せんばかりになって、いや、むしろ滅びを内面において実体験すると共に、その滅びの中からの再生を味わい、次に、祭壇の上から運ばれて来た炭火で唇を焼かれるという象徴的儀式によって、罪の潔めが宣言される。
このことの意味を考えてみよう。罪の潔めという手続きが必要なのか、と問う人がいるはずである。神が宜しと見て選んでおられるなら、汚れた人間が、汚れた人間のままで神の器になれるのではないか。我々の間で親しまれ、広く語られている慣用語に「土の器」という言い方がある。土で作られた、脆い、また汚れた器に過ぎないけれども、神が用いたもうなら、こういう者でも、或る役割を果たすことが出来るのではないか。
一体、預言者として召されるに当たって、先ず罪の潔めを受けねばならないのか。預言者たちの記録を見ても、罪の潔めがあったと記す場合は殆どないではないかと思われる。しかし、イザヤが自分の汚れを意識したことは我々にも分かるし、汚れたままの人間が聖なる神の負わせられる務めを担い得ないのは当然ではないか。
この問題については、召され、遣わされる人間に重点を置いて考えるべきではない。召したもう、そして遣わしたもうお方に目を向けたい。神は何をなすこともお出来になる。だから、相応しくない者が召されるということはあるのだ。人間の目で見て「相応しい」と到底言えない者が召されるということもある。しかし、召されるということと、遣わされることとを混同してはならない。
イエス・キリストが12弟子を召したもうたことを考えて見よう。主は召された者をスグそのまま派遣されることはなかった。3年ほど訓練された。そのように、終わりの時に至るまで、遣わしたもう方は、整えられた者を派遣したもう。
神が召したもう場合、召された者が本当に相応しいかどうかは、神が知っておられるだけで、人間には隠されており、本人にも分からない。しかし、神が遣わされる場合は分かっている。だから受け入れる。それが本来のことである。だから、遣わすお方は、遣わされる者を、遣わされた者に相応しく整え、それから遣わしたもう。
悪人が悪をなし、その悪の業を我々が神の御心から出たものとして受け入れることは、素直に受け入れ難いことであるかも知れない。それでも、これは我々の従順が問われる場面である。その悪人は、神によって遣わされたと確かに言えるのであるが、それが本来の意味における派遣でないことは分かる。それを判定するのは、それほど難しいことではない。すなわち、遣わされた者に、神から遣わされたから、自分は遣わされた者らしく、忠実に勤めなければならないという使命感があるかどうかを見ること、これは簡単に見分けがつくのである。
「遣わされた」ということが真実に語られる場合には、遣わしたもうお方が、その者を遣わされたに相応しく整えたもうということが見られると共に、遣わされた者には遣わされたに相応しく、励みをもって務めを遂行する忠実さ、使命感というものがある。遣わされた者がどのように励まなければならないかについては、今日のところこれ以上は触れないが、遣わしたもうお方が遣わす者としての誠実さを如何に遂行したもうか、これを学ぼう。そこで 遣わされる者が先ず潔められるということを確認して置きたい。
6節、7節を学ぼう。「この時、セラピムの一人が火箸をもって、祭壇の上から取った、燃えている炭を手に携え、私のところに飛んで来て、私の口に触れて言った、『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪は赦された』」。
この場面を思い描こう。イザヤは神殿に行って立って祈っていたのであろう。神殿の手前に祭壇があり、彼はその祭壇の手前、外側に立っていたのではないかと想像される。というのは、神殿の奥に主なる神が高き御座に座しておられ、その衣が神殿から溢れるようになっており、セラピムが祭壇から炭火を取って来る。これらのことが一目で見えるところに立っていたと考えられるからである。近寄らなければ神殿を満たしている神の衣は見渡せないし、近付き過ぎては祭壇は振り返らなければ見えなかったであろう。
祭壇の上には、イザヤ自身が捧げた燔祭が焼かれていたと思う。旧約時代の信仰者は、燔祭と祈りとを結び付いたものとして理解していたということを我々は知っている。燔祭が焼かれて煙が立ち昇って行くように、祈りが天に昇って行くと彼らは考えていた。その日、彼が何を祈ったか、それは我々の想像に余る。考えても良いが、必ず知らなければならないこととは別である。
ただ、イザヤが祈りのうちに神の栄光を見たこと、祈りのうちに神の言葉を聞いたこと、これは捉えて置いて良いであろう。我々も祈りを抜きにして預言者の使命を考え、祈りを抜きにして預言の内容を考えないようにしたい。
さて、セラピムは祭壇の炭火を取る。これはイザヤの捧げた燔祭の犠牲を焼くための炭火である。イザヤが自分自身を燔祭の小羊になぞらえ、焼かれるべきものとして神に捧げたと考えるべきかどうか分からない。供え物の小羊は焼き尽くされねばならないのであるが、人間も神の前に焼き尽くされねばならないという意味があっただろうか。
