2004.07.25.
イザヤ書講解説教 第21回
――6:1-3によって――
預言者イザヤの召命の出来事を今日から学び始める。召命の日のことであるから、ここに書かれている言葉は、預言者イザヤの最も早い時代の預言である。それでは、イザヤ書では、なぜ6章で初めて召命が語られるのか。これまでの章で聞いて来た預言は、召命の後のどの時代のものかという問題が起きる。
イザヤ書1章1節には、「アモツの子イザヤが、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世に、ユダとエルサレムについて見た幻」と書かれていた。ウジヤ王の治世には活動をしていた。だから、死んだ年から活動を始めたのではなく、以前から活動していたと見ることは出来る。
今言った問題と同じ議論になるのであるが、これまでの章に収められていた預言は、6章の召命の時までに語られていたものではなかったのか、と言う人もいる。すなわち、イザヤはすでに預言者としての活動を行なっていたが、ここで、新しい預言を受け、預言者活動の新しい転機を迎えたのではなかったか、と考えることは出来なくない。それが正しいのかも知れない。しかし、確かな事情は我々の知恵では分からないから、いろいろと推理を巡らさねばならず、収拾がつかなくなる。その時代のことを、あれこれ調べるのは、決して無駄な労苦でないと思うが、今は、記されたままの御言葉を単純に読むことに精神を傾けよう。
「ウジヤ王の死んだ年、私は主が高く挙げられたみくらに座し、その衣の裾が神殿に満ちているのを見た」。
先ず、「ウジヤ王の死んだ年」という日付である。この年に、イザヤは預言者としての召しを受けた、と普通には見られている。それは我々が今日用いている暦でいえば、キリスト紀元前742年であったと思われる。
ところで「ウジヤ王の死んだ年」とは、死んだあとなのか、死ぬ前なのか。どちらとも取れる。また、この言い方は、時代の状況を理解させるためのものか。それとも、ただ年代を示すだけのものなのか。――時代のことに深入りしたなら、キリがないから慎重にあつかわねばならないという意見が一方にあるが、他方また、預言者が時代の状況と無関係に語っていたと見るのも健全な見方ではないであろう。そこで、その状況が我々に的確に読み取れるかどうかは別として、列王紀下15章1節から7節にアザリヤという名で述べられている王の記録、また歴代志下26章に列王紀よりもかなり詳しく記されている記録を、読まないわけには行かない。こうして、このウジヤ王の時代について、視野に入れて置かなければならないと考えられる。
ウジヤ王はアマジヤ王の子である。アマジヤは主に背いたので、ユダの人々は団結して王を廃位して、追放し、また殺した。王は神によって立てられたのであるが、神によって立てられたことの実質を失ったという理由で、人民によって廃位されたのである。その事件について、神は怒りたまわなかったようである。
ウジヤは王となってから、父を殺した者たちに対する報復を企てることはなく、職務に励み、国力を伸ばし、産業を盛んにし、軍事力も大いに強化したのであるが、その52年に及ぶ治世は、よいことばかりではなかった。晩年になってから、慢心によって神に対して罪を犯し、本来祭司のものである香を神の前で焚く務めを、自分の職務としようとした。そこで、即座に呪いを受けて、死ぬまでライ病を患うことになり、隔離された。このような状況がウジヤ王の治世であったが、その状態の国をどのように捉えるかについては立ち入って論じることはしないでおく。
さて、中心的なことは、イザヤがある日、高く挙げられた御座に座しておられ、衣のすそが神殿に満ちている主を見たことである。この主が召し、派遣したもう。
イザヤにとって、神を見る経験は初めてであったに違いない。だから、イザヤは、5節にあるように「ああ、我は禍いなるかな!」と叫んだのである。神を見たことは禍いである、とイザヤが殆ど反射的に叫んだのは、単に感覚的にそのように感じたというだけのことではないであろう。神は十誡の第二誡において、ご自身の像を見える形に刻んで、それを拝むことを固く禁じておられる。「神を見た人は一人もいない」とヨハネ伝1章にあるが、本来、神は見ることの出来ない霊的存在であられ、人となって世に下られた御子によってご自身を顕したもうたのであるから、神を形に表わすことも、形として見ようとすることも許したまわないのである。
我々は神を信じているが、我々の中に、神を見た人はいない。しかし、神を見ていないから信仰が一人前になっていない、というふうにも考えていない。神を見るように修練をしなければならないという主張も我々の間にはない。神は目に見える姿によってご自身を啓示したもうのでなく、御言葉を聞かせることによって、ご自身を我々に示し、またご自身を我々に与えて、我々との交わりをなしたもう。したがって、我々はどこかで誰かが神を見たという事実があってもそれを軽蔑することはないが、神を見る体験を重要視する必要はないと言い切って良い。
