2004.08.29.


イザヤ書講解説教 第22回


――6:4-7によって――

 

 

 「預言者イザヤの召命」と普通、呼ばれている出来事について、6章の初めから学び始めた。全体としての主題は召命と派遣と課題ということになるであろうが、順序として先ず、神がご自身の聖なることを顕したもうた。それは、イザヤが礼拝のために神殿の前に進み出た時の体験である。
 この時の体験をイザヤがその後、自ら筆を執って書いたか、それとも口述して弟子に筆記させたか、それは分からないが、とにかく文章になった。そしてその文章を我々は読んでいるのであるが、文章になったものから遡って、イザヤのその時の体験に到達することは決して容易ではない。だから、我々はイザヤの体験をすぐ傍で感じとれたかのように捉えたと思わない方がよい。我々の理解力は貧しく、事実の全貌をあるがままに把握したとはとても言えない。しかし、理解力が貧しいことによって裁かれるのではない。把握が出来ていなくても良いのである。
 要点だけ分かれば良いのである。そして、要点の第一として、神が聖なるお方であることが捉えられねばならない。この第一の要点を我々によく分からせるためにあるのが、前回学んだ中に記されていたセラピムたちの呼び交わす声、讃美の声である。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
 ここで学び取らねばならないのは、神が聖であることについてすら、我々の、またイザヤの理解力は混乱し、濁っていて、よく捉えられないということである。そのため、セラピムの言葉によって、これこそが聖なることだと教えられる必要があったということである。
 「聖」という観念は我々の間でしきりに論じられる。聖という言葉はキリスト教用語、また聖書用語として最も頻繁に使われるものの一つである。だから、我々は基本的には分かっていると思っている。そう思ってはならない、とは言わない。それを、とにもかくにも、自分自身の言葉で言い表すことが出来る程度に分かっている必要はあるし、御言葉はそれを教える。しかし、よく分かっていると思い上がることは危険だ。まだまだ分かっていないことを弁えなければならない。
 「聖なるかな」という言葉を、我々が全然、あるいは殆ど分からないままで、口先で、人まねで、あるいは機械的に唱えているというのではない。この言葉はセラピムによって、もっと一般的に言うならば、神の御旨によって我々に遣わされた御使いによって、先ず語られて、それを我々が、謂わば口真似で唱えるようになったものである。
 今言ったことは、我々の唱える讃美の言葉としての「聖なるかな」、また我々の語る証しの言葉にある「聖」という言い表わし、これが偽りだという意味ではない。本物でないから、黙った方がまだましだと言うべきではない。これは神から遣わされた御使いによって我々の口に入れられたものであり、神がこの讃美を受け入れておられると信ずることは大事である。譬えて言えば、幼児が親の口真似をして言葉を身に着けるように、我々は神の国の言語を、口移しに覚えさせられ、十分分かっていないけれども、しかしある意味では分かって、使いだしたようなものである。それは決してウソの言葉ではない。けれども、本物に成りきったとは思わない方が良い。
 さて、神が聖でいますとは、それと対照的に、我々自身が何であるかを捉える時に、かなりキチンと分かって来るのである。つまり、自分が何であるかが分かっていないうちは、神が聖でいますとことは、分かったつもりであったとしても、基本的なことすら分かっていないのである。神を知ることと、自分自身を知ることとは結び付いているということを我々はしばしば教えられている。そこで、要点の第二に進まねばならない。神が聖でいますのに対して、我々は滅びるほかなき汚れた罪人なのである。そこから今日は学び始めるのである。なお、この第二点に続く第三点として、この罪がどのようにして解決されるかという問題があるが、今日はそこまでは入ることが出来ない。
 4節5節に入って行く。「その呼ばわっている者の声によって敷居の基いが震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時、私は言った、『禍いなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に住む者であるのに、私の目が万軍の主なる王を見たのだから』」。
 「敷居」と訳されている言葉はそう訳すのが正しいのかどうか、よく分からない。戸口の柱のことではないかと言う人もいるが、やはり確かなことは分からないし、分からなくても大した不都合があるわけではない。
 セラピムの呼ばわる声によって、敷居の基いが震い動くのが感じられたというのである。この声自体は神讃美に相応しい麗しい響きであった。神の耳には麗しいのである。地を揺るがす荒々しい響きではないはずである。が、それが地を震い動かすのである。呼ばわる声による空気の振動で、建物も、床も、地面も、震い動き、足元から動かされたということであろう。神の臨在が地震を伴ったのである。あるいは地震によって象徴されたのである。