アブラハムがイサクを燔祭として捧げようとし、神がそれを差し止めたもうた創世記22章の事件は有名である。幾つかの宗教には人間を殺して捧げるのが最高の献げ物であるという迷信があるが、聖書はそういうことを教えていない。殺して捧げるのではなく、己れ自身を生ける供え物として捧げよと教えられるのである。己れを生け贄として捧げることは神の御子がして下さった。御子にしか果たせないことであった。
しかし、火で焼き滅ぼされることによって、新しい命に入るという象徴は、意味としては言えるし、言わなければならない。この場合、イザヤの罪が焼き滅ぼされたのである。それは古き人が焼き滅ぼされて、新しい人として再生するという意味まで読み取ることが出来るであろう。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪は赦された」。
「悪が除かれ、罪が赦された」と語るが、再生の御業がどこまで進んだというのであろうか。これを突っ込んで考えることは難しく、しかもさほど意味はない。再生の御業がイザヤの内で始められたのは確かである。そして「あなたの悪は除かれ、あなたの罪は赦された」という宣言は、セラピムの言葉として記されているが、神の宣言であることは確かである。したがって、疑問を挟まず、反論をせず、素直に受け入れるほかない。
この宣言が遣わされた者の確信の根拠になっていることもシッカリ聞き取って置こう。ここには、ローマ書8章の言葉と同じものがある。「誰が神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。誰が私たちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、甦って、神の右に座し、私たちのために執り成して下さるのである」。
8節に入ろう。「私はまた主の言われる声を聞いた、『私は誰を遣わそうか。誰が我々のために行くだろうか』。その時、私は言った、『ここに私がおります。私をお遣わし下さい』」。
ここでは遣わされる前に、先ず召し出され、召しに答える者となる箇所を学ぶのである。イザヤが召しに答えた応じ方は、他の預言者と比べると、「私を遣わして下さい」という積極的なものであったと評価する人がいる。なるほど、エレミヤを見ると、彼は召しを受けた時、「ああ、主なる神よ。私はただ若者に過ぎず、どのように語って良いか知りません」と言って召しを断ろうとしている。消極的と言えるかも知れない。しかし、イザヤが初めに、「ああ、私は禍いだ」と言ったのと比べてエレミヤの方が消極的だと言えるかどうか。人間のタイプは違う。召された人間のタイプの比較をしてもそれほどの意味はないではないか。ここは単純に、主が召したもう時、主の僕は服従の姿勢で召しを受けていると言うだけで良いのではないか。
イザヤはこの時初めて神の声を聞いた。これまではセラピムの声を聞いていただけである。しかし、直接に神の口から出た言葉と、神の遣わしたもうた者を通じて聞く言葉とは、区別をつけないのが聖書を学ぶ者の守るべき原則である。
それで不都合はないのかと言われると、あるにはあるのだ。聖書に沢山その実例が載っている。「私は主から遣わされた。これが主の言葉だ」と名乗って、偽預言者や偽使徒が偽りの言葉を「神の言葉」と称して語った例は数え切れない。それでも、遣わされたと言う者を遣わされた者として受け入れるという原則は変更されていない。
では、偽預言者が際限なく出現して、収拾がつかなくなったかというと、それはなかった。長い戦いがあったのであるが、偽預言者は結局消えて行く。言葉は残らない。つまり、神は御言葉を聞くべき民に聞く耳を備えたもう。偽預言者の言葉を喜んで聞く者の方が真の預言者の言葉を聞く人よりも遥かに多いという現実を我々は知っている。では、真の福音はどんどん埋没されて行くかといえば、そうではない。神がその民を残したもう故に、神の言葉は失われないで残る。偽りの言葉は聞く人がなくなって立ち枯れになる。
イエス・キリストはヨハネ伝10章で、「私の羊は私の声を知っている」と言われる。神の言葉が埋もれることはない。神は御言葉を御自ら守り、そのために民に聞く耳と見る目を授けたもうことを先ず信じなければならない。ただし、聞く耳を持つ民は少ない。これが次回以後学ぶイザヤ書の重要な問題である。
聞く人が少ないという状況は、語る預言者にとって辛いことであると言えるようだが、それをことさらに強調するのは読み違えを起こす。むしろ、「少数」ということに積極的な意味がある。少し先のことに触れて置くが、8章16節でイザヤは言うのである。「私は証しを一つに纏め、教えをわが弟子たちの内に封じて置こう。主は今、ヤコブの家に、み顔を隠しておられるとはいえ、私はその主を待ち、主を望みまつる」。――イザヤの預言を聞く人は僅かしかいなかった。イザヤはその少数者のサークルの中に御言葉を封じ込めるようにして語った。その少数者に望みがあることを知っていたからである。
神が召したもうなら、答えなければならない。すでに罪の赦しを得た者として、恐れず、確信をもって応じ、確信をもって語り続けるのである。