ヨブ記42章5節で、ヨブは「私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを見たてまつります」と告白を捧げている。神を見るのは最終段階のことである。それまでは、ずっと聞くだけなのだ。そして、聞くことによって信じ、聞くことによって救われる。聞くことから見ることへの転換を焦ってはならない。
ただし、今聖書で読んでいるように、神がご自身の姿を現わすことを宜しとしたもうた場合については、それをキチンと見て置くようにしたい。それは我々も神を見なければならないという意味ではない。
ところで「見る」という言い方の、預言者における特殊な意味もここで考えなければならない。「見る」というのは「示される」というのと同じことであるが、預言者は見たことを語る者である、としばしば言われる。イザヤ書2章の初めに、「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された幻」と書かれていたことを我々はよく覚えているであろう。信仰者が信仰の歩みの最終段階で神を見るということに先ほど触れたが、預言者の場合、少し違う面がある。預言者は「見る人」とか、「幻を見る人」とか言われる。もっとも、幻としてであっても、神を見ることはそう多くないかの知れない
神は預言者に語るべき言葉、すなわち「託宣」を授けたまい、それを預言者が、謂わば口移しに語るという場合がある。そのほか、もう一つ、神が「幻」あるいは「夢」を預言者に示し、預言者が見たことを語るというタイプがある。イザヤ書6章の預言には第一第二タイプが交じっている。
イザヤが神の尊厳を見た事実は軽々しく扱うべきことではないが、彼が神を見て、その見た神の姿を描写して、我々に伝えている、というふうに、目撃したことを伝達したというのでないことに注意したい。実際、彼は顔を被ったようである。神をジックリ見てはいない。彼が神を見たのは、神の形や色を観察したという意味ではないし、また神の本質を直視したというのでもない。むしろ神の尊厳、その現実性に触れたという意味である。
神の尊厳について、我々は一応のことは知っているつもりであるかも知れない。だが、それはせいぜい知識として知っているというだけのことではないだろうか。神の尊厳を知ったなら、その命令には恐れ畏んで従わなければならないが、そうしていない。守らなくても何とも思っていない。それは、神の尊厳を言葉として、観念として知っているだけだからである。観念が現実性を獲得する時、信仰は力になる。それは、必ずしも神を目で見るという体験を経なくても良い。
預言者が神の幻を見る場所が特定されているわけではないが、イザヤが神を見たのは、神殿においてであった。礼拝に行って、祈っている間に、予期しないのに、こういうことを見たということであろうと思う。その場所は神殿の奥の、祭司しか入れない聖所と呼ばれる聖なる所でなく、まして大祭司が年に一度しか入れない至聖所でもない。すなわち、普通の信仰者が行く祭壇の手前であった。
昔から伝えられた旧約の信仰では、神は至聖所の中の契約の箱の上に、すなわち、「贖罪所」と呼ばれる箱の蓋の上に栄光を顕して、民と出会いたもうことになっていて、この箱の置かれている所が「会見の幕屋」と呼ばれたが、この贖罪所の上には、2つのケルビムが両方から翼を伸ばして覆い隠し、栄光の現われが人々にとっての破滅にならないように、これを隠していた。イスラエルの人々の理解では、至聖所にいます神は隠された神である。形を思い浮かべることも出来ない。栄光そのものは、ケルビムの翼によって隠される、あるいは翼で被われるという間接的な形で顕されたもう。せいぜい、夜は火の柱、昼は雲の柱によってその現臨したもうことを象徴したもうのみであった。
それに対し、ここでイザヤの見た主なる神の御姿はかなり違う。それは先にも言ったように、イザヤがここで見たのは、神の本質を直視するという意味での「見る」でなく、語るべきメッセージのもとになる出来事を見ることだからである。神は「みくら」、すなわち玉座の上に座しておられる。5節には「万軍の王なる主」という言い方がなされる。こういう言い方は古い時代には聞くこともなかった。
「高くあげられたみくら」――これは王座がずっと高い位置にあるという意味であろうか。だから、座しておられる方の姿はよく見えていないようである。また、衣の裾が神殿に満ちているので、王座が高くなっていないと、裾が外にハミ出してしまうのである。
高い地位にある者は長い裾の衣を身に着けることになっていたようである。低い地位の者はスネを出す。地位が高くなればなるほど、裾は長くなり、くるぶしが隠れ、さらに裾を引きずるようになる。ついに最高の地位にある神の場合は裾が溢れるのである。