 地震というものは、我々の住んでいる地方には頻繁に起こるので、我々は気にも留めない。しかし、地震が稀にしか起こらない国の人にとっては、地震は存在の基いを揺り動かされることを実感させる恐怖の体験である。実は、この時、地震でエルサレムに被害があったという記録はない。だから、地震は実際にはなかったと言う人もあろうが、特にそう言う必要はないであろう。そのことよりも、イザヤが聖なる神の前に立つ時、存在の根底を揺り動かされる個人的体験を持ったということに重点が置かれていることに注意しなければならない。
 預言者の負っている課題を個人的なものに解体しなければならないというのではない。預言者は世界を見ており、国家を相手にする。ただし、預言者としての召しは個人的に存在が根底から揺るがされると体験したところから始まる。それがなければ、預言者ではなく、評論家なのである。
 アモツの子イザヤがこの体験をする時まで、どういう歩みをして来たかについて、よく分かっていない。6章に至るまでに記されていた預言は、実際は6章の召命の事件の後に与えられた言葉であったのかも知れない。あるいは、6章の召命から預言者活動が始まったのが事実であって、後から与えられた言葉が先の章に書かれたのかも知れない。しかし、そのことは今はどちらでも良い。ハッキリしているのは、これがイザヤの生涯における最初の恐怖体験であったということである。
 神を覚えるのは心地よいことであると考えている人は、ここで考えを覆される。偶像と同じ程度の神しか持たない者は、思いのままに神を作って良いと考えているから、神によって自分の存在が揺すぶられることには思いも及ばないであろう。しかし、生ける神と対面することは恐るべきことである。預言者として立てられる者は生ける神の恐れを知った者でなければならない。
 イザヤは祭りでない日に、一人で神殿に礼拝をしに行って祈っていたのであるから、祭りの日だけ神殿に行って供え物をする月並みの信者ではなく、自覚的で敬虔な信仰者であった。6章までに記された預言がこれ以前のものであるかも知れないと言ったが、エルサレムの上層部の腐敗に対し神が裁きを下したもうことは、以前も当然理解していた。しかし、自分自身の存在が神の前で根底から揺り動かされ、崩れて行くことは、理念としては分かっていたであろうが、体験にはなかったのではないかと思われる。
 「禍いなるかな!」という言葉はここに至るまでに、5章だけでも何度も出た。しかし、これまでは、「私は禍いなるかな!」という言い方ではなかった。他人ごととして言ったのだ、と批判的に言うわけではないが、同じ滅びでも、自分の場合と他人の場合とでは意味合いが違うのである。
 神が聖でいますことが明らかになる時、人はこういう体験をするのである。裁判官が裁判を曲げて、富んでいる者に都合の良い判決を下し、貧しい寡婦や孤児はますます踏みつけられるというような事実を見ると、正義感のある人なら、義なる神の審判を思い、その神の御意志を伝えなければならないとの思いに駆り立てられないではおられないであろう。しかし、自分自身の存在が滅びると感じることはない。反省する力のある人なら、道を踏み外して自堕落に陥っている人を見る時、自分も間違いを犯していないかと反省する。しかし、単なる自己反省は、自分で気付く範囲の問題についての反省であって。自分の存在が根底から揺らいでいる危機を感じる畏れとは全く別次元のことである。
 我々はこの世で市民生活を営む者として、当然、社会の不正に対して怒るし、行動を起こす。しかし、社会の不正に憤る正義感の持ち主が、神礼拝に集まっていると考えるのは正しくない。否、ここには、聖なる神の前におののく人々が集まっているのである。そうであってこそ礼拝なのであって、その恐れがないならば道徳の授業に出席しているのと異ならない。
 イザヤは言う、「禍いなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に住む者であるのに、私の目が万軍の主なる王を見たのだから」。
 聖なるお方の前に汚れた者が進み出ることは、滅びを招く禍いであると人々は昔から素朴に感じていた。そういう戒めが定められていたわけではない。基本的なことを定めた十戒の中にそういう項目は含まれていない。細かい規定で、汚れに触れてはならないという意味のものは沢山あった。だが、主イエスはそれらの禁を無視された。我々も主イエスが拓きたもうた道を行くのである。汚れた物、汚れた人、と言われるものは我々にはない。何を食べても良いし、どんな人と交わっても良い。信仰ある者には全てが潔いのである。信仰なき者には全てが汚れている。
 最も根本的なことを言うならば、イエス・キリストはまことの人となって世に来たりたもうた。そのお方が「私を見た者は父を見たのである」と言われた。であるから、神と人との隔たりはなくなり、神と出会う恐れをもはや味わうことはなくなったと言えるようになった。
 しかし、聖なるものと汚れたものとの区別は廃止されたのではない。区別はかつて教えられていた見える形ではなくなっただけである。神は依然として聖なるお方である。モーセがホレブで神のいますところで、火が燃えているのに柴が燃えつきてしまわないのを不思議に思って、見定めようとちかづくと、「ここに近づいてはいけない。足から靴を脱げ。ここは聖なる場所である」と言われたことが出エジプト記3章に記されている。聖なる場所という特定の場所が定まっているのではないが、神は聖であり、神のいます所は聖である。このことは根本的には同じである。
 クリスチャンと言われる者の中でも、我々のプロテスタントの信仰者らは、聖なる場所や聖なる建築、器物、人物を定めることは根拠なきこと、すなわち迷信であると扱うことに徹底している。しかし、旧約の人たちが守った聖なるものに触れないという規定が全て迷信であったとは思わない。丁度、子供に理由を分からせることをしないで、ただ禁止するということがあるように、かつて神の民にそういう時期があった。その段階みはそれで良かったのである。この区別はイエス・キリストが来たりたもうたことによって撤廃されたが、今も聖なるものと聖でないものとの区別は、目では見えないけれども、ある。霊の目はそれを見る。これが分からなくなったならば、信仰ではなく、キリスト教まがいの思想に過ぎない。そういう人は、恐れるべきものは何もないと言って、ついに神を恐れなくなった。しかし、そういう人は、何もない時には気軽に楽しそうに振る舞うが、ことが起こると。恐るべからざる権力や世間の動向を恐れ、人の顔を恐れる。真に恐るべきお方だけを恐れないとこういうことになる。
 イザヤが御座にいます神を見たのは、幻覚ではない。現実であった。見たのは御座に座したもう主なる神、聖なる神、それに仕えるセラピムたち、栄光をとりまく煙であったが、見たというのは、見えないことの現われとして見たこと、信仰によって見たことであって、目で見る以上の大事なものがあることを見たのである。これを無視してはならない。聖なるお方の前には見えなくても恐れがある。
 イザヤは聖なる神と、唇の汚れた人間とを対比して、この二つをくっつけて並べるのは余りに畏れ多いとした。サムエル記下6章に有名な事件が記されている。ダビデが神の箔を牛の引く車に乗せて運ばせた時、牛が躓いたので、車のそばを歩いたウザが箱を守ろうと手を伸ばして箱を押さえた。たちまち神に撃たれてウザは死んだ。彼は神の箱を損じてはならないと考えて押さえたのであるが、それは神の聖なることに対する侵害、介入であった。そのことをイザヤは知っていた。あるいは、この時に悟らされた。
 彼の目は聖なる神を見ている。しかし、現実には唇は汚れている。その不釣り合いに気付いて愕然としたのである。
 彼は「汚れた唇」という言い方をした。人間の汚れを唇の汚れとして捉えることは理解出来るであろう。主イエスも口から出るもの、すなわち悪しき言葉こそが人間を汚すと教えたもうた。それと同じ主旨の言い方であると思われる。ただし、イザヤがここで用いる「汚れた唇」という言い方は、特徴ある言い方であって、聖書にも他の預言者にも余り例がない。しかし、意味は説明するに及ばない。
 イザヤにとって、汚れた唇から出る汚れた言葉が気になっていたのかも知れない。自分の汚い言葉も気になる。周囲の人たちの汚れた言葉はいっそう気になる、ということがあったのではないかと考えられる。我々にも似たことがあるから、気になる。だが、余り突っ込んで言葉の汚れの問題について考えることは控えておく。
 単純に考えられて良いが、イザヤはセラピムの言葉との対比に気付いた。セラピムの讃美は聖なる万軍の主の讃美に相応しい潔いものである。これは単純に頷ける。それと比較して、自分の言葉の汚さがハッキリ分かる。そして、言葉が汚いとは言葉の出所そのものがすでに汚れ、その環境も汚れているからであると認めないわけには行かない。
 汚れた唇の民のなかにいることが如何ともし難い難問題だと言っているらしく思われる。今日の我々も周囲に心なき人々が多くて、真理の言葉が通らないので、もうどうにもならないではないか、と周囲の人々に責任を帰してしまい勝ちである。
 イザヤ個人の唇の汚れは、次の段階でセラピムの一人が炭火を運んで来て、汚れを焼ききって浄めてくれて解決する。では、唇の汚れた周囲の民の問題はどうするのか。セラピムは何もしてくれない。今この点について、これ以上は触れないで置く。唇の汚れている本人については、罪の赦しを得させた上、派遣したもうが、周囲の人々の唇の汚れは預言者が遣わされる前提として解決されるものではない。これは預言者の務めが始まってから取り組んで行くべき課題なのである。その前に預言者たるべき者は神の栄光を見て、震えおののかねばならない。

 

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