ユダにおいてもイスラエルにおいても、王の権威はどんどん拡張されて行った。先に見たようにアマジヤが斥けられるという実例はあったが、王権そのものは強化される。まして絶対者なる神を知らない他の国においては、さらに甚だしく、王は殆ど神の位置に高められるに至る。この観念がユダの国にも入って来て、神を玉座に座る王になぞらえるようになったのである。
したがって、イザヤ書のこの箇所には、地上の王をモデルにしたような形で神が描かれていても、ここに描かれた通りに神を思い描くことは要らない。地上の王を手がかりにするのであるが、地上の王よりも遥かに大いなる王でいます神を考えれば捉えやすいということであろう。
「セラピム」という動物が登場する。天使の一種、あるいはその一階級だと解釈する人もいるが、これは6つの翼を持つと言われる。その2つづつが対になって、三つの機能を持つ。これは怪物である。その形については、文章の説明だけではよく分からない。民数記21章に、神に対して呟いた者は蛇に噛まれて死んだことが書かれているが、この蛇がセラピムの名の起こりである。神から遣わされて背く者に刑罰を執行したので、ある意味で御使いに相当する。
なお、この民数記の事件の続きで、民衆が悔い改めて蛇の禍いを取り除いて欲しいと願った時、モーセが青銅の蛇を造って、民等がこれを仰ぎ見ることによって蛇に噛まれた者も癒され、禍いを免れた事があるが、この場合、蛇が禍いを取り去る役割を果たすという意味を持つ。この蛇がセラピムの原型ではないかとも言われる。
また、別の解釈ではセラピムという言葉のもとは「燃える」という言葉であったと言われている。
イザヤの見た幻では、セラピムは専ら神を誉め称える役割に徹していることが分かる。6つの翼のうち「2つをもって顔を被い」というのは、神の栄光の眩しさに耐えられないことを意味する。次の「2つをもって足を被い」というのは、足の汚れが神の栄光を汚さぬため、あるいは足をむき出しにする不作法を隠すためである。「2つをもって飛びかけり」その讃美は、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」という言葉である。
「万軍の主」という呼び名は、最も古くからのものではないと思う。神ご自身がその名を明らかにしたもうた時、これは出エジプト記3章であるが、ただ「主」とのみ名乗りたもうた。「主」と訳されているが、言葉の意味がそうだというのではなく、訳すことの出来ない固有名詞「ヤーヴェ」をこう訳したのである。
もとはただ「主」であったのだが、後の時代に「万軍のヤーヴェ」と呼ばれるようになる。「万軍」とは天の万軍という意味であって、天使と天体を含めて、天にある被造物を指し、「万軍の主」とは、その万軍を創造し、支配し、用いたもう方という意味である。我々が主の祈りの中で、「御こころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る時、「天になるごとく」というのは、天の万軍がすでに全面的に服従して御心を実現しており、まだ服しないままに残るのは、地上の被造物だけである。これが速やかに服するように、という意味を籠めている。
2節3節の本文をまで読み上げていなかったので、そこに戻るが、「その上にセラピムが立ち、おのおの6つの翼を持っていた。その2つをもって顔を被い、2つをもって足を被い、2つをもって飛びかけり、互いに呼び交わして言った、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』」。
セラピムは複数形である。幾ついるのかは見当もつかないが、多数であることは明らかである。すなわち、その呼び交わす声によって、神殿の敷居が揺れ動くほどの大音響であったと記されているからである。彼らは互いに呼び交わしつつ讃美した。2組あるいは数組に分かれて交唱したということであろう。
その讃美は「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と3回唱えるものであった。3回繰り返さないなら、主の聖なる崇高に達しないと考えられたのであろう。必ずこうでなければならないという訳ではないが、教会の讃美では、「聖なるかな」を3回繰り返すしきたりになっている。讃美歌66番がそうであり、また例えば、黙示録4章8節がそうである。
この聖なる神が預言者を召し、そして派遣したもう。その派遣の召しと使命の内容には今日は触れられなかったが、この「聖」ということから預言が始まるのである。預言者は使命を感じて働いたのではない、勿論、使命は感じていた。しかし、使命を感じたから語ったのではく、聖なる神が召し、そして派遣したもうたから行ったのである。